39.他者の気持ち
「まあ、これはジョセシャル様。お越し頂き嬉しいですわ!」
ミセルは公務室に現れた髭を生やした中年貴族を笑顔で迎える。中年貴族は帽子をとり、一礼してからミセルに言う。
「ミセル様に置かれましてもまた一段とお美しくなられて」
真っ赤なドレスに艶のあるふわっとした赤髪。色白のミセルは年齢に見合わない色香も備えている。ミセルが赤い薄手袋をした手を口に当ててそれに答える。
「まあ、そのような本当のことを。おほほほっ」
ミセルは中年貴族をソファーに座らせると、その真正面に座って長く色っぽい足を組み替える。目の前の男の視線をその足に感じながら話し始める。
「ご所望されておられました森林開発の件、お父様やお兄様も大賛成とのことでしたわよ」
それを聞いた中年貴族の顔がぱっと明るくなる。
「そうですか!! それは何とも有難い!!」
だがミセルは少し悲しそうな顔で言う。
「でも今の無力な私では、残念ですが何のお手伝いもできませんわ……」
そんなミセルに中年貴族は身を乗り出して言う。
「そんなことございません! ミセル様は間もなく聖女になられるお方。無力なものですか!!」
ミセルはにやっと笑って答える。
「私で務まるでしょうか……」
「このジョセシャルにお任せください。ミセル様はそれだけの才をお持ちの方。何も心配することはないでしょう」
「ありがとうございます。私が聖女になったあかつきには、先のお話はジョセシャル様に一任致しますわ!」
「身に余る光栄でございます!!」
ミセルは差し出された中年貴族の手を笑顔で握り返した。
「ほんとに、気持ち悪いですわ!!!」
中年貴族が部屋を出て行った後、ミセルは手に付けていた薄手の赤の手袋をゴミ箱に勢いよく投げ捨てた。そしてすぐに洗面台で入念に手を洗いながら言う。
「『聖女任命審議員』じゃなきゃ、あんなエロジジイなんて……」
ミセルは中年貴族の自分を見るいやらしい目つきを思い出しながらも、間近に控えた『聖女任命審議会』の工作の為ぐっと我慢する。
兄エルグと共に20名いる審議員に対する根回し。ある者には利権を、またある者には地位をちらつかせ協力を仰ぐ。
「ミセル様にはまだ決まった男性がいらっしゃらないとのこと。我が息子なんてどうでしょうな。がははははっ!!!」
ミセルは目の前の男の息子、デブで我がままで無能の塊のようなクズ男を思い出し、背筋が凍るような悪寒と吐き気に襲われた。それでも笑顔で答える。
「まあ、嬉しいですわ。でも私など卿のご子息には不釣り合いだと思いますし……」
くだらない。
『聖女就任』という目的があるから仕方ないが、権力を持った人間というのはここまで醜くなるものかとミセルは吐き気がした。男が言う。
「そんなことはない。息子はミセル様にお会いするのを楽しみにしていますぞ。ずっと部屋で待っているんだ」
ミセルは吐き気が強くなる。
男は散々息子自慢をしてからミセルとの将来を語り、そして出て行った。
(もう少しの辛抱。我慢するのよ。そうすればあの女も……)
ミセルは間近に控えた『聖女任命審議会』を思い、今は耐える時期だと自分に言い聞かせた。
「お前に決闘を申し込む、ロレロレ!!!」
ロレンツに対峙した暗殺者ヴァンは、手にした剣を構えて言い放った。
(ロレロレか……)
その名前でほぼどこからの刺客かは想像つく。ロレンツは斬られた右腕からどくどくと流れ出る血を感じながら答える。
「いいからかかって来い」
ヴァンはロレンツの手に握られた漆黒の剣を見て武者震いする。
(何だ、あの剣は? 見たことがない禍々しい刀身……、どこに隠し持っていた……?)
ヴァンはロレンツが構える呪剣を見て、それだけで体が震える。
(くそっ!!)
ヴァンは持っていた剣を下段に構え、高速でロレンツの間合いに入る。
カン!!
(え?)
ヴァンは一体何が起こったのか分からなった。
ただ気付くと目の前にロレンツの漆黒の剣が迫っていた。すべての意識をその剣に集中し、身を反らすように攻撃をかわす。
シュン!!
