8


「おーい、起きろよ。寝て良いなんて一言も言ってないぞー?」


 何度か軽く頬を叩かれ、女の意識は現へと戻る。耐え難い痛みと鉄錆の味が口中を埋め尽くし、思わず叫び出しそうになる──尤も、喉は既にれきっているので、げえ、と裏返った音しか出なかったが。

 故郷で呼ばれていた名は捨てた。もともと愛着はなかったし、奴隷を識別するための番号のようなものだった。今の女は、貴族の娘──アイオナ・コフィーを名乗っている。今までにない程満ち足りた暮らしに、大願に手が届く環境。叶うことならずっとこの名でいたいと、誰にも伝えたことはなかったが女は切に願っていた。

 それなのに──何故、自分は手足を拘束され、あろうことか強引に歯を抜かれ、光などほとんど入らぬ部屋に転がされている?


「なんだ、まだ元気そうじゃないか。お前、結構丈夫なんだな? 例のデカブツには病弱なふりをしてたみたいだが……まあ、ここまで生き残ってきたんだから、弱っちい体はしてないか」


 ──そうだ、こいつだ。

 女はのろのろと視線を動かす。その向こうには、にやにやと笑いながらこちらを見下ろす、怪物じみた目をした人物の姿があった。

 こいつさえいなければ、女の目的は達成されるはずだった。忌々しい白人の尊厳を完膚なきまでに叩きのめし、踏み潰し、蹂躙する。そうして雲隠れし続け、誰もいなくなったところでサディアスを使いエリスを殺害する手筈だった。

 何故、どこで間違った。コフィー家を燃やし尽くした時は、あれ程上手くいったのに。

 女の言わんとするところが、怪物には伝わったのだろうか。睨まれて尚、相手の口角は上がっている。


「そう怖い顔をするなよ。ここには俺とお前だけ。たしかに俺は黒幕と言うべき立場にいるが、必要以上の危害は加えない。だから安心していこうぜ」

「う……うそ、だ……」

「嘘じゃない。手足を縛ったのは逃げられないため、歯を抜いたのは舌を噛まれないためにだ。お前を故意に痛め付けようと思ってした訳じゃないよ。だって疲れるだろ?」


 余計な手間ひまかけてられる程暇じゃなくてね、と自称黒幕は笑う。まるで──いや、確実に女の所業を批判している。

 少し喋るだけで、女の口からは血液の混じったよだれが落ちた。呂律が回らず、滑舌もあってないようなもの。その上芋虫のように転がっているしかできないとなれば、女の屈辱感は刺激されるばかりであった。

 何のために、黒幕は自分を捕らえたのか。自害を防ぐためにわざわざ抜歯までやってのけたのだから、今すぐに殺すつもりはないのだろう。自らの一部が無理矢理に引っこ抜かれる感覚は、痛みと同様に不愉快極まりない。奥歯はまだ辛うじて残されているが、今後の動向次第では抜かれることも視野に入れなければならない。そうならないために──最悪でも殺害だけはされないために上手く立ち回らなければ。


「殺されるのだけは御免だって顔してるな。そんなに死は恐ろしいものかい?」


 こちらの内心を嘲るように、黒幕が言葉を投げ掛けてくる。生殺与奪を握っているからと、調子づいているのだろう。舌打ちしてやりたかったが、舌が思うように動かず音すら鳴らせなかった。

 死が恐ろしいか。その問いに対する答えがあるとすれば是である──決して、口に出そうとは思わないが。

 これまでの人生で、女はあらゆる痛みを味わってきた。殴られ蹴られ犯され踏みつけられ、骨を折っても意識を失っても死ぬことはなかった。あれ以上の痛みと苦しみを経験しなければ到達し得ない死とは、想像だにしない恐ろしさを伴った存在であった。

 もう痛いのは、苦しいのは嫌だ。人に生まれてしまった以上、死から逃れることはできないが──せめて、最期の時くらい安らかなものが良い。


「その様子じゃ、怖いみたいだな。安心しろよ、そういう風に思ってる奴は多い。お前だけが特別怖がりって訳じゃあないだろうよ。──俺には全く共感できない感覚だけどな。信じるもののために生き、そして死ぬ。たとえ不本意な死だったとしても、このために生きられるっていう心の支えがあれば、受け入れるとまではゆかずとも恐ろしくはなくなるんじゃないか?」


