5-2 不安と目覚め

 偃月の処置が終われば、香紆は自室へ戻ると言った。


「もうこんな時間ですし、花檻姫はこのまま偃月の側にいてやってください」

「え? でも……」

「起きた時にあなたが側にいれば、きっと偃月も喜びます」


 香紆にそう言われてしまっては仕方がない。わたしは「分かりました」と頷いた。その答えに満足したのか、香紆はわたしの肩に静かに手を添えるとそのまま医務室を後にした。

 静寂が部屋を包む。でも、嫌じゃない静けさだった。


「……早く起きてください……。わたし……」


 その後に続けようとした言葉を、言うのはどこかはばかられた。言ってしまえば、何かが崩れてしまいそうな気がして。わたしは思い浮かんだその言葉をぐっと飲み込み、偃月の冷たい手を握った。少しでも彼の受け持つ熱い痛みが和らぐようにと、祈りながら。



 ~❀~



 何かがもぞりと動いた感覚に意識がゆっくりと水面下に浮上する。


「……ん」


 わたしはいつの間にか寝落ちていたらしい。外はすっかり晴れ間が見えていた。今が朝であることを、医務室の窓に遊びに来た小鳥たちが「チチッ」と鳴いて教えてくれる。

 偃月の手を握りながら寝ぼけ眼を擦れば、彼はすでに体を起こしていた。


「……偃月?」

「…………」

「偃月、偃月」


 ぼーっと一点を見つめ続ける偃月に不安を覚え、わたしは何回か彼の名を呼ぶ。何度問い掛けても何も喋らず、ただ焦点がゆったりと泳ぐだけ。きっとそこにこの世界は映ってはいないだろう。

 目覚めたばかりで体を揺さぶるのは危険かも、と思いわたしは優しくトントンと彼の肩を叩きながら彼の名を呼んでみる。するとゆるゆると視線が合った。今だ、わたしは先ほどよりもはっきりと彼に問い掛けた。


「偃月、分かりますか?」

「……お姫さま……?」

「はい。おはようございます、偃月」


 やっと、彼と目が合った。焦点が合い、彼はその瞳に世界を映す。一先ず安心しても良さそうだ。わたしは深く息を吐いた。偃月はどうしたの? と首を傾げていた。


「昨夜、倒れて運ばれてきたんです。憶えて、ない?」

「んえー! うわあ……全然憶えてない……。『葉都』に降りたところまでの記憶はあるのになぁ……」

「……そう」

「てかなにこれ」


 偃月は昨日から今までの記憶が無いために、両手首にできた凍傷の手当てに疑問符を浮かべている。それはそうだ。わたしだって知らない間にできた傷のことなんて分からない。


「香紆さんが、凍傷と」

「とーしょー……。えぇ……なんでぇ? めっちゃ情けないじゃん」

「情けない?」

「そうだよぉ。怪我してむざむざと帰ってくるだなんて『氷都』の男として恥じゃん。情けなくて泣けてきちゃう」

「そうは、見えませんが……」

「ああ、王さまから飽きられちゃうかもー」


 ……どうしてだろう。そこまで残念そうに見えないのは。


「そんなことは、ないと思いますよ?」

「そうかな?」

「うん」

「……そっか。そうだよね。……は優しい人だもんね!」

「————え」

「ん?」


 どうかした? と偃月がわたしに微笑んでいる。わたしは何故か、目の前にいる偃月が昨日の「偃月」のように思えてならなかった。

 そんなわたしの戸惑いを感じたのだろう。偃月が申し訳なさそうに頭を掻いた。


「あー……おれ、また……。不安にさせてごめんね?」


 けれど今回は自分のことを理解しているようだった。そして不安げにしているわたしの髪を優しく撫で梳く。先ほどまでの不安は彼の手によって一瞬にして消え去った。



 コンコンと医務室の扉が数回叩かれる。はい、と短く答えると間もなく扉が開き誰かが入室した。入室者は氷月だった。


「起きたか、偃月」

「あ、王さま。おはよーございます……」

「……変わりないようで何よりだ。……花檻も、偃月の看病ご苦労だった」

「あ、いえ。わたし、」


 何もしていないと伝えようとしたら偃月がわたしの口元に人差し指をそっと当てた。その先は言わないで、という意思表示だろうか。本当のことなのにと思ったけれど、言わないでくれと偃月が言うのだから、わたしは彼の意志に従うことにした。


「偃月。……その様子だと昨日のことは何も憶えていなさそうだな」

「はは……面目次第もございません! ……王さまがそう訊くってことは、おれ、何かやらかした?」

「何かをやらかしそうにはなっていたな」

「うそ‼」

「だが未遂だ。自分で御していたから、今回は咎めもしない。今日はゆっくり休め」

「……ふへっ、はぁい王さまー」


 また来る、と言い残して氷月は医務室を後にした。

 わたしと偃月は同じタイミングで目が合い、きっと同じことを思ったのだろうと気づくと互いに笑い合ったのだった。

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