ロレンツの攻撃をかわしたヴァンはそのまま後方へと飛び跳ねた。
「なっ!?」
ロレンツと距離を取り再び対峙したヴァンは、自分の剣が手にないことに気付き啞然とした。
「探し物はこれか?」
ロレンツは目の前の地面に突き刺さったヴァンの剣を抜き軽く回して見せる。
「な、なんだと!? いつの間に……」
ヴァンは全身の力が抜ける感覚に陥る。全く何が起こったのか分からないが、剣撃が弾かれ奪われたことには間違いない。ロレンツはヴァンの剣を放り投げながら言う。
「依頼主は、ジャスター家でいいな?」
(!!)
ヴァンは目の前に投げられた自分の剣を拾うこともできず、ロレンツの言葉に全身が震えた。ロレンツが続ける。
「俺にならいつでもかかって来てもいいが、もし次、嬢ちゃんに手ぇ出すようなことがあったら……」
ロレンツがギッと睨みつけて言う。
「てめえを殺す」
ヴァンは一瞬自分が潰されたような恐怖を感じながら答える。
「ふ、ふざけるな!! 今日は引き分けだっ。こ、この次はないと思え!!!」
ヴァンは落ちた剣を拾うとそのまま足早に立ち去って行った。
(
「ふう……」
ロレンツは呪剣を戻すと、斬られて出血する傷口に手を当てる。
(俺の失態の報い、だな……)
アンナを危険な目に遭わせてしまった。ロレンツはその報いとして流れる血液を見つめる。
「ロレロレ~!!!」
「ロレンツっ!!!」
ロレンツがその声に気付いて振り向くと、アンナにミセル、そして『護衛職』のキャロル達が走ってやって来た。ロレンツが驚いて言う。
「おい、嬢ちゃん!! なんで部屋に戻ってねえんだ!!」
アンナは涙目になってロレンツの腕の傷を見ながら言う。
「だって、だって、私のせいでこんなに……」
騒動に次々と集まって来る貴族達。ロレンツが答える。
「これは嬢ちゃんを危険な目に遭わせちまった俺の報いだ。気にするな」
「気にするわよっ!!!!」
(!!)
『氷姫』と呼ばれたアンナ。
その彼女の突然の感情を露にした怒声に皆が驚いた。アンナが涙を流しながら言う。
「こんなに怪我をして、血を流して、気にしないでいられるわけないでしょ……」
「……」
ロレンツは無言になる。
自分のことばかりを考えていた。それを見た他者のことなど全く考えていなかった。
「……すまねえ」
ロレンツは無意識に謝罪した。
「ロレロレ~、大丈夫~?? ねえ、ミセル様ぁ~」
一緒に来ていたキャロルがピンク色の髪を揺らしながらロレンツに尋ね、そしてミセルを見つめる。ミセルはロレンツの傍で涙を流すアンナにむっとしながらも、ロレンツの傍に行きその怪我した腕に触れながら言う。
「
ミセルの手元が白く光り、ぱかっと開いていた傷口が徐々に閉じて行く。
「おおっ!!」
周りにいた貴族達から驚嘆の声が上がる。
やがて完全に傷口は閉じ、どくどくと流れていた血が止まる。それを見ていたアンナがミセルの方を向いて言う。
「ミセル、ありがとう……」
「……」
ミセルはアンナと目を合わせないように横を向き無言となる。
「ロレロレ、良かったね~!!」
怪我の治癒が終わったロレンツにキャロルが抱き着いて喜ぶ。ロレンツは治癒された腕を撫でながらミセルに言った。
「ありがとう、嬢ちゃん」
礼を言われたミセルが恥ずかしそうに答える。
「い、いいですわよ。このくらい……」
貴重な輝石を使ってしまった。
偶然持ち合わせていた石だったが、ロレンツに使ったこと、そして皆の間で『聖女アピール』ができたことを考えれば良しと思える。ただ、ロレンツは全く別のことを考えていた。
(魔力が感じられない……?)
幾つもの死線を経験し、数多くの魔法にも触れて来たロレンツ。
治癒魔法はほとんど経験がなかったが、術者から魔力を全く感じないと言うのは初めてであった。
(まさか……)
ロレンツはアンナに背を向けてぷいと顔を背けるミセルを見ながら、考えても見なかった事態を想像した。
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