3-4 狼煙が上がる前夜
あの後、わたしはすぐに緑黎の持ってきた着物に着替えて、ひとまずの問題は落ち着きを見せた……と思う。偃月の顔はまだ赤く染まり切っていたけれど、わたしが着替えたことを実際に目て見て確認すると、彼はほっと一息ついた。
現在、わたしたちは氷月の王室にいた。
氷月が来るように、わたしと緑黎に伝えたからだ。これからの処遇を下されるのではないかと思ったわたしだけが呼ばれるなら兎も角、そこに緑黎や偃月までもが同席しているのは不思議だった。
つまり、この集まりはわたしの処遇についての話の場ではないということだ。
「偃月……大丈夫ですか……?」
偃月の顔色はまだ赤い。さすがに発熱でもしているのではないかと心配になり、わたしは偃月に声をかけた。当の偃月は慌てて「大丈夫!」と取り繕った笑顔を見せたので、余計に心配になる。
どこかでククッ、と小さく笑う声がした。その声のした方向を向けば、そこにいたのは氷月だった。
「……
「うっさい王さま!」
「たかだか娘の裸体で赤くなるなど……。お前ももう二十二。町娘の一人や二人、囲って遊んだりしたことがあるだろう?」
「無いよ‼ お、おれは王さまと違って独身だもん! 女性とだって、緑黎さまとしかまともに話したことないのに……。そもそも王さまは緑黎さまがいるからそうやって平然としていられるんだもん! お姫さまもお姫さまだよ、恥ずかしくなかったの⁉」
「……恥ずかしい……?」
わたしは偃月の勢いに付いて行けず、問われて戸惑う。この醜い体について恥ずかしいと思ったことはない。それは人の体として扱われた記憶が無いからかもしれないとわたしは考えた。
「分からない。でも……偃月が嫌なことなら、恥ずかしい……と思う?」
「いやそういう問題じゃないんだけど……。まあ、いっか。とりあえずもう裸で外に出たらダメだよ?」
何があるか分かんないからね、と偃月に釘を刺されてわたしはようやく理解する。不可抗力だったとはいえ、あれは「危ない」ことだったのだと。
わたしは偃月に「うん」と頷き返事をする。偃月は「分かったんならいいよぉ」とわたしの髪をそっと撫でた。
指通りの良くなった髪がするりと彼の指で踊る。偃月は少しだけ悲しげに瞳を揺らしていた。
~❀~
「……それで陛下? 偃月だけならば兎も角、何故わたくしたちまで呼ばれたのでしょう? 政治関係は、疎いのですが……?」
緑黎が口を開いた途端、周りの空気が一瞬にして冷えた。それは怒気によるものではなく、どこか不安のような、悲しさに染まった冷たさだった。
「……緑黎。心して、聞いてくれ」
「……? はい」
「『葉都』が、我が国との和平条約を破棄したと、報せがあった」
「————は?」
緑黎の顔から、表情が消えた。
感情の豊かな人からそれら全てが消え失せると、残るのは「無」だ。何も「無」くなった緑黎に、わたしは身震いする。
「どういうこと? 兄上と、戦をなさるおつもりですか?」
「まだ正式に条約破棄が決定したわけじゃない。その話し合いを近くしてくるつもりだ。……その後のことは、分からない」
氷月は『その後のことは分からない』と言った。
それは、戦争に発展するのか、若しくは『葉都』の国王を捕虜として人質に取り、領地拡大のために無理矢理植民地とするのかの二択であるとわたしは推測した。平和的で犠牲が少ないのは後者だ。けれど——。
(ここは『氷都』だわ)
選択されるのは、前者だろう。
「元老たちは許したのですか? 話し合いの場を設けることを」
「何も分からないまま戦を仕掛けるわけにはいかないと、私が黙らせた」
だから大丈夫だ、と氷月は緑黎の頬を撫でる。その光景が夫婦の間でしか生まれない特有の空気感であると、わたしは端から見ていてそう思った。
「心配するな、とは言わない。ただ、信じて待っていてくれ」
「…………はい、
緑黎の伏せられた瞼の端から一筋の涙が零れた。
敵の名前は『葉都』。緑黎はその国の王を『兄上』と言っていた。
こんな時代だ。国同士で争うことは珍しいことじゃない。
けれど、血を分けた家族が敵になり、愛する人と決別してしまうかもしれないという恐怖は、わたしには理解しがたい感情だった。
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