第一章 ついでに恋に落ちた私

1-1 きっかけの言葉

「陽花里」

「……何?」

「勘違いかも知れない。でも俺、何となく陽花里の言いたいこと、察してるんだよ」

「え……?」


 昼休みの放課後に、二人の男女の声が響き渡る。

 実際にはもう一人生徒が潜んでいるのだが、そんなことなど知るよしもない二人のラブコメは着々と進んでしまっていた。


 きっと今、陽花里の鼓動はドキドキと高鳴っているのだろう。傍から聞いているだけの美影だってそうだ。「察してるとしても言わないであげて!」と謎の立場からの突っ込みを入れつつ、自分の顔が赤くなるのを感じる。


 だって、リアルな告白シーンを見るのなんて初めてなのだ。例え無関係の人間だとしても、むず痒い空気がこちらにまで伝わってきてしまう。

 だから、これは仕方のない話なのだ。


「悩んでることがあるんだろ?」


 そう、陽花里には悩んでいることがあって…………って、あれ?


(いやいやいやいや何言ってんのそんな空気じゃないのわかるでしょ。もしかして鈍感系主人公か何かですかぁ?)


 美影は思わず怒りを爆発させた。

 ここまで引っ張っておいて悩み相談な訳がないだろう。そう思いながら、美影は息を殺して二人の様子を窺う。

 するとそこには、微かに頷く陽花里の姿があった。


(…………すみませんでした)


 そっと目を閉じ、美影は紡に謝罪の言葉を浮かべる。


「ごめん、その……。声優のことでさ、最近すっごく悩んじゃってて。先輩とか同期の子に頼っても、何か……心の中のもやもやが取れなくてさ」


 か弱い声とともに、「あはは」と力なく笑う陽花里。

 どうやら本当の本当に悩み相談で間違いないようだ。しかも声優についての悩み。これは、果たして美影が聞いて良い話なのだろうか。


(いや、駄目だよね)


 これはもう、勇気を出してここを立ち去るしかない。ついさっきまで寝ていたということにすれば、陽花里が悩みを抱えていることも知らない振りをすることができる。


「あっ、チャイム……」


 すると、このタイミングで授業が始まるチャイムが鳴り始めてしまった。

 そうだ。チャイムの音でようやく目が覚めた女。この設定でいこうと美影は心に決め、動き出そうとする。


「ごめん。もっとテキパキ話せたら良かったんだけど。また今度……」

「待て」


 美影の赤紅色の瞳が大きく見開かれる。

 慌てて教室に戻ろうとする陽花里の手を、紡は確かに掴んでいた。「やっぱりこれはラブコメ展開だった!」と美影は内心大騒ぎである。

 しかし、紡の「待て」に合わせて美影もまた動きを止めてしまったため、結局動けなくなってしまった。


「あー、その。俺はこっちの方が大事な用だと思ったんだが、駄目だったか?」


 その訊き方は卑怯でしょうよ、と思いながら、美影は再び傍観者になる。


「…………」


 すぐに返事をしないまま、陽花里は揺れる瞳を紡に向けている。……のを、美影はひっそりと覗き見てしまい、慌てて目を逸らす。その表情は、教室の中でも、声優として動画番組に出ている時でも、まったく見たことがない顔だった。


「ごめん。ありがとう」


 囁くような声を漏らしながら、ぎこちない笑みを零す。

 やがて、覚悟を決めたように陽花里は口を開いた。



 陽花里が今、悩んでいること。

 それは、率直に言うと『歌』についてのことだった。

 陽花里は幼い頃からアニメやゲームが大好きで、アニメソングも好きなのだという。今は声優としてがむしゃらに頑張っているし、夢を叶えられているという実感もある。でも、一つだけ羨ましいと感じていることがあるのだ。


 ――アーティストデビュー。

 先輩声優が次々とアーティストとしてデビューしていく姿を見る度に、憧れの目線を向けてしまう。と同時に、悲しい気持ちになってしまうらしい。


「絶対に辿り着けない場所だってわかっちゃてるから、辛いんだろうね」


 どこか他人ごとのように、陽花里は呟く。

 自分には演技の才能はあっても歌の才能はない。声優デビューする前からそれは自覚していて、歌うことから目を背けてきてしまったという。


 陽花里が歌を得意としていないことは、正直美影も理解してしまっていた。一度キャラクターソングを担当した時、それはもう絶妙な音痴っぷりだったのだ。そのキャラクターは音痴キャラだったため、声優として素晴らしいと絶賛されていた。


(やっぱりあれって、わざと下手に歌ってる訳じゃなかったんだ)


 納得する気持ちと、本音を知ってしまったという罪悪感で美影は渋い顔になる。陽花里は今、相手が頼れる幼馴染だから悩みを吐露しているのだ。決してこんなモブに聞かれたかった訳ではなく、申し訳ない気持ちに包まれる。


「なぁ、陽花里」


 ややあって、紡の声が聞こえてくる。

 その声は想像以上に平坦なものだった。



「悩んでいる時点で、陽花里はとっくに前へ進もうとしてるんだよ」



 まるで何でもないことのように、紡はさらりと言い放つ。


(…………えっ?)


 ――何故だろう。


 詳しい理由はわからない。

 紡の言葉とともに、ぶわりと強い風が吹いて……それで、思わず手に持ったランチバッグを落としそうになってしまった。危うく物音を立てそうになったから、こんなにも鼓動が高鳴っているのだろうか。


 美影はぎゅっと胸を掴む。

 苦しいのに嫌な気分にはならなくて、何故だか瞬きが多くなる。言い訳を重ねたい気持ちと、素直に受け入れたい気持ち。二つがごちゃごちゃに混ざり合って、上手く感情を整理することができなかった。


「俺だって、陽花里がアーティストデビューする姿を見てみたいんだよ。だから俺がカラオケでも何でも付き合ってやる。……だってこれは、俺のわがままだからな」


 言いながら、紡は屈託のない笑顔を陽花里に向ける。

 陽花里の翡翠色の瞳は――いつの間にか、輝きに満ちていた。迷いを吹き飛ばしただけではない、もっと別のところにある輝き。


「そっか。……そっかそっか。しょ、しょうがないなぁ。そのわがまま、あたしが付き合ってあげるよ」


 どこか上ずったような声。

 まだ真っ昼間だというのに、茜色に染まる頬。

 嬉しい気持ちが溢れて止まらない、満面の笑み。


 あぁ、たった今彼女は恋に落ちたんだな、と。

 さも当然のことのように思ってしまう。そのまま逃げるように「ほらっ、早く教室行くよ!」と言う声なんか、どこまでも無邪気なものだった。


(悩んでいる時点で、前に進もうとしている、か……)


 誰もいなくなった屋上で、美影は一人立ち尽くす。

 紡の言葉が頭から離れない――という事実は、最早認めるしかないのだろう。陽花里に向かって放たれた言葉のはずなのに、不思議なこともあったものだ。


 地味で良い。ぼっちで良い。モブキャラで良い。

 当たり前のように頭の中にあった言葉達が、今は不安定に揺れている。


 気付いてしまったのだ。

 そんな自分を変えてみたい、という前向きな気持ちに。


 美影にきっかけをくれたのは、間違いようもなく――瀬崎紡の言葉だった。

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