2

□サディアス


 暗く細い道を、サディアスは黙して進む。灯りはないが、夜目は利く方だ。暗闇に目を慣らしてもいるため、歩行に問題はない。

 この古城は、もともと戦時に用いられていたものなのだろう。至るところに隠し通路が張り巡らされ、いつどこから襲撃されるかわかったものではない。実際、初日にはエレーレイスが刺客の手により殺害されている。

 こんな狭い島で、一体何と戦っていたのだろう。ろくに奪い合うものもなかろうに。

 そんなことをぼんやりと思いながら、サディアスはある地点の壁を押す。かたん、とかすかな音を立てて壁が押し込まれ、僅かではあるが光が差し込んできた。

 サディアスが足を踏み入れたのは、人の目を避けるようにして設計された小部屋だ。窓はなく、室内に灯された蝋燭の炎だけが光源である。ほんの気分で息を吹き掛ければ、たちまちこの空間は闇に包まれることとなろう。

 壁をもとに戻してから、サディアスは喜怒哀楽いずれも表出させずに視線を移す。その先には、両手両足を鎖で縛られ、壁に磔にされた人影がある。気を失っているからか、首をだらりと垂れたまま身動きひとつしない。

 そんな人影につかつかと歩み寄り、サディアスは無造作にその頭をはたいた。いつも誰かを殴る時は拳を握り込むが、今回はなるべく一度に損傷を与えぬようにと指示されている。いちいち加減するのは面倒だが、気を晴らす手段を設けられているからには多少の妥協も致し方のないこと。これ以上の注文があれば考えものだが、この程度であればサディアスも飲む。交渉のやり方は自分なりに心得ているつもりだ。

 さて、頭を叩かれた相手はというと、くぐもったうめき声を上げながらのろのろと身動きした。意識を取り戻すのでさえ、こうも時間がかかるものか。物言いを抜きにしてもこちらを苛立たせるのはやめて欲しいとサディアスは思う。


「サディアス……お前、何のつもりだ……?」


 顔を上げた囚われの男──ルイスは、苦しげに顔を歪めながらも確かにサディアスを睨み付けた。あっさりと気絶させられる程には貧弱だというのに、こちらへの態度ばかり大きくて困る。どう足掻いても逃げられない状況にあるのだから、少しでも従順にしていれば良いのに──不満は積もるが、口にはしない。この期に及んで口論とは面倒だ。

 しかし、ルイスがこちらの意図を理解するはずもない。歯を食い縛りながら、息も絶え絶えに彼は続ける。


「つくづくお前は手のかかる従者だったが……転びにまで及ぶとはな。私を下に見ていたのは知っている。だがメレディス家までもを裏切るとは、大した度胸だ……。テジェリアか? それともコフィーか? ……ああ、どちらでも構わない。どこに転ぼうと、お前の辿る道は変わらないからな。サディアス、お前は一時の利に食い付いただけだ。裏切った先で、お前が重用されることはない──お前には、平気で主人を裏切ったという汚名が一生ついて回る。そうした経歴を持つ者が重んじられるなど、作り物語でもそうそうない事例だ」


 辿る末路など初めから明らかだろうよ、とルイスは吐き捨てる。しかしその表情は嬉しげではなく、ただひたすら憤り一色で染め上げられていた。

 結局彼は何が言いたいのだろう。サディアスは首をかしげる。自分を害して囚われの身にやつしたことを責めたいのか、はたまた味方に戻って欲しいのか。いつもルイスはこちらを非難するが、その言葉が何に帰結するのかがわからない。サディアスの非をなじりながら折檻も懇願もないのだから、受け手としてはどう対応したものかと困ってしまう。これだからルイスは面倒なのだ。

 何にせよ、ルイスから叱責されようともサディアスの心が動くことはない。早く無駄な行為だと気付いてくれれば良いが、ルイスに限ってそれはないだろう。彼はどこまでも愚直で、物わかりの悪い人間だ。その性質がすぐに修正されるとは思えない。