 沈黙は肯定と受け取られたらしい。黒幕は首をかしげながら、何やら意味のわからないことを喋っている。

 嗚呼、こいつはやはり怪物なのだ。女は痛みの中で確信する。

 その怪物はというと、それよりも、と軽い調子で話題を切り替えようとしている。こいつにとって、死とは軽々しく放っておけるだけの存在なのだ。──もしかしたら、いざ命の危機に晒されて初めて、恐怖を覚えるのかもしれないけれど。


「お前、知りたいんだろ? どうして自分が捕まってるのか」

「…………」

「大丈夫、何を言われたって教えてやるよ。そのために俺はここにいる。何も説明されないまま転がされるなんて、迷惑極まりないだろ? 俺もお前にかまけてる程暇じゃあないんだが……せっかく出会えたんだ。少し話でもしようぜ。東の方の人間とは、あまり話したことがないんだ」


 意図的なのかあるいは無意識か、黒幕はいちいち女の神経を逆撫でする。苛立ちから唇を噛もうとして、女はそれができないことに気付く──前歯は今しがた引き抜かれたばかりではないか。

 女のもどかしさを他所に、黒幕は片膝をついてこちらに目線を合わせてきた。その目に濁りはなく、末恐ろしい程に澄んでいる。真にいかれた人間とはこうも曇りのない目をしているものかと、女はいらない気付きを得た。


「さて、俺も忙しいんで手短にいこう。こっちは初めからお前を排除したかった訳じゃない。いや、この古城に来た時点で敵であることは決まりきっていたが、積極的に動き回らないのなら適当な理由をつけて泳がせておくつもりだった。さすがに参加者全員消すってなると、労力も馬鹿にならないし風聞も良くないだろ? 消すべきは消し、残すべきは残す。コフィー家だって、お前がお前じゃなきゃ見逃してやるはずだったんだ」


 けどなあ、と黒幕はわざとらしく眉尻を下げる。


「お前は有害だとわかってしまった。その加害性を有していると知りながら、野放しにしておくことはできない。たとえ自分に実害がなかったとしても、俺の仕える先に何かされたら堪ったものじゃないからな。まあ、俺のことも遅かれ早かれどうかするつもりだったんだろ? だったら先手を打っておいた方が良いってもんだ」


 違うか、と黒幕が目をすがめる。問いの形を取ってはいるが、否定したところで信じる気はないのだろう。

 認めたくはないが図星だ。女はこの黒幕のことも、いずれはルイスと同様になぶろうとしていた。白い肌に色素の薄い瞳、彫りの深い顔立ち──それらは憎むべき支配者のそれと同じ。のうのうと生きていて良い人種ではない。

 いや──人種など、はっきり言ってどうでも良いのだ。女は、自らを傷付けた者と似通った点がひとつでもあれば、相手を敵と見なす。これまで味わってきた屈辱をすすぐことができるのなら、相手が何者であろうと踏み潰すだけだ。そうすれば、物心ついた頃からもやに覆われた心が少しは晴れるような気がする。

 腹立たしいことこの上ないが、今は敵愾心を隠さなければ。命さえあれば、挽回の機会はいくらでも得られる。今までだって、そうやって乗り切ってきた。今回だって、上手く立ち回ればいつかは黒幕を出し抜けるはずだ。


「お前は確実に障害となる。俺はなるべく自分の手を汚したくない。そこで俺は思い付いたんだ、良い方法をな」


 黒幕の目尻が細まる。三日月を思わせる形だった。


「お前さ、ここで餓死してくれよ。そうしたら、目的を達成できる上に手間も省けるだろ?」

「は──」


 女は言葉を失う。ほとんど呼吸にも近い声を吐き出し、瞼の端が痙攣する程に瞠目する。

 こいつは──今、何と口にした?


「聞こえなかったのか? 餓死してくれって頼んでんだよ。ああ、手っ取り早く死にたいなら、ここに入り込んだ刺客たちみたいにやるってのもありだな。起き上がれるかどうかはわからんが、頑張ればできないこともないんじゃないか? 何回頭をぶつければ死ぬんだろうなあ。俺はやったことないからわかんないけど」

「ふ──ふざけないで……!」


 やっとのことで、女は声を絞り出す。相手にどう聞こえているかまではわからないが、少なくとも抗議したことは伝わったはずだ。

 自分の手を汚したくないから、時間が惜しいから。黒幕は自分に、ここで野垂れ死ねと言う。

 そんな無茶苦茶な話があってなるものか。人を殺す覚悟がないのか、はたまたこちらを苦しめたいだけなのかは知らないが、二つ返事で引き受けるだけの理由付けがない。せめてこちらに何か利点のひとつでも示すのが道義というものではないか。

