7

■テオフィロ・レイェス


 今この状況で何か欲しいものはないかと問われれば、何がどうなっているのか説明して欲しいとテオは切に思う。

 不安げな顔をしたアドラシオンの手を引きながら、彼は夜の古城を忙しなく歩き回っていた。この数日で間取りはある程度覚えたつもりだが、昼間に出歩くのとは訳が違う。光と言えば手元の燭台くらいのもので、それすら失えば前後不覚に陥ることは間違いない。


「テオ……どこに行くの? 暗くて、怖いよ……」


 昨日までは考えられなかったが、どういう訳かアドラシオンの精神は退行してしまったらしく、弱々しい声でこちらの手をぎゅうと握ってくる。以前なら笑い話にもできただろうが、今となってはとても笑えない。

 これは憶測に過ぎないが、例の薬湯が一因になっているのではないかとテオは考えている。アドラシオンは鎮痛効果があると言って愛用していたが、あれは単なる良薬ではないのだろう。新大陸由来の薬草には、身体のみならず精神にまで害を及ぼすものもあると聞く。全てが薬湯によってもたらされた訳ではないだろうが、アドラシオンの服用は度が過ぎていた。依存症になるのは時間の問題と言っても良いだろう。

 故にこそ、テオはアドラシオンを薬湯から遠ざけようとした。セナイダからあまり無理をさせないように、と言付けられていたこともある。アドラシオンは若い義母を毛嫌いしているようだが、皮肉なことに相手は本気で彼女のことを案じている。マドリードにいた頃も、何度となく薬湯の服用をやめさせようとしていたようだが、当然の如く聞く耳は持たれなかった。アドラシオンにとって、成分の知れぬ薬湯の方が信用に足る存在だったのだろう。

 幸か不幸か、アドラシオンは生き延びた。その代償にこれまでの誇りと矜持を失ってしまったようだが──今は主の変化にかかずらっている場合ではない。いや大いに問題のある状況なのだが、これに際してまず見付けなければならない人物が一向に見当たらず、テオは難儀しているのであった。


(エリス……あいつ、どこに行った……⁉️)


 この会合の主催者──正確には彼女の叔父なのだが、彼が死した以上引き継ぎの役目を担った者が名乗るべきだろう──エリスが、何の知らせもなく姿を眩ませてしまった。

 大人しくなったとはいえ、アドラシオンが豹変するという異常事態である。これを放置しておく訳にもいかないので、スペインへの帰還、最悪でも医師を呼ぶという提案を持ちかけよう──と思い立ったテオだが、前述の通りエリスがどこにも見当たらない。決して狭いとは言えない古城ではあるものの、これでも何周も巡っている。行き違いになっているとすれば、エリスに避けられているとしか思えない。


(……まあ、本当に避けられてるのかもしれないけどな)


 かつてケントからは一蹴されたが、テオはエリスに対する疑念を未だに拭いきれないでいる。

 次々と死を遂げる会合の参加者たち。彼らが消えることで最もうまみを得られるのは、カルヴァート家の遺産を死守せんとするエリスだ。彼女自身が手を下していなくとも、参加者同士で潰し合うように仕向けていてもおかしくはない。混乱に乗じてこの古城から脱け出してしまえば、遺産に繋がる鍵はエリスの手元に残る。

 ──と、憶測するのは簡単だが、まだ確定事項ではないのがもどかしい。仮にテオの予測が当たっていたとして、エリスの心願が成就するとは考えにくい。たとえこの古城を脱出したところで親類のほとんどいない彼女が身を寄せられる場所が多いとは思えないし、カルヴァート家の遺産を狙う人間が全て駆逐される訳でもない。むしろ、無法地帯に身を投じると言っても過言ではない選択だ。

 その真意までは図りかねるが、エリスは賢しい。どのような結果がもたらされようとも、ただでは転ばないだろう。

 ただ逃げてくれるだけならまだ良い。もし、エリスにとって見過ごせない存在がまだ古城に残っていたら──いや、最悪彼女が全滅を狙っているのだとしたら。


(……おれの命も危ない、か)