「──呆れた。これがあなた方の損得勘定で動く訳がないでしょう」


 かつん、と靴音が響く。ルイスがゆっくりと目線を動かすのがわかった。その後に、彼は瞠目と共に息を飲む。


「お前、は──。やはり、裏で手を回していたのか……」

「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださるかしら。あなた方の理屈で何もかも語られるのが、私は一等嫌いなんですからね」


 暗がりの中から現れたのは、全身を黒衣に包んだ女。その相貌さえ、繊細な意匠の施されたヴェールに覆われている。

 アイオナ・コフィー。掠れた声で、ルイスがそう呟く。名代側の人間ということもあってか、その記憶に間違いはなさそうだ。

 アイオナはくつくつと喉を鳴らしながら、ルイスの目の前まで歩を進める。彫像のようにじっとしているところばかり見てきたが、感情表現に乏しい訳ではないらしい──サディアスにとっては、特に重要でも何でもない発見だが。


「お可哀想なルイスさま。あなたは何もわかっておられない。あれは利益を求めてあなたのもとを離れたのではありませんよ」


 サディアスがぼんやりととりとめのない思考を巡らしている最中、アイオナは密やかに笑いながら手袋に覆われた手で燭台のひとつを持ち上げる。そして、空いているもう片方の手を自らの首元へ運び、ゆっくりとヴェールを持ち上げた。ひゅ、とルイスの喉が小さく鳴る。


「お前──その、肌は……」

「よく見えているようで、何よりでございます。貿易に関わりあるメレディス家にいたのならば、一度はご覧になったことがあるのではありませんか? あなた方が、こぞって売り捌いているのですから……」


 ヴェールを取り払ったアイオナの顔。特段興味がある訳ではないが、せっかくの機会だ。サディアスは横目でちらりと盗み見る。

 あらわとなったアイオナの皮膚。それはスコットランドに住まう人間の多くとは異なり、日に焼けている上に黄身がかっている。サディアスも褐色の肌を持っているが、自分のそれともまた少し違う、欧州エウロパでは珍しい色合いだ。

 何よりも目を引くのはその目鼻立ちである。肌色こそ地中海に面した地域にもあり得るかもしれないものだが、アイオナの顔立ちは欧州人のそれとは系統を異にする。目元は一重で鼻が低く丸みを帯び、唇は薄い。全体的な彫りが浅く、のっぺりとした印象を与える。頬にははっきりとした刺青が刻まれているが、何と記されているのかサディアスには判別できない。

 見慣れない造形をしたアイオナの素顔を前にして、ルイスはわかりやすく動揺しているようだった。唇を戦慄わななかせ、彼は震えを帯びた情けない声をこぼす。


「お前は……アイオナ・コフィーではないな? スコットランド……いや、欧州の人間にも見えない。もしや、東方──東の果ての者か」

「あら、よくご存じでいらっしゃるのですね。たしかに私は欧州の生まれではありません。マラッカはご存じですか? そこが私の故郷です。──ああ、知らずとも構いません。あなたが無知で落胆する程の関係ではありませんもの」

「……奴隷か」


 短い推察だったが、アイオナの耳には届いていたのだろう。くすりと笑い声を漏らし、彼女は嘲りと共に首肯する。


「正解です。あなた方が散々売り飛ばしている品物だった時期が、この私にもあったものでねえ。おかげさまで、荒涼たるスコットランドまで連れてこられてしまいました。どうせなら、スペインやポルトガルの都市が良かったのですけれど……こればかりは巡り合わせでしょうか。とんだ田舎に飛ばされて、残念です」

「……本物のアイオナ・コフィーはどうした」

「あら、聞いたことがありませんか? 二年前に、別邸で過ごしていたコフィー家の皆様が火事に見舞われた──と。その際、ご両親といっしょに焼け死んでしまいました。誠にご愁傷様でございますね」


 あっけらかんと、アイオナを名乗る女は言い放つ。一瞬にしてルイスの周囲に怒気が膨れ上がったが、彼女は罪悪感など知らぬ顔で笑い飛ばすのみ。


「自分のことでもないのに、随分とお怒りのようですねえ、ルイスさま。それはアイオナ・コフィーの肌が白いからでしょう? 私やあれのように、欧州人らしからぬ容姿の者が同じ目に遭っていても、同じように思われたかしら。いえ、いいえ。きっとそれはあり得ぬこと。あなた方にとって、私のような者は同じ人ですらないのでしょうから。野蛮で無知で、生意気な土人──そのような生き物には、人として生きる権利などないとお思いなのでしょうね。皆、みいんな、そうですもの」

