2-8 伝えたい気持ち
美影が選んだのは、声優界のトップを走るアーティストの代表曲だった。
ライブで必ず歌われる定番の曲で、ヴァイオリンから始まるイントロを聴くだけで腕が勝手に動き出してしまうほど、美影にとっては聴き慣れた曲だ。
汐音にイヤホンを貸し、美影にとっては何とも言えない沈黙の時間が流れた。
しばらくの間、汐音の表情はまったく変わらなくて美影は不安になってしまう。無意味に水ばかり飲んでしまい、トイレに行きたくなったらどうしよう……という謎の心配ごとまで重なってしまうレベルだった。
「え、っと……」
一曲聴き終えたらしい汐音は、静かにイヤホンを外す。音楽プレイヤーとともにイヤホンを受け取りながらも、美影は困った挙句に俯いてしまった。
だって――汐音の瞳が赤らんでいる。
音もなく涙が頬を伝っているのに、何故か表情からは温かさを感じて……。
「格好良い曲だね」
ようやく囁かれた言葉に、美影ははっとなって顔を上げる。
やっぱり汐音は泣いていた。
でも、その涙は決して心が苦しくなるものではないと断言できてしまう。
「ありがとう、美影ちゃん。ボク……音楽のこと、もっと知りたいって思ったよ」
情けなく下がった眉も、力なく笑う口元も、震えを帯びた声も、全部。
まるで何かから解き放たれたようだと、美影は思った。
***
汐音の涙が収まってから、イタリアンをあとにする。
そのまま解散――かと思ったらそうではなく、近くの公園で散歩をした。「情けない姿を見せてしまったね」と苦笑する汐音に、「そんなことないです」とブンブン首を振る美影。そんなやり取りを繰り返していると、心の中のもやもやが渦巻いていくようだった。
(ちゃんと言っておかないと、後悔するよね)
今日は美影にとって、夢のような時間だった。
誰かと休日を過ごすだけで奇跡的な出来事なのに、先輩の背中を押すことができたのだ。本当だったらここで満足すべきだし、伝えたいことがあるのならSNSでだって伝えられる。
だけど、何とかここまで頑張れたのだ。
せっかくなら、もう少しだけ頑張ってみても良いかも知れない、なんて思ってしまう。
「先輩、ちょっと……疲れちゃいました。ベンチ、座ります?」
「ん、そうだね。座ろっか」
優しく微笑む汐音が眩しい。
きっと、悩みから一歩抜け出せたおかげなのだろう。……なんて、少し自意識過剰な考えだろうか。
美影はただ、好きなアニソンを汐音に聴かせただけだ。言わば単なる布教活動であり、もっと引き込めるのなら引き込みたいと思ってしまうのがオタクの性である。
「で、何か言いたいことがあるのかな?」
得意げに微笑みながら、汐音は訊ねてくる。
どうやら美影の思惑はバレバレのようだ。苦笑しながらも、美影は本音を零す。
「あの、さっき聴いてもらった声優アーティスト……私、ファンなんです。ライブBDとかも持ってるんですけど……。よ、良かったら貸しましょうかっ?」
思いっきり声が裏返る。
もちろんオタクにも人それぞれいるとは思うが、布教活動ほど楽しいものはないと美影は思うのだ。自分が好きなものを、好きな人も好きになってくれる。
こんなにも嬉しいことはない、というのが美影の考えだ。
「借りるんじゃなくて、一緒に観るんじゃ駄目かな?」
「……えっ」
「今度はお家デートってことだね」
ノリノリで言い放ち、ウインクを放つ汐音。
美影はちょっとだけポカンと口を開けてから、すぐに首を横に振った。
「そうじゃなくて。私……鈴原先輩と、友達になりたいです」
自然と零れ落ちた言葉とともに、美影の鼓動は徐々に速くなっていく。
きっと、この本音は今言わなきゃ後悔することだと思った。一緒にライブBDを観るのも、汐音とお家デートするのも、心躍る響きではある。
でも、そうじゃなくてはっきりと口にしたかった。
自分から、汐音に近付きたかったのだ。
「友達……。そうか……友達、か」
「…………鈴原先輩?」
「汐音ちゃんって呼んでくれても良いんだよ?」
「えっ、あ……いやその、それはまだハードルが高いと言いますか……っ」
からかうように笑う汐音に、慌てふためく美影。
心の中で「汐音ちゃん」と呼んでみようとしたものの、やっぱり恥ずかしさが勝ってしまった。ごめんなさい、と言わんばかりに美影は頭を下げる。
「ごめんごめん、冗談だよ。あまりにも嬉しかったから、ついついからかっちゃったよ」
頭を掻きながら、汐音は照れ笑いを浮かべる。
さらりと「あまりにも嬉しかった」なんて言うものだから、美影の鼓動はますます高まってしまった。嬉しい気持ちが連鎖して、何故か目頭が熱くなってくるほどだ。
「美影ちゃん、これからもよろしくね」
「っ! は、はい! よろしくお願いしますっ」
「……それから」
妙に緊張する美影を見て微笑みながら、汐音は言葉を続ける。
「ボクを見つけてくれてありがとう」
――あなたを見つけられたのは、あの日……あなたのことを探し回っていたからなんですけどね。
そう思いながら、美影はしっかりと汐音の瞳を見つめるのであった。
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