 犠牲者を出さずに会合を終えたい。そう望んでいたエレーレイスが現状を目の当たりにしたら、一体どんな顔をするだろうか。

 残る参加者は、自分たちを除けばコフィー家とメレディス家の二組。今まで動きを見せなかった彼らだが、強敵であるヘーゼルダインとテューフォンが消えたことで日和見から脱する可能性は高い。できることなら派手に動いて、エリスの狙いをテジェリアから外させてくれたのならありがたいが──何事も他力本願は良くない。何より、他者を身代わりにするような真似は避けたいところだ。あまり関わりのないアイオナはともかく、お世辞にも謀略向きではないルイスの命を対価にしてまで生き延びたいとは思えない。

 何はともあれ、まずはエリスを見付けなければ。既に古城を去っていればそれで良いし、留まっているのなら早めに姿を見せて欲しい。アドラシオンの精神が変調したこともあり、この時のテオは酷く焦っていた。


「ひっ……! て、テオ、あれ……!」


 物思いに耽りながら歩を進めていた矢先、後方からか細い悲鳴が上がった。咄嗟に身を翻し、アドラシオンを抱き込んで彼女の盾となる。

 幸いにも、アドラシオンの身に何か起こったという訳ではなかった。彼女はふるふると震えながら、一点を指差している。それが恐怖を与えたのであろう。


「あんた……ルイスさんか……? 一体どうしたっていうんだ……」


 アドラシオンの指差す先にいたのは、一目でそうとわかる程尋常ではない怪我を負ったルイスだった。

 目の前がよく見えていないのだろうか。テオが声を上げたことで、ルイスはのろのろと顔を上げた。頬は赤く腫れ上がり、片目は開くことすらできないのか力なく瞼を下ろしている。唇は切れ、端正な顔は青痣と血にまみれていた。見慣れた清潔感のある服はどこにもなく、体液で汚れ破れた衣服の端々から見える肌は痛々しい。幽鬼がいるのだとすれば、きっとこういった風体をしているのだろう。

 ルイスは顔を歪めながら、一歩こちらに近付いた。しかし上手く力が入らないのか、ぐらりと体勢を崩してしまう。そのまま倒れる──かと思いきや、壁に手をついてどうにか踏みとどまった。その指はあり得ない方向に曲がり、爪は全て剥がれている。


「その声は……テジェリアの従者か……。お前たちは、無事なのだな……」

「完璧に無事って訳でもないが……まああんたに比べたら元気だよ。それよりもどうしたんだ、その怪我は。まさかエリスにやられたのか?」

「エリス……?」


 もしやメレディス家が次なる標的に選ばれたのでは──そんなテオの憶測に対して、ルイスは僅かに首をかしげた。半開きの目に戸惑いの色が浮かぶ。


「何故……あの女が出てくる……? あれは、違う。あの女がやったのではない……目的は不明だが、彼女は私を助けた……」

「助けた……?」


 うなずき、ルイスは息を吐き出す。呼吸するだけでもやっとのようだった。


「エリス、よりも……アイオナ・コフィーを、警戒した方が良い……。あれは、アイオナ・コフィー本人ではない……。彼女の名を騙る、全くの別人だ……」

「は? アイオナ? しかも別人って、どういうことだよ?」

「──やっぱりそうだったか」


 低く、地を這うが如き声色。

 テオの背筋を冷たいものが伝う。ルイスと合わせていた目線を慌てて上げれば、そこにはいつの間にか雲の隙間から差し込んでいた月光を背負う大男がいる。


「に……ニールの兄さんじゃないか。やっぱりって何だよ? こっちは状況がさっぱりなんだが……」


 見知った相手とはいえ、油断はできない。いつでもアドラシオンを抱えて逃げられるようにと身構えつつ、テオは表面上こそ軽快に眼前の相手──ニールへと声をかける。

 鮮烈な青が、眼差しをもってテオの頬を刺す。しかしそこに敵意や殺意はない──今のところは、だが。


「言葉通りの意味だよ。うちのお嬢はアイオナ・コフィー本人じゃねえ──うまく成り済ました偽物だ。俺はその告発を受けて、お嬢の正体を看破すべくコフィー家に入り込んだ。密偵ってやつだな」

