6

□ルイス・メレディス


 柔らかな落ち葉の上で微睡むのが好きだった。教会で暮らしていた頃も、時折思い出したように木々の真下へ寝転がり、木漏れ日を浴びながらうとうと舟を漕いだのを覚えている。それは幸福な思い出だ。

 屋根のある場所で寝泊まりするのが嫌いという訳ではない。むしろ、ありがたいことだと思う。熱病によって親を失い、身寄りのひとつもない農民の子など、いつ野垂れ死んでも当然のこととして片付けられるはずだった。だから、幸運にも小さな町の教会に拾われ、読み書きを教えられ、生き延びたのはまたとない幸運なのだろうと幼心に理解していた。

 今、自分が生きていることには何らかの意味があるはずだ。そう確信するのに時間はかからなかった。

 敬虔に神を信仰している訳ではないが、世界が自分を生かしたのなら恩は返さなければならないと思った。故に時間を見付けては勉学に励み、周囲から何を言われようと勤勉に働いた。出世欲はなく、自らの身の程を見誤っているのでもなかったが、自分が行き着ける最高点に到達するための努力は惜しまなかった。

 外出中メレディス家の手の者に誘拐され、こちらの意思に関係なくルイス・メレディスの影武者を務めさせられた際も、抵抗する気は一切起こらなかった。これが生かされた理由なのだと合点がいったからだ。この命が誰かの役に立つのなら、これ以上の幸運はないと──そう自分に言い聞かせた。ルイス・メレディスとして生き、与えられた役目を果たすことこそ、ここまで生存してきた証左だと。


「──いつ眠って良いと言ったかしら。起きなさい」


 横っ面を張られ、ルイスの意識は痛みと共に浮上する。

 全ての爪を剥がされ、折られた指には感覚がほとんどない。何度失禁したかわからないが、つんと嗅覚を刺す臭気からして相当な粗相を晒したのは想像に容易かった。殴られたことで再び流れ出したらしい鼻血のせいでうまく呼吸ができず、ルイスは嘔吐えずくように息を吐き出す。


「ああ、本当に無様ですこと。今までずうっと貴族ごっこをされていましたからねえ。昔に戻ったような気持ちではありませんか?」


 口元に指を添え、くすくすと笑う女。視界が霞んでよく見えないが、アイオナ──を名乗る異国の元奴隷──で間違いはないだろう。

 ルイスは是非のいずれも答えなかった。答える気力が残っていなかったと言えば嘘になるが、下手に口を開けばそれだけでまた意識を手放してしまいそうだった。せめてもの反抗と、ルイスは歯を食い縛りながら眼前に立つ女を睨み付ける。


「あら、殊勝なお顔だこと。まだ懲りていらっしゃらないのですね、お気の毒。そんな顔をしたところで、あなたの末路は変わらないのに……」


 目を細め、アイオナは密やかに笑う。気の毒だとは言いつつも、その眼差しはおかしくて仕方ないと物語っている。ルイスの醜態を鑑賞するのが愉しくて堪らないのだろう。

 彼女は白人──いや、厳密には、奴隷という制度によりうまみを得ていると独断で決めつけた人物全てを憎悪している。境遇はどうあれ、肌の白いルイスはその枠組みから逃れる術を持たない。初めから自分を狙っていたのかどうかは不明だが、無力なルイスをいたぶるアイオナは非常に生き生きとしていた。

 ただ暴力を振るわれるだけなら、ルイスとて我慢できた。だがこの女はこちらの素性──ひいてはメレディス家の事情を掴んでいると見る。大方、サディアスが口を割ったのだろう。今はどこにいるとも知れない従者、その恩知らずぶりに、ルイスの腸は煮えくり返っていた。


(サディアス……何故メレディス家を裏切った……? 私が至らないという理由だけで、あいつは主家ごと見捨てるのか……?)


 自分が見放されるのはまだ良い。サディアスをうまく御せなかったことは、ルイスが一番自覚している。

 誘拐され、ルイスがルイスとして生きるためあらゆる作法を叩き込まれている間も、サディアスはメレディス家の従者として勤めていた。全てに対してやる気がないのは当時も同様で、主人やその親類の不興を買い折檻されている場面には何度も出くわした。

 サディアスは決して怠惰なだけの男ではない──少なくとも、ルイスはそう思っている。意思疎通を円滑にできれば、仕事に対する意欲を少しでも見せられれば、礼儀作法を身に付け実践できれば、彼が痛め付けられる機会は減る。そう信じて、何度も何度も接触を図った。口うるさいと思われるのは承知の上で、彼がほんの少しだけでも息をしやすく、主家とのぶつかりを減らすことができたらと、ルイスなりに努力したつもりだった。

 しかし、ルイスの行動はサディアスにとって快いものではなかったのだろう。彼からの反発は決して少ないものとは言えなかった。ルイス個人に反抗するだけならまだ良いと思い、全てに黙って耐えていたのがいけなかったのだろうか。結果的にサディアスは裏切り、ルイスのみならずメレディス家の利益さえ切り捨てた。しかもその相手は、コフィー家のためカルヴァートの遺産を手に入れるどころか、主人を害しその存在そのものを侮辱するならず者である。ルイスにとって、アイオナの皮を被った女は看過できない天敵であった。

