5-5 “わたし”の名前

 その沙汰が下りたのは、翌日の、この国には珍しいよく晴れた朝のことだった。

『氷都』と『葉都』の和平は解消され、この制約により事実上『葉都』はこれから『氷都』の監視下の許に置かれることになった。

 争いを回避し無駄な血を流すことなく事の収束を迎えられたことに、苑葉は不利な環境に置かれてもなお感謝の意を示した。



 そして今日は、捕虜としての拘束を解かれた苑葉が捕虜牢から出てくる日。

 わたしは緑黎と共に捕虜牢の入口まで向かう。すると、目の前に人影が浮かぶ。そこには氷月と雨月、そして苑葉が何かを話し合っている姿があった。

 今朝方決定した、両国のこれからについての話し合いだろうか? 何はともあれ、両国に犠牲が少なかったことがわたしは何よりも嬉しかった。


「……あぁ……っ」


 苑葉の姿を認めた瞬間、緑黎はその場に泣き崩れてしまった。

 無理もない。この数日間彼女は苑葉のことで酷く心を痛めていた。自分の夫が兄の国を切るなど、そんなことをするはずがないと頭で理解していても、生きている苑葉の姿をその目に映すまでは不安で胸がいっぱいだっただろう。


「……良かったですね、緑黎さま」


 わたしは彼女と同じ目線まで体をかがませ、嗚咽を漏らす緑黎の背中をゆっくりと摩る。緑黎は肩を震わせながら、小さくしっかりと「ええ」と頷いた。



 少ししてわたしたちの頭上にかげりができる。見上げると、苑葉が申し訳なさそうな表情をして緑黎を見つめていた。緑黎と話がしたいのだろう。そう察したわたしは、数回軽く緑黎の肩を叩いて、苑葉が来たことを伝える。


「緑黎さま……」

「花檻姫? どうかし…………兄上……!」


 緑黎は苑葉を見ると驚いたように大きく目を見開いた。苑葉はぎこちなく笑うと、静かに頭を下げた。


「心配をかけて、すまなかった。緑黎」

「……っ! 本当に、本当に心配したんですよ‼」

「ああ」


 緑黎は勢いよく立ち上がり、苑葉にぶつかるようにして抱き着いた。そして彼の胸元を沢山叩くと、そのまま彼の中で涙を流し始めた。堰を切ったかの如く溢れる想いに、わたしは少しだけ感動した。


「……こうして無事でいられるのは、全て氷月殿のおかげだ。我らは本当にいい人に恵まれたな……」


 苑葉が呟いた言葉はほとんど緑黎の泣き声に掻き消されてしまった。でもきっと、彼の柔らかい表情から悪いことは言っていないはずだ。

 ふと、誰かの視線を感じた。氷月がわたしに「こちらへ来い」と目配せをしている。今は兄妹二人の時間を設けようという、彼なりの配慮の形なのかもしれない。

 わたしは緑黎たちに一礼し、氷月の許へと駆け寄ろうとした。できなかったのは、その時「すまない」と苑葉に小さく呼び止められたためだ。声を掛けられたのだと気づいたわたしは、足を止めて苑葉に振り返る。


「はい?」

「君は……」

「……?」


 突然のことにわたしは動揺した。彼と会ったことが、過去に一度でもあっただろうか? 記憶を辿ってみても、それらしきものは思い出せなかった。しどろもどろになっていると、落ち着いた様子の緑黎がわたしの代わりに答えた。


「兄上、以前文を送ったでしょう? この子が『花都』からはるばる来てくださった『花檻姫』ですわ」

「君が、例の……。そうか」


 ふっと細められた彼の目は慈しみを帯びていた。どうしてそんな顔をするのか。わたしの頭では理解のできない時間が漂っていた。


「この子がどうかしましたの?」

「今はそう名乗っているのか」

「……?」

「君は憶えていないかもしれないが、昔私は『花都』の城で君と会ったことがある。その頃はまだ母君から離れられないような小さな女の子だったと記憶していたが……。

 大きくなられましたな——


「————」


 そのを聞いた瞬間、息が詰まるくらい、胸がいっぱいになった。

 同時に何かが腑に落ちた。



 その名前は、母の名前だった。

 その名前は、母から受け継いだ、だった。



「……花檻……?」


 どこかで冷たい声。氷月がわたしを呼んだのだ。その冷たさは温かさも含んでいて、そのあべこべさにおかしくなる。おかしくて、笑いたいのに。……笑いたい、のに。


「……っ……」


 わたしから溢れるのは、涙ばかりだ。


 ふわりと香るこの国特有の雨の甘い匂いが目の前に漂う。ぎゅうっと誰かに抱き締められている感覚はわたしの心をゆっくりとほぐしていく。その誰かは、緑黎だった。

 安心から涙が溢れて止まらない。その涙は緑黎の肩を段々濡らしていく。衣装を濡らしてしまったことを謝ろうと声を出そうとしたけれど、何も言わなくていいのだと緑黎の手がわたしの頭を優しく撫でた。


 わたしは『由縁』。


 あの場所で、生きることに疲れ絶望していた、花の檻に囚われていた頃の少女じゃない。

『人』としての名前を思い出したわたしは、今日から『人』として生きることを許されたんだ。そう、思うことができた。

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