「そ……そりゃとんでもないな。じゃあ、本物のアイオナ嬢は……?」

「……死んだ、そうだ。奴が、殺したと……」


 単に影武者でも立てているのかと思いきや、ニールではなくルイスが苦しげに答える。まるで自らの親類が同じ目に遭っているかのような言い様だった。


「……とにかく、アイオナ・コフィーの偽物が持つ加害性はメレディスの坊っちゃんを見りゃ一目瞭然だろう。奴がどういった基準で坊っちゃんを狙ったのかは知らないが、下手すりゃお前らも餌食になりかねない。特にお前、主人に何かされたくなきゃ、カルヴァートの遺産なんて放ってとっとと帰れ。前の強気なお嬢さんならともかく、戦意も何もないただの女がいるべき場所じゃねえ」


 テオは何も口にしなかったが、アドラシオンの異変は一目瞭然なのだろう。まるで初めからわかりきっているとでも言うように、ニールはきっぱりと断言する。

たしかに、ニールの言葉は正論だ。これまで穏健派として動いていたルイスを、理由は不明ながらもここまで加害したアイオナ──の偽物が存在するとなれば、アドラシオンが狙われるのも時間の問題だろう。そのアドラシオンは一時昏睡状態に陥った上に人格が変わるまでの精神状態に追い込まれている。会合どころでないと、テオも理解するところである。

 しかし、ここではいそうですかとうなずける程テオはお利口さんではない。アドラシオンとルイスの前に立つと、精一杯の虚勢を張りながら彼は唇をつり上げた。


「尤もな助言だ、ニールの兄さん。だが、あんたがそうまでする理由がおれにはわからなくてね。おれたちを排して、カルヴァートの遺産を独り占めしようって魂胆かい?」


 ニールがアイオナの素性を追っていた、という話に関する信憑性はほぼないと言って良い。ルイスの発言に乗っかっただけ、という可能性も十分にあり得る。

 これ以上面倒事に巻き込まれたくないという気持ちは本当だ。だが、テオはアドラシオンの従者として──カルヴァートの遺産を巡る会議で成果を得るためにアイルランドまでやって来た。このまま手ぶらで帰るのは如何なものかと思う心は本物だ。

 テオはかつて目にしたゲッシュを思い出す。この城に足を踏み入れた者は、真に目的を達成するまでけっして立ち去ってはいけない──ゲールの異教を心から信じている訳ではないが、何も成せずにこの場を立ち去るとなると、どうしてもその制約が脳裏にこびりついて仕方がない。

 ゲッシュの本質は呪いだと、エリスは口にしていた。守れば幸福が、破れば不幸という名の死が訪れる。古城を出たところで、この周辺に集落があるという話は聞いていない。行きに補給のため立ち寄った集落まで戻るとなると、徒歩では早くとも数日かかるだろう。

 テオから疑惑の目を向けられて尚、ニールは表情ひとつ変えなかった。軽く肩を竦め、がしがしと乱雑に短い髪の毛を掻き乱す。


「俺の忠告を鵜呑みにするような馬鹿じゃなくて安心した。……が、こっちにもそれなりの理由ってのがあってな。お前ら二人は見てないだろうが、一応聞いておこう。心当たりはないか?」

「ないから聞いているんじゃないか。兄さんも人が悪い」

「……お前ら主従だけだったら、ここまで助言はしてなかったかもしれねえな。感謝しろよ、そこにいる、底なしの良い子ちゃんに」


 言うや否や、ニールは勢い良く腕を捲った。月光を浴びて、白い肌が冴え冴えと映る。

 その表面を這うように、青黒い紋様が存在している。奴隷に刻まれるものとは違う──民族的な刺青だと、テオは瞬時に察した。


「メレディスの坊っちゃん。お前はこれを目にして、畏れも蔑みも抱かなかったろう。ただ当たり前のものとして受け入れ、看過した──我らが氏族クランを、お前は貶めなかった」


 ニールの声はどこまでも穏やかだ。彼と出会ってから数日経つが、この男の柔らかな声色はこれまで聞いたいずれとも異なる色を宿している。本当に、自分の知る粗野でぶっきらぼうな偉丈夫なのだろうか──先程とは別の意味合いでニールを疑いたくなる。


「故にこそ、俺はお前の望みを叶えようと決めた。我々は氏族に敬意を示した人間は、何者であろうとも尊重すると決めている──その報いという訳だ。坊っちゃんに何事もなければ、形で示すつもりだったが……見ての通りの有り様なんでな。だが、坊っちゃんは自分だけ助かるなんて許さないだろ? そういった訳で、ついでにはなるが坊っちゃんに危害を加えてないお前らも逃がしてやるのさ」

