接続章 幸せを迎えに

前編 ❅幸せを迎えに

 回廊を進み突き当たりを曲がったところで、氷月は行き場のない感情を必死に胸の中へ圧し込めていた。


(あんな……。花のような笑顔を見せることもあるのだな、あの娘は)


 愛おしいと、思ってしまった。

 否、これは恋慕の情ではない。愛してやりたいという〝父性〟のような感情だった。


 妻である緑黎が言っていたことを氷月は思い出す。花檻という娘は「愛される」ことに臆病であると。

 あの境遇下だ。親から愛されることはおろか、誰からも存在を知られることなく、生ける屍のようにしてあの国で過ごしてきたのだろう。想像するだけで胸が痛む思いだった。そんな彼女を迎え入れた氷月は、彼女を幸せにする責任があると考える。

 生涯妻とする者は緑黎ただ一人と誓っているため、養子として正式に迎え入れるか、はたまた別の形で彼女を愛してやりたいと、この数日を通して氷月は花檻姫について色々と考えていた。


「あら、陛下?」

「緑黎」


 考え事をしていたから、声を掛けられるまでその存在に気づかなかった。振り返ればそこには緑黎が小首を傾げて氷月を見つめていた。


「どうかなさいましたの? そんな切羽詰まったような顔をされて」

「ん……。少しな。……お前の方は、苑葉義兄上との茶会はどうした?」

「もうお開きになりましたわ。あれでも一国の王……お忙しい方ですから」

「そうか。楽しかったか?」

「はい。とても、有意義な時間でした」


 本当に楽しむ時間を過ごせたのだろう、緑黎が優しく微笑んだ。

 氷月は、彼女の微笑む姿が好きだった。この世界の何よりも、美しいと思っていた。


「それは、良かったな」



 王とは、常に厳格であらねばならない。



 その教えを誰よりも、何よりも深く心に刻み続けている氷月は、その努力の甲斐あって王としての威厳をこんにちまで保ち続けていた。

 そんな『氷の王』と揶揄される彼の心の支えは、こうして花のような妻がいてこそもたらされている。



 緑黎が何かを言いたげにしていることには、鉢合わせた時から気づいていた。

 こういう時、氷月から問うことはしない。言いたくないことであれば言わなくてもよいと日頃から皆に伝えているためだ。

 言葉の天秤は人に寄りけりである。気になる変化だが、緑黎が気を遣うことならみずから訊くことはしない。氷月は黙って緑黎を見つめた。

 少しして、緑黎が覚悟を決めたような顔をして氷月と向かい合う。


「陛下……今夜、陛下のお時間をわたくしに頂きたいのですが……」

「? 別に、構わないが」

「ありがとうございます。それでは後ほど」


 失礼いたします、とその場を離れ去った緑黎の表情は、何故か恥ずかしさが滲む赤に染まっていた。夜を共にすることなどいつものことではないか。わざわざ改めて言うことでもないだろうと彼女に言いたくなったが、その言葉を今の彼女の背には掛けられなかった。



 ~❅~



 日が沈み切った夜。執務を終えた氷月は寝室へと向かう。

 寝室の扉を開けると、中では不安げに俯き寝台に腰かけている緑黎が見えた。氷月は彼女の隣に座り、できるだけ寄り添う形で優しく訊く。


「……今日はいかがした? 何か、不安なことでもあったのか?」


 何が不安なのか、それが心配なのだ。何年共にいようと、所詮は他人同士。心が全て読めるわけではないのだ。惚れた女の悲しむ顔はできる限り見たくない。できるだけ早く、彼女の中に巣食う不安は取り除いておきたいところだった。


「……あの」

「……ん?」

「あの、陛下……。……わたくし、はしたないことを今から申し上げます」


 ただならぬ空気に、流石の『氷鷹』の王も息を呑む。氷月は小さく「ああ」と頷いた。



「わたくし、陛下と————夜伽よとぎをしたいのです」



 静寂が夜に溶け込む音がした。

 緑黎から放たれた言葉は、思ってもみなかったものだった。あまりの衝撃に、氷月は目を見張った。俯けていた顔を上げた緑黎の瞳は潤みを帯び揺れている。相当の覚悟を持って氷月に告げたことが、彼女の様子から窺えた。


「……嫌、ですか……? こんな、はしたないわたくしなんて……」

「嫌というより……お前が苦しむ姿を、見たくない」


 氷月の大きい掌が緑黎の右頬を優しく触れる。

 氷月が懸念しているのは、きっと初夜のことを思い出しているからだろう。だが、当の緑黎は初夜と同じ過ちは起きないことを

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