75.聖女と神騎士
それは恐ろしい光景であった。
ネガーベル王城の方から飛来した黒い点は、あっと言う間に凶悪な姿に変えロレンツ達の元へやって来た。
そして地面を震わす鳴き声と同時に始まる地獄絵図。大きくて太い爪や尻尾で逃げ惑う兵士達を薙ぎ倒し、口から吐かれる闇のブレスで直撃した者は皆意識を失って倒れた。
「なんだ、なんだ、なんだ……、これは……」
エルグはその空を覆うような大きな黒い竜、後に【漆黒の悪魔】と呼ばれる魔物を前にただただ身を震わせた。
「エ、エルグ様、避難を!!!」
骨を砕かれ体が動かないエルグが兵士達の馬に乗せられ逃亡を始める。
「ギャガアアアアアアア!!!!!」
しかし【漆黒の悪魔】はなぜか執拗にエルグを追いかけ始める。
ドン!!!!
「ぎゃあああ!!!!」
太く鋭い爪がエルグを乗せる馬に命中。
叫び声と同時に馬ごと吹き飛ばされるエルグ。そんな彼を再び兵士が馬に乗せ逃げ始める。
(嫌だ、嫌だ、死にたくない!!!)
「早く、早く馬を出せっ!!!!」
喋るだけでも体が痛むエルグが、もたもたする兵士に強い口調で命じる。
「は、はい!!!」
兵士達が急いで大将であるエルグを馬に乗せ再び逃げ始める。全力で逃げた馬が【漆黒の悪魔】の射程から一気に外れて行く。
「ギャガアアアアアアア!!!!!!」
一時的だが目標を失った【漆黒の悪魔】が怒り、暴れ始めた。
「嬢ちゃん……」
大量の吐血をし、今にも倒れそうなロレンツがアンナの元へとやって来た。アンナが涙を流しながらロレンツを抱きしめる。
「ロレンツ、ロレンツ、大丈夫なの??」
ゼイゼイと肩で息をするロレンツが答える。
「ああ、大丈夫だ。血で汚れるぜ、嬢ちゃん……」
そう答えるも全く大丈夫そうでないロレンツ。アンナが泣きながら言う。
「うえーん、ごめんなさい。ごめんなさい、私のせいで……」
ロレンツが言う。
「大丈夫だって言ったろ。俺を信じて、ぐほっ、ごほっ……」
止まらない吐血。触れているアンナは彼の体が冷えているのに気付く。
(こんなこと、こんなこと、もう、私……)
ロレンツがキャロルに言う。
「ピンクの、嬢ちゃん……、姫さんを頼まれてくれるか……」
キャロルが答える。
「えー、いいけど、ロレロレはもう無理だよぉ……」
ロレンツが少し笑って言う。
「俺は……、あいつを沈める。嬢ちゃんを頼む……」
そう言ってフラフラのロレンツが自分にしがみ付くアンナの頭を撫でる。アンナが首を振って言う。
「ダメ、ダメダメダメ!!! 行かないで!! もう無理だよ、死んじゃうよ……」
ロレンツが泣きじゃくるアンナを見つめながら言う。
「俺以外に……、誰があれを止められる? 絶対に、死なねえ……、約束する……」
「ロレンツぅ……」
それでも諦めきれないアンナがロレンツを放そうとしない。
「嬢ちゃん、頼んだぜ……」
ロレンツはそうキャロルに告げると、アンナの手を振り切って【漆黒の悪魔】へと駆けて行った。
「ロレンツ!! ロレンツーーーっ!!!!」
アンナは大声で泣きながらその場に崩れ落ちた。
(呪剣……)
既に限界を超えて戦っていたロレンツ。
呪剣もいつの間にか消えてしまい半ば強引に発現させる。
(腕が、重めぇ……)
いつもなら体の一部のように自由に動く呪剣。それがまるで鉛を付けたように重く、動かない。ロレンツが漆黒の剣を振り上げた。
そこから【漆黒の悪魔】とロレンツの一対一の戦いが始まった。
太い爪や牙、尻尾での攻撃を呪剣で防ぎながら反撃を繰り出す。闇のブレスは同じ闇の瘴気を纏ったロレンツにはほとんど効かなかったが、呪いの力を使うにはもう体力が底を尽いていた。
そしてネガーベル、マサルト両軍が逃げるように避難を終えた頃、その戦いは一方的なものとなっていた。
ドンドン!! ガン!!!!
既に意識があるのかないのか分からないロレンツ。
立ったままの彼に攻撃を止めない【漆黒の悪魔】。意識朦朧とするロレンツに執拗に攻撃が繰り返される。
「ロレンツ!! ロレンツーーーーっ!!!」
傍へ駆け出そうとするアンナをキャロルが必死にその腕を掴んで止める。
――ああ、もう何も感じねえ
ロレンツは次々と繰り出される攻撃にもう何も感じなくなっていた。
初めて感じる死。
自分は一度死んだ人間。だけど死ぬってことがこんなに辛いことなんだと初めて知った。
――イコ、すまねえ
イコが大きくなるまではしっかり面倒を見ようと思っていた。
彼女が着るウェディングドレスが楽しみだった。
本当の親ではないが自分をずっと慕ってくれたイコ。
こんな中途半端な形で別れを告げなきゃならないことを思うと心が砕けそうになる。
――嬢ちゃん
そして浮かぶアンナの顔。
(あれ? 涙……)
何も感じないはずのロレンツの頬に、不思議とその流れ落ちた涙が感じられた。
(泣いてるのか、俺……)
涙なんてとうに枯れ果てたものだと思っていた。
――すまねえ、これ以上、俺……、お前を守れなく……
「ロレンツっ!!!!!!」
(!!)
