5-7 変わり咲く花
ふと彼からの問いについて考える。欲しいものは無いか、と訊かれたことがなかった人生だったために、いざそう問われると何を答えていいのかも分からない。
「あの、お気持ちだけで」十分です、と答えようとしたその時、不意に視界に入った回廊から覗く庭園に咲く花を見て「これだわ」と思った。
「……花」
「ん?」
「氷でできた、花が欲しいです。偃月が教えてくれました。陛下は氷の魔術で動物や植物を形成するのが得意なのだと」
「……そんなものでいいのか?」
「はい。花は好きです。故郷にも沢山あります。でも、氷で創られた花は見たことがありません。だから、見てみたい……です」
他に欲しいものが思いつかなかったというのも理由の一つではあるけれど、氷の花が見たいのは本心だった。しかし思い切って言葉にしてみたはいいものの、いざ答えてみればなんて子供みたいなお願いだっただろうと恥ずかしさが襲ってくる。わがままを、言ってはないだろうか。困らせてしまってはいないだろうか。そんな不安の波が、彼の沈黙によってドッと押し寄せてくる。
「……そうか。花檻は無欲なのだな」
「申し訳ございません……」
「いいや。謝る必要はない。欲があろうと無かろうと、それが良いか悪いかなんて分からないからな」
そう言うと氷月はわたしの目の前にその大きな掌を差し出して、その上にわたしの手を引き乗せた。少し冷たい空気が触れると、パキパキと何かが凍る音が手から鳴る。次の瞬間には、わたしたちの掌に小さく可愛らしい花が現れた。一瞬のことで驚くこともできず、わたしはただ茫然と氷の花を眺める。
「あの庭園に咲く花も、これと同じように緑黎の好きだという花を真似て作り上げた偽物だ。……これも、あれが好む花だ」
名は『
この人の纏う空気をここまで温かいものにさせる緑黎を、わたしは少しだけ羨ましいと思ってしまった。人の心を動かすことのできる、清い方なのだと。
……この感情は疎ましいものだとも思うけれど、決してそれだけではないはずだ。この国に来て、わたしは少しずつではあるけれど、変わりつつあったからそう思うことができた。
「ありがとうございます、氷月陛下」
わたしは、この人をもっと知りたい。今すぐ偃月のように心を打ち解けることは難しくても、苦手だと感じてきた氷月の纏う空気を、今日までに感じなくなっていた。それはひとえに彼が、わたしに歩み寄ってくれた努力の結果だ。わたしは氷月にその気持ちを返したいと思った。
氷月から受け取った氷の花を眺めていると、彼は不思議そうな顔をしてわたしを見つめていた。
「あの、何か?」
「いや……。そうか。そういう顔も、できるんだな……」
何かを言っていたような気がするが、すぐに彼は口に手を覆ってしまったので上手く聞き取ることができなかった。けれど彼の表情が少し緩んでいるように見えることから、わたしが何か彼の気に障るようなことをしたわけではないようでホッとする。
「……もし今後欲しいものや食べたいものが思い浮かぶことがあれば遠慮なく言ってほしい。私に言えないようなら緑黎や偃月に伝えるといい」
「はい。お気遣い頂きありがとうございます」
「私は執務が残っているから行くが、お前はどうする」
「わたしは……仮部屋に戻って休みます」
「そうか。では、またな」
ふっと微笑んだ氷月はわたしの頭を優しく撫でた。そして気が済んだのだろう、撫でるのを止めるとそのまま回廊を進み、気がつけばその姿は見えなくなっていた。
この回廊のように長い時間が、思い返せばあっという間に過ぎていった気がする。少しずつ、少しずつわたしの中で何かが変わりつつあると胸がざわついている。それは悪いことではない。感じたことのない温かい感覚に戸惑うけれど、これは忘れてはいけないもの。
——もし、わたしが変われたのだとしたらそれは……。
「……きっと、この国の人たちのおかげね」
庭園の花々が、日差しを浴びて煌びやかに咲いている。その中の一輪が、今か今かと開花の時を待ち侘びていた。あれはきっと、わたしだ。
ふと空を見上げる。眩しさに目を細めれば、今日はこの国にとっては珍しい、雲一つない晴天が眼前に広がっていた。
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