2-6 先輩の悩み

「鈴原先輩。……先輩は、音楽室で何かあったんですか?」


 ――あぁ、ついに訊いてしまった。


 本当に、いきなり何を訊いているのだろうという話だ。なのに心は思った以上に落ち着いていて、不思議な感覚に包まれる。

 だって、


「そっ……か。美影ちゃんのことじゃなくて、ボクのことだったんだ……」


 汐音が笑っているのだ。

 俯いて、か細い声を漏らす。いつになく弱々しい汐音の姿がそこにはあった。完璧を演じようとしない汐音が、口元だけは緩めている――なんて。

 そんなの、嬉しいに決まっている。


「急に変なことを訊いてごめんなさい。でも、先輩が音楽室をじっと眺めている姿を見つけてしまって……。どうしても気になってしまったというか、その……」


 ここは自分が引っ張っていかなきゃいけない場面なのだ。

 それはわかっているものの、もごもごと情けなく口が動いてしまう。思わず「あぁもう、私の馬鹿っ」と自分を罵りながら、眉間にしわを寄せてしまった。


「凄いね、美影ちゃんは」

「へっ? あ……私のコミュ障っぷりがあまりにも酷いっていう話ですかっ?」

「えぇ? ふふっ、美影ちゃんは面白いね」


 口元に手を当てながら、汐音は楽しげに微笑む。

 すると、こんなタイミングで料理が運ばれてきてしまったようだ。美影の「ナスとベーコンのトマトソースパスタ」と、汐音の「ボンゴレビアンコ」がテーブルの上に置かれる。


「あ、これがボンゴレ……ビアンコ」


 アサリがたっぷり乗ったパスタを見て、ようやくボンゴレビアンコの正体を把握することができた。素直に「なるほど」と思ってしまった美影は、ついつい独り言を零してしまう。


「こっちも気になる?」

「え、あ……その」


 すでにバレバレな気もするが、改めて「ボンゴレビアンコを知らなくて」と言うのも恥ずかしい。再びもごもごする美影に、汐音は優しく微笑んだ。


「ボクもそっちのトマトソースのも気になるからさ、良かったらシェアしない?」

「あ……は、はい。お願いしますっ」


 取り皿を手にウインクをする汐音に、美影は背筋を伸ばして頷く。

 手際良くパスタを取り分ける汐音を見つめながら、美影は密かに冷や汗を掻いていた。


(それで、ボンゴレビアンコ……って、どうやって食べれば良いの……?)


 先にアサリを殻から外すべきなのか、それともそれはマナー違反だったりするのか。あれやこれやと考えながら、最終的に「鈴原先輩の食べ方をちゃんと観察しなきゃ」という発想に至るのであった。



 ***



「……さっきの話だけどさ」


 美影がおっかなびっくりボンゴレビアンコと食べていると、不意に汐音が口を開いた。初めて食べるミートソース以外のパスタに感動していたところだったが、意識は一気にパスタから離れていく。


「ボクが音楽関係のことで悩んでいるのは事実だよ。このことは誰にも話したことがないんだけど、でも……」


 汐音は、黄金色の瞳をじっとこちらに向けている。

 決して揺らめくことのない、まっすぐな視線だった。


「美影ちゃんがボクのことを見ていてくれたこと、凄く嬉しいって思うから。だから、話してみたいんだけど、良いかな?」

「……私で良かったら、聞かせて欲しいです」

「うん、ありがとう。あっ、食べながらで良いからね」


 もしかしたら、夢中になってパスタを食べていた姿を微笑ましく見られていたのかも知れない。恥ずかしく思いながらも、美影は「はいぃ」と弱々しく頷くのであった。



 汐音の両親は、父親がギタリスト、母親が作曲家として活動しているらしい。

 汐音は一人っ子で、両親からはずっと「音楽に囚われずに、自由にやりたいことをやって良いんだよ」と言われているのだという。


「だけど、それが逆に悩みの種になっちゃってね」


 か弱い笑みを零しながら、汐音は本音を漏らす。

 自分は自分のやりたいことをやれば良い。それは両親の優しさでもあり、最初は汐音自身もポジティブに捉えていた。両親の優しさに甘えて良いんだ。音楽じゃなくて、自分の好きなことを探して良いんだ。

 そう、思っていたのに。


「なかなか、自分のやりたいことっていうのが見つけられなくてね。読書だったり、映画を観に行ったり……そういう趣味はあるんだけど、そこから夢に繋がるってことにはならなくて」


 言いながら、汐音は力なく笑う。


 ――夢。


 汐音から発せられた言葉は、美影が思っていた以上にスケールの大きなものだった。何せ美影は目の前のことに一生懸命なのだ。自分の将来のことなんてまったく考えられていない美影に、果たして汐音の悩みを解決することができるのか。

 少しだけ、不安になってしまう。


「ボクは昔から、自分らしさを探すのに必死になっちゃってね。この一人称も、中学生の頃に無理矢理キャラ付けをしようと思って使い始めたんだ。そしたら何か癖になっちゃって……流石に大学生までには卒業したいんだけどね」


 頬を掻き、汐音はまた苦い笑みを零す。

 そういえば、汐音の一人称が「ボク」であることに最初は驚いた記憶がある。でも、今ではすっかり違和感なんてなくなっていた。むしろ、汐音らしさの出ている一人称だと思っている。


「鈴原先輩の一人称……私は、可愛らしくて良いなって思います」

「えぇっ」


 精一杯の勇気で素直な気持ちを伝えてみると、汐音は何故か瞳を大きくさせて大袈裟に驚いた。美影もまた「え」と驚き返すと、汐音はようやく苦くない笑みを浮かべる。


「それ、紡くんにも言われたんだよ。一年前、こっちに引っ越してきた時に。初対面だっていうのに、何か可愛いですねって」


 嬉しそうに、はたまたどこか照れているのように微笑む汐音。

 急に恋する乙女が目の前に現れて、美影は思わず面食らってしまった。


「紡くんはさ、やりたいことにまっすぐなんだよ」

「そう、なんですか?」

「うん。彼、サッカー部に入ってるでしょ。凄く楽しそうで、時には悔しそうにしていて……とにかく夢中になってるんだよ」

「…………」


 自慢げに語る汐音の姿を見て、美影は唖然としてしまう。

 紡の所属している部活がサッカー部であったことを、美影は今更知ったのだ。彼が夢中になっているものを、美影は何も知らなかった。


(私、瀬崎くんのことを何も知らないんだなぁ……)


 美影はまだ紡を意識してから日が浅いのだ。

 だからこれは仕方がないこと――とはいえ、何となくショックを受けてしまう美影がいた。

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