2-2 医務室の来訪者

 長い距離を走ってきたのだろう。額から頬にかけて汗が垂れている。

 偃月はわたしの存在に気がつくと、血相を変えて近づき、そして背中を摩り始めた。

 突然のことに驚くよりも、これまで堪えてきたものが溢れてしまう恐怖にわたしの顔色は段々と青褪めていった。


「……ぃや……っ」

「嫌って、このまま気分が悪いのは体に良くないよ。出して楽になろ?」


 偃月の優しい手がゆっくりと上下に動く。誘発される苦しさに生理的な涙が頬を伝った。


 そういえば昨日から何も口にしていない。荒れた胃から吐き出されるのはきっと血液だろう。そんな、一瞬の迷いが仇となることを知っていたわたしの体は正直だった。

「……うっ」と小さく声を漏らしてしまったが最後、わたしの口からわたしの意思など関係なく、ポタポタと液体がこぼれ始める。


「よしよし。大丈夫、上手に吐けてるよ」


 背中越しに伝わる彼の手の温度に、安心してしまう自分がいる。


 無理やり吐くことをしなかったからだろうか。

 吐き出されたものの色が透過していたことに、わたしは涙が止まらなかった。



 一通り気持ち悪さを吐き出したわたしは、体から力の全てが奪われたような脱力感に襲われた。ぐらりと傾いた体が床に向かって倒れていく。しかし寸でのところで偃月が支えてくれたので、床に倒れることは免れた。


「もう気持ち悪いの無い?」


 偃月がわたしに訊く。少し考えて、まだちょっと胸がざわざわしているような気もしたけれど、先ほどまでの気持ち悪さは無かったので頷いて肯定する。すると偃月は「そっか」と温かい笑顔を見せて、桶の中身を早々に片した。


「さっきね、王さまに会ったあと、苦しくなって倒れちゃったんだって。憶えてる?」

「……はい」

「体調が悪かったなら、雨月に言ってくれれば王さまに会うの違う日にもできたんだよ?」

「でもっ、それは……」


 それはつまり、わたしのためにわざわざ氷月が時間を割くということ。

 とても忙しい人だ。薄い記憶を辿って見えた、王室の机上にあった書類は山のようにこんもりと積まれていた。

 それに〝王〟という立場にあれば毎日が激務に違いない。父もそうだったのだから。そんな中で少しの空いた時間を、彼はわたしに設けてくださったのだ。

 そしてわたしはそれを無駄にした。


「そんな、申し訳ないこと……お願いできません……」


 あれだけ人様に迷惑をかけたのだ。もうここにいることは許されないかもしれない。それだけの無礼を働いた。


 いられなくなるのなら、せめて『花都』には戻りたくない。


(それに、わたしがここへ来たである『お務め』のことは、絶対に彼らには悟られてはいけない……)


『お務め』を為せず戻ればどうなるか。容易に想像ができた。だから、余計なことを口走ってしまう前に、どこか枷でも付けられて人質として牢に囚われていた方が気楽だと思った。


 俯きながら、どうこれからのことを伝えようかあぐねいていると、再び医務室の扉が開いた。


「随分と、仲が良いんだな」

「っ、氷月国王陛下……‼」


 噂をしていた人物の突然の来訪に息が詰まる。

 感情の読めない氷月に、元から無い信用をさらに失ったような感覚に戻ってきていた血の気が再び引いた。

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