17.誰かと飲むお酒
「君との婚約を破棄したい」
夕刻、アンナの私室にやって来たカイトは迷うことなくそう告げた。
「……」
無表情のアンナ。
国王である父が決めたこの婚約ではあったが、アンナはアンナなりに一度は彼を愛そうと決め生涯を共に行くのだと心に思った。
お茶会や舞踏会で数度一緒になり、頼りない部分もあったが父の期待に応える為きちんと彼と向き合おうと思っていた。周囲の期待も知っており、聖女になるための訓練も一生懸命続けた。
「あ、そう……」
動揺がないと言えば嘘になる。
ただ氷姫に戻ったアンナの口からは、その揶揄される別名に見合った冷たい言葉が自然と出た。カイトは少しだけばつの悪そうな顔で斜め下を向いて言う。
「伝えたかったのはそれだけ。じゃあ」
そう言うとカイトはアンナに背を向けドアを閉じ消えて行った。
「ふぅ……」
閉じられたドアを見つめながらアンナが小さく息を吐く。
『婚約破棄』、これはジェード家のキャスタール家に対する決別をも意味する。アンナに非がない以上、この様な一方的な婚約破棄は両家の関係を断つ意味と捉えられる。
涙は出なかった。
元々愛したこともない男。ただやはり心の奥には言葉で言い表せない感情はある。
「ちょっと、あなた!!」
アンナは振り返り、部屋の奥で黙ってコーヒーを飲んでいるロレンツに向かって言った。
「ん?」
少しだけ顔を上げアンナを見るロレンツ。アンナが近付きながら大きな言う。
「私が大変な時に、なんでそうのうのうとコーヒーなんて飲んでられるの??」
ロレンツが面倒臭そうに答える。
「なんでって、そりゃ嬢ちゃんの話だろ? 俺には関係ねえ」
そう言って再び雑誌に目をやりコーヒーを飲む。
(むかっ!!!)
相変わらず他人事と言うか、他人に興味がない目の前の男を見てアンナが怒りを発する。
「あ、あなた、私の護衛職でしょ!! 何か言いなさいよ!!」
護衛職と婚約破棄には何の関係もない、ロレンツはそう思いながらもアンナに答える。
「まあ、それはそういうことだ」
(意味、分かんないっ!!!!!)
アンナは頭に血が上りながらカツカツと部屋の戸棚に歩いて行き、中から黒い瓶とグラスをふたつ手にしてロレンツの前に戻って来る。
ドン!!
それらをテーブルの上に置いて言う。
「イコちゃん、リリーと一緒でしょ?」
「ああ……」
ロレンツは雑誌に目を向けながら答える。アンナがイラっとしながらいう。
「飲むわよっ、付き合いなさい!!!」
ロレンツはふぅとため息を吐きながらアンナを見上げた。
それは『氷姫』とは程遠い、感情豊かなひとりの女の子であった。
「だいたいねェ~、あなたぁ……、ねェ~、ちゃんと、わたひぃ~のはなしぃ、聞いてるのぉ??」
アンナはグラスに入れた酒を数杯飲んだだけで酔ってしまった。以前の覆面バーで飲んだ時よりも遥かに酔いが早い。王城の生活のストレスか、『剣遊会』が無事終わった安心感か、それとも先程の婚約破棄のせいだろうか。
「おい、姫さん。少し飲むペースを落として……」
(むかっむかっ!!)
アンナはすぐにそのロレンツの言葉に反応して言う。
「な、何よぉ~、その他人……みたいひゃ、呼び方っ!!!」
「なにって、そりゃ……」
ロレンツとて元軍人。一国の姫に対してさすがに『嬢ちゃん』と呼ぶには憚り、無意識のうちに気を利かせて『姫』と呼んでいた。アンナが悲しそうな顔で言う。
「あなひゃまで、そんな風になってぇ……、わたひぃ……、うっ、ううっ……」
そして下を向きながら目に涙を溜める。少し驚いたロレンツが言う。
「おい、大丈夫か。少し酒のペースを……」
「みんひゃ、いなくなって……、わたひぃ、ひとりになってぇ……、ううっ、わたひぃ、何か、わるひこと……、したのぉ……?」
ロレンツが答える。
「俺は良く分かんねえ。ただあんまり心配は……」
そう言って話すロレンツの腕にアンナがしがみつく。そして流れ出る涙と鼻水をロレンツの服で拭きながら言う。
「あなひゃは、いなくならないでよぉ。さびいひぃーのはもうやだ……、嫌だよぉ……」
肩を震わせてむせび泣くアンナ。
大国の姫ではあるがいま彼女は砂上の城の姫であり、様々な策略、陰謀に嵌められ脆く崩れそうになっている。『剣遊会』で勝利し辛うじて崩壊せずには済んだが、彼女の心はいつ壊れてもおかしくない。
――私を、救って。
あの夜にアンナと交わした約束。
ロレンツ自身、なぜ初対面の女性のあんな依頼を受けてしまったのか分からない。
(まあ、俺は負けたんだしな)
飲み比べて負けた。
彼女を守る理由はそれで十分だとロレンツは思った。
「なあ、姫さん。俺はな……」
その言葉を聞いたアンナが急に顔を上げてロレンツを睨みつけながら言う。
「ちょっとぉ!!! じょぉ~ちゃんって呼びなしゃいよぉ~、じょーしゃん。いい? わたひぃ~、あれ、しゅきなんだよぉー!!!」
ロレンツは少しだけ笑顔になって答える。
「ああ、そうだったな。すまねえ、嬢ちゃん」
アンナがにこ~として言う。
「うんうん、いいねぇ~、きゃわいいよ~。ねぇ、なでなでぇ、してぇ~」
そう言ってアンナは笑顔のままロレンツの前で顎を引き、頭を差し出す。戸惑うロレンツが言う。
「お、おい。嬢ちゃん……」
「早くぅ~」
ロレンツは小さくため息を吐きながら仕方なしにアンナの頭を撫でる。
「ふわぁ~、ぁんひゃ、これ、しゅきなの……」
アンナはごつごつとした硬い大きな手で頭を撫でられるのが大好きだった。
初めてロレンツに撫でられた時、体が溶けてしまいそうな嬉しさが全身を包んだのを覚えている。『聖女』にこだわった厳しい国王の父。頭を撫でられた記憶など一度もない。
アンナは撫でられながら太いロレンツの腕によりかかる。
「なあ、嬢ちゃん」
「……」
返事はない。
ロレンツがアンナに目をやると小さな寝息を立てて眠っていた。ロレンツは飲みかけのグラスの酒をひとくち口に含む。
「すーすー」
ロレンツはひとり前を向きながら小さな声で言う。
「なあ、嬢ちゃん。俺も感謝してんだぜ」
無言のアンナ。ロレンツが続ける。
「酒ってのはひとりで飲むのが一番だと思っていたんだが、誰かと一緒ってのも決して悪くはねえんだなあって、嬢ちゃんが教えてくれた。ありがとな」
「すーすー」
眠ってしまったアンナにはもちろん返事などできない。
ロレンツはグラスに入っていた酒をすべて飲み干すと、自分に寄りかかって眠るアンナの頭をもう一度優しく撫でた。
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