「……なるほど、理由と事情はわかったよ。けど、おれたちはともかく、ルイスさんは怪我人だ。こんな辺鄙なところで歩き通しってのは酷じゃないかい?」

「ああ、それについても心配するな。近場に氏族の連中を控えさせている──とはいえ、俺が命じた訳じゃねえ。一応これでも長をやってるんでな、口うるさい奴らもいるんだよ。今回は役立ってくれそうだから、文句は言わないでおいてやるつもりだ。俺の名を出せば通してくれるだろう。お節介だが気のいい奴らだ、どこの誰であろうと俺の信を得た者は大事にする。古城から出れば、すぐに合流してくれるだろうよ」


 袖をもとに戻しながら、ニールは続ける。


「俺は偽物と、エリスを追う。前者はもとより目星をつけていたが、後者がなかなかに厄介でな。お前らもあの女を探してたんだろ? 捕物は得意だから、上手く生け捕りできたら引っ立てて来てやるよ」

「あんまり手荒な真似はしないでやってくれよ? まだ何かしたって決まった訳じゃない」

「さあ、どうだろうな。あいつはただ者じゃねえ、それだけは断言できる。下手に手を抜けば、こっちの喉笛に噛み付いてくるような人種だ。戻ってこなかったらそういうことだと思ってくれ」


 さらりと冗談では済まされない発言をその場に落とし、ニールはすたすたと去っていった。歩幅の広い彼は、テオが声をかける間もなく角を曲がって姿を消してしまう。

 その場には、未だ疑問を解消しきれないテオと、普通とは言えない状態の二人が残る。こうなっては、すべきことなど決まりきったものだろう。


「……行こうか。ここに留まっているのは悪手だ」


 立っていられなかったのか壁を背にへたり込んでいるルイスに目を合わせ、テオは静かに促す。決して軽いとは言えない怪我を負っていながら、ルイスはまなじりをつり上げて応じた。


「私は……みすみす背を向けてはいられない。サディアスのことも……放り出す訳には……」

「その怪我で何を言ってるんだよ。ニールの兄さんが残るって言ってくれてるんだ。ここはお言葉に甘えておこうぜ」

「しかし……ゲッシュは……」

「おっ、もしかして実は信じてたのか? あれは……うーん、そうだな……おれもちょっとは不安だよ。けど、ここに残ったらもっと危険な目に遭うかもしれないだろ? だったら、達成した目的がひとつでもあったら出ても大丈夫ってことにしとこうぜ。おれは主人を死なせなかった。ルイスさんにだって、何かひとつは成し得たことがあるんじゃないか? ほら、こんなに怪我したけど生き延びた、とかさ」


 ルイスは唇を噛んで黙り込む。弱っているからか、以前のような刺々しさはない。

 沈黙を了承と捉え、テオはさて、と腰に手を当てる。今ここで健常と言えるのは自分だけだ。アドラシオンもルイスも、意識があるとはいえ衰弱していることに変わりはない。どのようにして古城を脱出すべきか。


「──テオ」


 顎に指を添えて思考を巡らせていたテオの耳に、凛とした声が入る。よく聞き慣れた、女主人のものだ。

 はっとして顔を上げると、そこには胸元をぎゅうと押さえながらこちらを見つめるアドラシオンがいる。あのね、と紡ぎ出された声はか細いが、怯えの色は感じられない。


「私、私ね。まだちょっとふらふらするけど、でも、ちゃんと歩けるから。だから、そちらの方を、おぶってあげて」

「……お嬢様、あんたは……」

「テオ、私は大丈夫。ちゃんとあなたに付いていくわ。だからね、けがをしているその方を、どうか助けて差し上げて。きっと、とても痛くて、苦しい思いをしているはずよ」


 アドラシオンの精神は変わり果てた。だが、かつての彼女も、同じ状況に直面したら同じことを言うだろうという確信があった。

 うなずき、テオはルイスに背を向ける。彼もまたこちらの意を汲み取ったのか、素直におぶさってきた。驚く程軽く、そして薄い体つきに、テオは内心で驚く。ルイスはこれ程までに華奢な体で、メレディス家の名代を務め上げていたのか。


「……行こう。きっと、悪いようにはならない」


 誰にでもなく言い聞かせ、テオは足を動かす。それきり、古城の中で三人が言葉を交わすことはなかった。

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