第三話

3-1 清めの儀式

 今から何が始まるというのだろう。

 わたしは気が気でなかった。



 わたしの中での「湯浴み」とは、水浴びのことだった。凍ったように冷たい水を掛けられること。これが清めの儀式だと言われて育ったのだから、それがわたしの中での「湯浴み」であり、あの場所にいた頃はそれが当たり前だった。


 けれど今わたしの目の前にあるのは、ゆらゆらと白い煙が揺らめく人一人が隠れることができそうな大きな桶に溜まった〝温かい〟水。緑黎はこの中に入ることを「湯浴み」……つまり清めの儀式だと言っていた。


「湯浴みしたことないの?」と緑黎が訊くので「知らないです」と言うと、緑黎は何も言わずにわたしを抱き締めたのだった。……なんで?


 氷月と偃月が医務室を出て行ってから、わたしは緑黎に来ている衣服を全て脱げと迫られた。追剥にでも遭うのではないかとびくびくしていたけれど、どうやら違ったらしい。壁まで迫られ切った時、彼女にあるものを渡されたわたしは、その緊張を少しばかり解いた。渡されたのは薄着の入浴着だった。


 緑黎は医務室に簡易的に設置されている更衣室でわたしが着替えている間、その外で待っていてくれた。何かされてしまうのではないか、あの場所に通っていた女官のように痛いことをされるのではないかと内心怖かったけれど、緑黎は何もしてこなかったし、一度も覗いてこなかった。


(怖い人じゃ、ないのかな……)


 わたしは少しだけ体に入っていた力を抜き、早々に着替えた。



 ~❀~



「あら、着替え終わりました? ……まあまあ、肌がお白いのね~」


 緑黎は笑顔でわたしの頬を触れる。よく分からないけれど、この人に触れられるのは怖くない。不思議な感覚に心が浮ついた。


「さて。御髪も身体も清めましょうね。お湯は熱くないかしら?」


 わたしはおそるおそる温かい水——お湯に指を入れてみる。じんわりと体に向かって温かさが移動していくのを感じた。


「……大丈夫、です」

「それはよかった。ではゆっくりと足から入ってみましょうか」

「はい」


 わたしは緑黎の言った通りに動く。桶の中に足を入れ、ゆっくりと肩まで浸かる。緑黎や偃月から感じたものとは違う、ぽかぽかとした温かさが心地いい。

 薄着の入浴着が肌にぺったりとくっついて少しだけ気持ちが悪いけれど、そのことを除けばあとは快適だった。


 ふと緑黎がわたしの頭に触れた。一瞬驚いて肩を反射的に震わせてしまったけれど、緑黎には気づかれていないようでほっとする。


「まずは髪から綺麗になりましょう」


 そう言って彼女が取り出したのは、白くて甘い匂いのする小さな固形物。これは「石鹸」と言うらしい。石鹼を使うと、人は身も心も綺麗になるという。


(そんなものを使っても、わたしはきっと穢れたままだわ)


 緑黎は良くしてくれているだけ。これはわたしの意識の問題。ほんの少しの罪悪感と浮足立つ好奇心がせめぎ合う。

 優しくて細い、柔らかいのに力強い。そんな彼女の指がわたしの髪を梳いていく。いい匂いがするのは石鹸だろうか。初めて嗅ぐ匂いに心がほだされていく。


「ふふ、花檻姫? 気持ちがいいの?」

「んぅ……」

「嬉しいわ。でも湯浴み中に眠ってはダメよ? のぼせてしまったら気分が悪くなってしまうから。眠るのはもう少し我慢して頂戴ね」

「……はい……」


 ぬくぬくと温まっているためか眠気がわたしを襲ってくる。けれどこの温かい水の中で眠ることは悪いことのようだ。わたしはなんとか意識を落とさないように頑張る。


「では目を瞑ってくださる?」


 そう言われたのでそうする。


「え、わぷっ」


 すると頭上から温かい水が大量に落ちてきた。ざぷん、と大きく波立つ桶の中。突然のことに驚いたけれど、髪についていた石鹸の泡たちが流れていく姿を見れば、何だか心が晴れたようなスッキリとした気持ちになった。

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