折れかけていたロレンツの心に突然響くアンナの呼び声。
ぼんやりと視界に入る彼女の顔。涙をぼろぼろ流し何かを言っている。
(嬢ちゃん……、!!)
そしてロレンツの目に、自分を抱きしめて泣きじゃくる彼女の背中へ黒き爪が迫っているのが映った。
(呪剣っ!!!!)
ガン!!!!!
ロレンツは無意識に漆黒の剣を発現させ、アンナの背中に迫っていた【漆黒の悪魔】の爪を叩き斬った。
「ごほっ、がほっ!!!」
「ロレンツ!! ロレンツっ!!!!」
しかしもう体は動かなかった。
力なくアンナに抱き寄せられるロレンツ。
血に染まり膝の上でぐったりするロレンツの名を、アンナは力なく何度も呼んだ。
「ロレンツ、ロレンツ、起きてよ、ロレンツ……」
ロレンツが血塗れの手でアンナの頬に触れる。
「……嬢ちゃん。すまねえ」
アンナがその手を握りしめ叫ぶ。
「もういいよ!! もういいから!! 一緒に逃げようよ……」
冷たくなったロレンツの手。
流血でぬるぬるとすべる彼の手。
そのすべてがアンナにとっては耐えがたいものであった。
ロレンツ小さな声で言う。
「早く、逃げろ……、早く……」
血に混ざり、その目からは涙が溢れる。
キリっとした目。
鋭いけど幾つもの悲しみを乗り越えてきた優しい目。
アンナはもう限界だった。
「守るんでしょ、私を守ってくれるでしょ。それができないなら……」
アンナがロレンツの手をぎゅっと握りしめて言う。
「一緒に、死のぉ……」
(…………!!)
ロレンツはアンナの膝に抱きかかえられながら、突然息ができなくなったことに気付いた。
(い、息が、できねえ……、これは……)
ロレンツの脳裏に浮かぶ同じ症状で苦しんでいたミンファの顔。息ができずに苦悶する顔。
ロレンツが思う。
――俺、もう隠しきれなくなっちまったんだな
『誰かを愛すると死ぬ呪い』
ミンファを助ける為に受け取った死の呪い。
それがこの状況になって追い打ちをかけるようにロレンツを襲った。
(呪剣の呪いに、死の呪い。これはもう、さすがに無理か……)
目に映る涙のアンナ。
ロレンツは息ができない状況でかすれ声で言った。
「……笑い、な。アンナ……、お前には、笑顔が……、似合う……」
それを聞いたアンナがロレンツの頭に手をやり叫ぶ。
「初めて、初めて名前を呼んでくれたのに!!! 笑える訳ないでしょ……、あなたがいない未来で、どうやって、どうやって笑えって言うの!!!!」
(アンナ……)
「あなたが私に教えてくれたの、笑い方……、だから、一緒に、また一緒に笑おうよ……」
「ギャガアアアアアアア!!!!!!」
ロレンツに爪を折られた【漆黒の悪魔】はそのまま空に舞い上がり、そして勢いよく突撃してきた。アンナがロレンツを強く抱きしめながら心の中で強く叫ぶ。
(あなたは死なせない!!! だって私はあなたを……)
――こんなに愛してるんだもん!!!
アンナは目を閉じ息ができないロレンツの口に、自分の唇を重ねた。
真っ白な光。
その様子を離れた場所で見ていたキャロルは、アンナとロレンツの元に天から降り注ぐ美しく神々しい光に目を奪われた。
ガン!!!!
アンナが気付くと目の前に真っ白な騎士が立ち、【漆黒の悪魔】の攻撃を受け止めているのが見えた。
「ロレンツぅ……」
それは紛れもなく自分の『護衛職』の男。
全身から白き光を放ちながら、手にした銀色に光る剣で敵の攻撃を防いでいる。
「あれれ?? ロレロレとアンナ様、光ってるぅ~??」
そしてロレンツ同様、アンナも全身から白い光を放っている。ゆっくりと立ち上がったアンナが、その光る手でロレンツに触れ小さく言った。
「
それは聖女だけが使えると言う完全な治療魔法。同時にロレンツの全身の傷が癒えて行く。キャロルが言う。
「うそ~!! あれって、もしかして~、聖女様~??」
「はあっ!!!」
ロレンツは白銀の剣を手に、後退する【漆黒の悪魔】へ斬撃を繰り出す。
ザン!!!
「ギャガアアアアアアア!!!!!!」
一撃。
たった一撃でその体を斬り裂き、【漆黒の悪魔】が断末魔の叫び声をあげながら地面に落ちて行った。そのまましばらく地表で動いていたがやがて灰になって消えていった。
「ロレンツぅ、ロレンツぅ……」
アンナは【漆黒の悪魔】を倒しその場で膝をつくロレンツの元に駆け寄り、思いきり抱き締めた。
訳が分からない。でも目の前のロレンツは生きている。生きてまた私を守ってくれた。アンナの目からぼろぼろと涙がこぼれた。
(呪いが、解けてる……)
ロレンツは発動したはずの死の呪いが消えていることに気付いた。
同時に手にある白銀の剣を見て驚く。
(漆黒の剣じゃねえ……?)
立ち上がり聖女アンナを抱きしめるロレンツ。それを見ていたキャロルが思う。
(ええっ!? あれってもしかして~、聖女様と、神騎士様なの~??)
聖女の危機に現れ、その身を護ると言う幻の神騎士。キャロルの目には白く光り輝くロレンツが、まさにその神騎士の様に映った。
「ありがとう……、アンナ」
ロレンツは自分の腕の中で泣きじゃくるアンナの頭を優しく撫でながら言った。
「うんうん、いいよ。良かったよぉ、ロレンツぅ~」
アンナも涙を流しながらそれに満面の笑みで応えた。
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