 しかし、黒幕の薄笑いは止まない。むしろ心底おかしいといった風に、声を上げて笑い出す始末。


「あは、あはははは! お前だって負けないくらいふざけてるじゃないか! お互い様ってやつじゃないか?」

「なにを……!」

「じゃあ聞かせてくれよ。お前には、崇高な理想や忠義があるのかい? 何かを成し遂げたいと思ったことは? どんな覚悟をもって、コフィー家の連中を焼き殺した? 俺を納得させるだけの志を持ってるなら、考え直してやっても良いが……もし、もしもだぜ? 自分が気持ち良くなるためだけに、ただ不快だからってだけで他人を傷付けてるんだったら、これ以上のお笑いはないと思うけどな」


 それの何がいけないというのだろう?

 女は二の句を接げなかった。それは答えに窮したからではなく、自らの行動指針を根底から否定されたことによる動揺により、一瞬でも声を出せなくなってしまったが故であった。

 だって、致し方のないことだ。女は人を憎めずにはいられなくなってしまった。人として扱われたことなど数える程しかなく、尊厳は貶められ、誰を見るにも過去の傷が疼いて仕方ない。他人と顔を合わせる度に全身を駆け巡る激情は、相手を完膚なきまでに辱めることでしか解消できない。責められるべきは、自分をこうまで歪ませた人間たちなのだ。

 コフィー家の者たちだって、似たようなもの。たしかにこれまでの主人たちに比べたら待遇は良かったし、暴力を振るわれることもなかった。娘にスペイン語を習わせるため雇い入れたというから、多少なりとも大事にはしていたのだろう。

 だが、それでもこの身が奴隷であることには変わりない。どんなに人道的な扱いをされていようと、自分は家畜と、消耗品と同じ。そんな事実、到底許せるはずがない。


「やっぱりな。お前、自分がこの世で一番かわいそうだと思ってるんだろ。だから何をしようがお構いなし、反省もせず正当化してばかり。どんな目に遭ってきたかは知らないし、そこまで否定はしないけどさあ……どこかで止めておかないと、いつこっちに迷惑かけてくるかわからないしな。だからお前はここで潰す。他者を思うことも、自分なりの正しさに従うこともできないお前は、苦難の乙女なんかじゃない」


黒幕の声色は凪いでいる。しかし、そこには明確なとげと敵意があった。

 うるさい。お前なんかに何がわかる。奴隷として売られたことも、買われたことも、過ごしたこともない、恵まれたお前が。お前ごときが、わかった風な口を聞くな。

 叫びたかった。掴みかかりたかった。そのどちらもできぬまま、女は呆然と転がっている。声を張り上げる気力も、立ち上がる術も、彼女は持ち合わせていない。

 黒幕が立ち上がる。そのまま動き出すかと思いきや、何やら思い出したように口を開いた。


「そうそう、お前、メレディスの従者を取り込んだらしいな。さっき殺されかけたんで、不本意だったがお返しにぶち殺してやったよ。ルイス・メレディスを名乗るお坊ちゃんでも御しきれなかった利かん坊だ、お前がしつけるまでもなかったな。とにかくあいつはもういないから、そこのところ把握しとけよ」


 お前のところの従者は迎えに来てくれるかな、と黒幕は他人事のように嘯く。どうせ来ないだろう、というせせら笑いが聞こえてくるような口振りだ。

 ニールの顔を思い出し、女は頬を引き攣らせる。黒幕が思っている通り、彼が自分を探し出せる──いや、探し出そうとはしないだろう。彼に忠誠心があるとは思えないし、むしろこちらを何かと探る始末だった。アイオナの生存を怪しんだ貴族が送り込んだ斥候にちがいない。

 ニールに限らず、本気で自分の安否を案じてくれる臣下はいないと女は自負している。現在のコフィー家に仕えているのは、報酬で釣って雇った傭兵や訳ありの人間。もともとコフィー家で働いていた者たちは、正体を疑われる前に排除し尽くした。何人かは逃してしまったが、戻ってくることはないだろう。今いるのは、コフィー家の財産を掠め取ろうとする余所者ばかり。

 たすけて。誰にでもなく、女は懇願する。

 黒幕は既に背を向けている。きっと自分が顧みられることはないのだろう。ここは隠し通路、その最奥に秘された小部屋。どれだけ大きな声を上げ、助けを求めたところで、応えてくれる者は現れない。

 灯りは黒幕が持っていってしまった。後に残されるのは自分自身と、果ての見えない暗闇だけ。

 たすけて。囁きにも似た声は幾度となく続く。しかしその声に対するいらえは、ついぞ返ってくることがなかった。

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