「……お前の目的はなんだ。サディアスをそそのかし、我々を潰したところで、カルヴァートの遺産が確実に手に入るとは限らない。テジェリア家も、エリスも健在だ──ここで私にかかずらっている暇はないと思うが?」

「──ハ、」


 言い返されたアイオナは、すぐさま鼻で笑い飛ばした。つと手を伸ばし、身動きの取れないルイスの右手に触れる──何度か触れては離してを繰り返してから、彼女は人差し指を選んだ。


「目的、目的ですか。もしやルイスさま、私が単純にカルヴァートの遺産を欲しがっているとお思いだったのですか?」

「それ以外に、何がある」

「復讐、ですよ。私がしたいのは」


 ぐぐ、とあらぬ方向に曲げられたルイスの人差し指は、やがて固定を失い脱力した。折れたのは一目瞭然だった。

 ルイスが呻く。しかし悲鳴は上げない。前々から気付いていたことだが、彼は痛みを我慢する癖があるようだ。それが何の役に立つのかはわからないし、サディアスからしてみれば無意味な反応にしか見えないが──今回も、特にこれといった収穫を招いてはいないらしい。むしろ、アイオナの嗜虐心を煽っているようにも感じられる。


「私はね、私をこのような目に遭わせた人々、彼らと同じ肌の色を持つ者、彼らに関わりのある者、辛い過去を思い出させるような者……その全てに復讐するんです。肌の白い者も黒い者も、関係ありません。あ、ルイスさまは私を虐げた者と同じように白い肌を持っていますから、勿論復讐の対象です。良かったですねえ」

「コフィー家を、滅茶苦茶にしておいて……何故今更、カルヴァートの遺産を……」

「カルヴァート家の遺産なんて、正直どうでも良いんです。ただ、私の目的の糧になりそうだったので、せっかくだからいただいておこうかな、と。それにほら、親戚連中が疑いの目を向けてくるものですから、ね? いくら火傷を騙って顔を隠して、間抜けな使用人たちは騙せても、外野は茶々を入れてくるものじゃありませんか。そいつらを黙らせるためにも、コフィー家の名代としてこの会合に参加する必要があったんです。ご理解いただけました?」

「そんな、もののために……コフィー家の当主たちを……」

「そんなもの?」


 中指が折られる。ルイスが脂汗を流す中、アイオナは間髪入れずにその頬を打った。


「良いですねえ、肌の白い人は。私の苦労なんて少しも知らないでしょう? 私のことなんか、同じ人とも思っていないんでしょう? 少し見た目が違うだけで、こんなにもおごれるなんて……一周回って感心してしまいますよ、あなた方の自尊心には。忌々しいったらありゃしない」


 ひとしきりルイスの頬を打ってから、アイオナは息を整える。唇の端を歪め、ルイスの前髪を掴んで強引に目を合わせながら、彼女は粘りけを含んだ声を出した。


「随分と偉そうに振る舞っていらっしゃいますけれどね、ルイスさま。私、あなたのことはよく知っているんですよ」

「何の……ことだ……」


 ずっと立ちっぱなしというのも疲れてきた。サディアスはふわあ、とひとつ欠伸をして、その場を立ち去ろうとする。これ以上暗がりの中にいたら、立ったままでも居眠りをしてしまいそうだ。

 一度だけ振り返ると、アイオナがルイスの耳元に唇を近付けていた。つい数日前、交渉の材料として伝えた情報を突き付けようとしているのだろう──サディアスにとっては、何が重要なのかさっぱりわからない、取るに足らない話だが──アイオナはいたく喜んでいる様子だった。ただの事実を教えただけだというのに。


「ルイスさま、あなたは本当のルイス・メレディスではない──つまるところ、偽物でしょう?」


 アイオナの囁きを耳にしながら、サディアスは隠し部屋を出る。これで当分、口うるさい小物に煩わされずに済むと、心の内で解放感に浸りながら。

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