後編 幸せを迎えに
『葉都』との一件から、はや数ヶ月が経過しようとしている。
緑黎は毎夜氷月との甘い夜を過ごしているらしい。もはや心地よい痛みに幸せすら感じるのだと、心から幸せそうな顔で教えてくれた。
わたしには大人な話すぎてよく理解できないけれど、彼女が幸せそうなら何でもいいと思った。
変わったことと言えば、蟒蛇が最近大人しいことだ。
これだけわたしが幸福であるというのに一向に
「——緑黎様!」
姿を現さないことに不穏な空気を感じつつも、今日も緑黎と共に過ごしていると、突然緑黎がわたしの目の前で倒れた。
わたしは気が動転して、そのまま過呼吸を起こして気を失った。完全に落ちる前に、妙に冴えた頭は侍女たちに迷惑を掛けてしまうことを後悔した。
……そういえば、気を失う前に、蟒蛇の姿を見た……気がした。
~❀~
「結論から言うとね、わたくし、陛下との子を身籠ったの」
わたしのこの力が、彼女を救ったのだと知った瞬間だった。
医務室で目覚めた時、隣の寝台に緑黎がいた。時間は双方が倒れてからそこまで経っていないらしく、医務室の窓からは夕暮れの光が射し始めていた。
緑黎の顔色は悪くない。どこか優しい顔をして、自身の下腹部に手を触れている。
「…………世継ぎ……?」
「ええ、そう。世継ぎね」
まだ信じられないんだけどね、と微笑む緑黎に、見知らぬ母の面影を重ねた。
「おめでとう、ございます?」
「ふふ、ありがとうございます」
和やかで柔らかい雰囲気が室内に広がっている。
少しして、外から慌ただしい足音が聞こえてきた。何事かと思いながら警戒していると、勢いよく扉が開いた。そこに現れたのは氷月だ。
「緑黎」
「あなた」
二人は互いを呼び合っただけ。たったそれだけのことなのに、何が伝えたかったのかが理解し合えていた。夫婦という絆は、それほどまでに強く結びついているのだと、気づかされた。その関係に、少しだけ、羨ましいとさえ思ってしまう。
氷月は緑黎を労わるようにして抱き締めた。緑黎も、氷月を愛おしそうに抱き締め返した。
心のどこかで諦めていた、けれど諦めきれなかったであろう世継ぎの夢。念願叶って、彼ら夫婦のもとに宿ったのだ。それがどれほどまでに嬉しいことか。
(望まれて、生まれてくることの)
なんと幸福なことか。
わたしは黒く滲んでいく心が醜く思えて、何故だか泣きたくなった。
不意に肌を撫でる悪寒に、俯けていた顔を上げる。蟒蛇が扉の前に現れた。こちらへ来いという意味なのだろう。
「わたし、もう大丈夫なので、行きます」
一言伝えて、医務室を出る。一秒でも早くこの場所から逃げ出したかった。
ああ、そうか。はたと気づく。
わたしは「幸せ」を知りたくなかったんだ。
~❀~
回廊に出れば、蟒蛇が嗤いながらわたしを見下していた。いつもなら蟒蛇の不気味に光る瞳に恐怖を感じるのだが、今日はなんだか、その光が妙に心を落ち着かせた。
『キキ、情けない顔をしているなァ』
「…………」
『キキキッ』
「ありがとうございます」
わたしは蟒蛇に、らしくないことをした。もちろん、自覚しているし、分かっていてわたしは蟒蛇に対して頭を下げた。
『……ンー?』
蟒蛇は嗤うことを止め、真っ直ぐに、怪訝そうにしてわたしを見つめた。まるで心臓を射抜くかのような眼光に息を呑む。けれど不思議とそこに恐怖はなかった。
「緑黎様の呪いを、吞み込んでくださり、ありがとうございます」
『アァ……あれはただの気まぐれ。次もあると思って甘えるなヨ? キキッ』
「……」
『それに、代償は大きかっただろウ?』
独特な含み笑いが耳障りだった。じとりとした視線の先にあるものはわたしの下腹部だ。
『ワタシもバカじゃあない。器であるお前が死ぬことは何より避けたい……だが、今回は上手くいったようで安心したヨ。まさかワタシの毒を二つも保有できるとはネ』
緑黎の呪いを解くためには必要だった。わたしが受けた代償は、呪いを自身に移すことだった。今わたしの下腹部には緑黎の持っていた呪いの痣も刻まれている。
『こうして命があるのは、ワタシの毒が馴染んでいる証拠ダネ。いよいよ
——こうした『犠牲』は、わたしの役目だ。
「あの」
『まだ何かあるのかイ?』
蟒蛇は半ば呆れた表情で深く息を吐いた。言いたいことは言ったからわたしの中に戻ろうとしていたのだろう。わたしは、それだけでは蟒蛇に対するお礼にはならないと考えていた。
「……この体を、お使いください」
わたしの言葉に、その鋭い月の目が開く。
『どういう意味カネ?』
「わたしの願いを叶えてくださった、せめてものお礼を考えておりました。今夜は……この体をお好きにお使いください」
『キキッ、今夜お前を乗っ取ったとして、そのままこの国の民を食らわないという保証は無いヨ?』
「今のあなたに、そのような企みは見えないから」
『……』
蟒蛇は少し考える素振りを見せた後、何の前触れもなくわたしの意識を乗っ取った。
この時わたしは、なんだかとても自己満足を感じてから、世界との繋がりを切った。
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