3-3 幾何学の花痣

 ずぐん、と下腹部が重くなった。突然の鈍痛に思わずその場にへたり込む。


(この感覚……知ってる……)


 月のものに似た感覚。けれど、今のわたしにはそんなものが生涯と知っている。


 温まっていた体から徐々に熱が引いていく感覚に不安を覚える。寒くはないはずの室内が嫌に冷えているように思えて、この冷えから逃れたくてわたしはタオルを投げ捨ててもう一度浴槽に入った。

 せっかく乾いたというのに何故もう一度入浴したのかと、きっと戻ってきた緑黎に注意されてしまうかもしれないと妙に冷静な思考が脳裏を過ぎったけれど、そんなことはどうだってよかった。



 だって、わたしの目の前に——。


『裏切り者』


 ——蟒蛇が現れた。



 シュルシュルと舌を舐めずる音が室内を這う。ドクドクと心臓がうるさい。目を合わせてはいけないと分かっていても、わたしの目は蟒蛇を捉えて離さない。


 下腹部がじんわりと熱くなっていく。やっとのことで視線を下へ向ければ、そこには青痣にも似た色をしたが不気味に浮かび上がっていた。暫く消えていたはずの呪いの痣。花を彷彿とさせる楕円形の中に刻まれた幾何学模様は『花都』の国紋章と類似している。

 浮かび上がる条件は、わたしが蟒蛇を認識すること。

 ここにはいないはずの蟒蛇が何故今現れたのか。

 きっと蟒蛇はわたしが請け負った自分の『お務め』を忘れていないかを確認しに現れたのだ。


「わ、忘れてない……」


 わたしは蟒蛇に伝える。忘れてなどいない。忘れられるはずもない。あの『お務め』は、それほどまでにわたしの心を埋め尽くしているのだから。


 蟒蛇はわたしの言葉を聞くと、ゆっくりと側まで近づいた。これが実体を持たないであることを理解するのに、長い時間を掛けたことをふと思い出す。

 大丈夫、実際には害はないのだ、そう思わなければ心が殺される。わたしはただ息を潜めて蟒蛇が離れていくのを待った。

 蟒蛇の口が耳元に近づき吐息が掛かる。シュルシュルと動く長い舌が耳朶じだに触れる。


『自らばかりが、幸せに触れるなど、烏滸おこがましい』


 その言葉に、わたしは絶望した。

 幸せがどんなものかをわたしは知らない。ただここにいるとわたしがわたしでなくなっていくような錯覚に陥る。これが「幸せ」であり、蟒蛇が不機嫌な理由なのも重々承知していた。


「蟒蛇は……幸せが嫌い、だから……」


 わたしの呟いた言葉が届いたのだろう。やっと自覚したのかと言わんばかりに、何でも呑み込むその大口の端がゆっくりと上がっていった。わたしはその顔を知っている。



「————…………」



 わたしは怖くなり勢いよく浴槽から出る。入浴着がはだけたことなど無視して、医務室の扉に飛びかかる。背後から這いずる音がしたような気がして、わたしは「ひぃっ……」と小さく悲鳴を上げた。この場には、


 突然、回してもいない取っ手が自ら動き医務室の扉が開いた。もう何でもよかった。早く、早くこの場所から逃げ出したい。


 扉が開いて、足音を聞いた。誰でもよかった。わたしは縋りつくように最初に入室してきた人物の衣服を掴んだ。



「——花檻?」


 ひやりと通る低音が届く。静かに音の正体を確認しようと視線を上へ上げれば、変わらず表情の読めない氷月の氷鷹の双眸がわたしを捉えていた。


「王さまー、緑黎さまいたー? ……え」


 遅れて偃月もやってきた。偃月に至っては目を見開いてその場に固まっている。


「ごめんなさいね、あなたに合う着物を探していたら遅くなってしまって……。あら、陛下。どうしたの戻っていらして」


 ついには緑黎までもが合流してしまった。

 わたしは自分が今どんな格好をして氷月にしがみついているのかを忘れて、ただ蟒蛇の気配が遠ざかるのを待っていた。


 少しして蟒蛇の気配が消えた。そっと下腹部を確認すれば、幾何学の痣も消えていた。

 ほっと息を吐いたのも束の間、固まっていた偃月がわなわなと震え始めた。


「……偃月……?」


 わたしは偃月の様子に不安になり、静かに声をかけた。すると偃月は顔を真っ赤にして勢いよく上げた。


「————とっ、とりあえず服を着てぇえええ‼」


 その瞬間、鼓膜が破れてしまいそうなほどの偃月の絶叫が城内中に轟いた。

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