2-7 ボクのやりたいこと

「だから、さ」


 しかし、今はショックを受けている場合ではなかった。

 汐音を包む空気が変わる。こちらを見つめる瞳は微かに揺れていて、美影は息を呑んだ。確かに紡のことも大切かも知れない。

 でも、今は今でちゃんと見つめなくてはいけない人がいる。


「紡くんの姿を見ていて、ボクは思ったんだ。本当にボクがやりたいことってなんだろうって。そしたら、思った以上に簡単に出てきたよ」

「それ、は……」


 美影が言っても良いことなのか、一瞬だけ悩んでしまう。しかし、汐音は何かを待っているようにこちらを見つめていた。


「音楽、ですか……?」


 意を決して訊ねると、汐音は小さく頷く。

 まるで恥ずかしいことだとでもと思っているように、汐音の頬はほんのりと赤く染まっていた。視線を逸らして、眉をハの字にして、背中を丸めて。

 あまりにも可愛らしい姿に、美影は思わず「ふっ」と笑みを零してしまった。


「な……っ」


 何で笑うんだ、とでも言いたいように焦り出す汐音。

 その姿もまた可愛くて、ニヤニヤが止まらなくなってしまう。先輩に対する感情だとは思えないほど、美影は微笑ましい気持ちに包まれていた。


「先輩」

「……笑いたければ、笑えば良いじゃないか」

「い、いじけないでください。そうじゃなくて……私は、先輩は凄いって思うんです」


 唇を尖らせながらいじけてしまった汐音に苦笑しながらも、美影は思った言葉を素直に零す。すると、汐音の眉がピクリと動いた。いったい何を言っているのか、意味がわからないといったところか。

 美影は小さく息を吸い、汐音と視線を合わせる。


「確かに、遠回りをしたって思うかも知れないし、もっと早く気付けたらって思うかも知れません。それでも、鈴原先輩はやりたいと思えることを見つけました。それって、凄いことだって思うんです」


 言いながら、美影は自分の心が痛むのを感じる。

 自分は誰よりも、人と接することから逃げてきた人間だ。

 きっと、いや……絶対に。紡というきっかけなければ、今の美影はこうして汐音と向かい合うことはなかっただろう。一人でいるのが当たり前だった美影にとって、ようやく見つけた「やりたいこと」。

 誰かと遊びに出かけたり、同じものを見つめて笑ったり、悩みを打ち明けたり……。

 そんな当たり前の青春が、自分にとってのようやく見つけたやりたいことだ。

 だから、夢なんてあまりにも遠すぎるもの、美影にはまだ考えられていなかった。


「凄い、かぁ。そんな発想、ボクにはなかったよ」


 あはは、とわざとらしく苦笑を零す汐音。

 さっきまでのような不安げな表情も、いじけたような表情も、そこには存在していなかった。まるで心の中の何かが解けたように、浮かべた苦笑はだんだんと優しいものへと変わっていく。


「でも、本当にボクはようやく気付けたってだけなんだよ。ずっと避けてきた音楽に興味があるかもって気付いて、それから……どうしたいのか。それがまだもやもやしてるって感じで」


 言いながら、「いやぁ、先輩なのに情けないよね」と頭を掻く。

 だけど、心なしか声は弾んでいた。気付いたけどもやもやしている――そんな状況でも、前に進めたことをポジティブに思っているのかも知れない。


「どんな音楽が好きとかまでは、まだわからないって感じですか?」

「そうだね。父さんみたいにギターを始めたいのか、母さんみたいに曲を作ってみたいのか。それとも、歌ってみたいのか。何から触れたら良いんだろうっていう感じで」

「……なるほど……」


 美影は顎に手を当て、思考を巡らせる。

 思い切ってご両親に訊いてみたらどうですか。……というのも、きっと一つの手段なのだろうと思う。でも、汐音は今の今まで音楽を避けてきたのだ。両親に訊ねるという行為は、美影が想像できないくらいに勇気がいることかも知れない。

 だったら、美影自身がきっかけを与えるべきだろうか。


(う、うーん……)


 眉根を寄せながら、美影はすっかり冷めてしまったパスタの最後の一口を頬張る。長めの咀嚼をする振りをして、美影は考えをまとめていた。

 単なるアニメオタクである美影にとっての音楽とは、つまりアニソンだ。アニソンシンガーだったり、声優アーティストだったり、はたまたゲーム音楽だったり。とにかく、美影の聴く音楽には偏りがある。基本的には女性ボーカルの格好良い曲を好んで聴いているが、果たしてその曲が汐音に刺さるかどうか。というか、きっかけを欲している汐音にアニソンを与えてしまって大丈夫なのだろうか。

 まったくもってわからなくて、美影は不安な気持ちでいっぱいになる。


「あ、の…………鈴原先輩」


 しかし、美影にできる方法と言えばそれだけだった。

 ええいままよと思いながら、美影は鞄から音楽プレイヤーを取り出す。すると、汐音の瞳は興味津々に見開かれた。


「あっ。美影ちゃん、音楽聴くんだね」

「は、はい……。私、その…………実は、アニメオタクなんです。なので、聴くのはもっぱらアニメソングなんですけど」


 正直、汐音に自分のことを話すのはまだ恥ずかしかった。

 だって、汐音はコミュ力の高いリア充だ。……というだけではなくて、もちろん等身大の高校生らしい悩みもたくさん抱えている女の子でもある。

 だけどやっぱり、ぼっちでオタクの美影にとっては、汐音の存在は眩しいものだった。色んな人に頼られて、自分の夢に気付き始めて、そして――恋もしている。


「ただの私の趣味なので、鈴原先輩に合うかどうかはわからないんですけど……。良かったら、聴いてみますか?」


 恐る恐る、美影は訊ねた。

 汐音がどんな反応をするのか、怖い気持ちがまったくないかと言われたら嘘になる。でも、それ以上の気持ちが美影の心を包んでいた。

 ほんの少しでも、汐音の力になってみたい。

 それから、汐音に自分のことを知って欲しい。

 元々のきっかけが紡だとか、恋のライバルになるかも知れないとか、今はまったく関係ないのだ。ただ、汐音に近付いてみたい。それだけだった。


「うん、聴かせてくれるかな。美影ちゃんの好きな音楽」


 汐音の黄金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。

 馬鹿にするでもなく、かと言って興味津々な訳でもない。まるで覚悟を固めたような、真剣な眼差しがそこにはあった。

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