 その天敵に、ルイスは命を握られている。自らの命に関しては、それほど価値を感じないが──ルイスの替え玉を務めている以上、粗末にはできない。


「さあ、これからどうしてあげましょうか。爪は全て剥がしてしまいましたし、いちいち骨を折るのも面倒ですねえ……」


 アイオナがぶつぶつと何かを言っている。油断すれば飛んでしまいそうな意識を必死で繋ぎ止めながら、ルイスはどうにか視線を上げた。

 ぼんやりと浮かび上がるアイオナの輪郭。その背後に立つ影を、ルイスは見逃さなかった。

 あっと声を上げる暇もない。鈍い音が聞こえたかと思うと、アイオナの顔が近付き、そして視界から消えた。彼女が前に倒れ込んだのだと気付いた時には、黒い影がルイスの頭上に覆い被さっている。


「よお、よく起きてられるな。偽物のくせにやるじゃねえか」


 偽物。聞き捨てならない単語に、ルイスは眉を跳ね上げる。

 言い返そうと唇を開きかけたが、内から出たのは頼りない喘鳴だけ。喉が渇いてまともに声すら出せやしない現状が悔しくて、ルイスはぎりぎりと歯噛みした。

 アイオナの代わりに目の前に立つ人物。敵か味方かは判別できないが、どちらにせよ見過ごせる相手ではない。わざわざこの場に現れた上に、アイオナを急襲したということは、彼女ではなく自分に用があるのだろう。


「そう怖い顔をするなよ。俺はお前を痛め付けに来た訳じゃない──むしろ助けに来てやったんだ。だったらにっこり笑って出迎えるくらいはしても良いぜ?」


 アイオナの懐をまさぐり、乱入者は鍵束を見つけ出す。そしてルイスの手首を掴むと、一つ一つ鍵を確かめ始めた。


「なんで自分を助けるのか──とでも言いたげな顔だな?」


 がちゃがちゃと鍵を鳴らしながら、乱入者が口を開く。反射的に、ルイスの肩がぴくりと揺れた。


「あはは、相変わらずわかりやすい御仁だなあ。やっぱお前はこの会合に向いてないよ。あー、睨むな睨むな。ったく、こんな時でも変に強気だよな。せっかく助けてやるって言ってるのに、俺が心変わりしたらどうするつもりだよ?」

「お前に……助けを求めたつもりは、ない……」

「無理して喋るなよ、馬鹿なのかお前は? まあある程度いかれてなきゃ、危険を冒してまでルイス・メレディスのふりをしようとはしないか。その無意味な覚悟に免じて、お前の質問に答えよう」


 ついと乱入者がこちらを見据える。悪童のように笑っているかと思ったが、その瞳は一切の不純物を含んではいなかった。あまりにも真っ直ぐで無垢な眼差しが、少年へと向かう。


「名も知らぬお前。お前が無害で、俺の信じるものの妨げにならないとわかったから、俺はお前を助けるのさ」


 かちゃり。金属質な音が耳に入ったと同時に、ルイスの右腕が解放される。

 ルイスはぱちぱちと瞬きして、改めて乱入者を見た。本当に拘束を解いてくれるか、実を言うと半信半疑だったのだ。

 無害だから助けるのだと乱入者は言った。相手が何を信奉し、心の支えにしているかはわからない。メレディス家の名代としてこの場に立っている以上、エリスや他の参加者にとっては打ち倒すべき敵にあたるはずだが──乱入者の心は、この会合を超えた先にあるというのか。

 思考を巡らせているうちに、左腕の拘束も外れる。そのまま真下に崩れ落ちたルイスの体を受け止め、背中を壁にもたれ掛からせてから、乱入者は酷く優しい声色で彼の耳元に囁きかける。


「お前はただ巻き込まれただけの、完全な被害者だ。善き臣民となり得るお前を消す必要はない──もとより、お前そのものの存在はあってないようなものだからな。だから見逃す。もうこんな掃き溜めに首を突っ込むなよ」


 待て、と引き留める前に、乱入者は動いている。ルイスの両脇に腕を差し入れると、そのままずるずると引きずって移動させる。

 暗闇の中、乱入者は道筋がわかっているのか迷いなく進んでいく。決して軽くはないであろうルイスの体を引きずっているはずなのに、その呼吸は一定で乱れがない。

 細いのによくやるものだとルイスは思う。あのまま隠し部屋に捨て置いても良いだろうに、わざわざ表まで連れて行こうとしているのだ。余計な労力を費やすことは明確なのに、妙なところでお節介と言うべきか。馬鹿はお前にも言えることだと、消耗していなければ言い返してやっていただろう。

 見覚えのある古城の回廊まで辿り着いたところで、乱入者はルイスの体から離れた。ふうと息を吐き出して億劫そうに踵を返す背中へ、ルイスは思いきって声をかける。


「殺す、つもりなのか。他の者たちも……」


 掠れ、上擦ったその声を、乱入者はしっかりと聞きとめたらしい。振り返ったその顔には、清々しい程の笑顔が浮かんでいる。


「さあ、どうだろうな? こんな時まで他人の心配してんじゃねえよ。お前はまず自愛しな」

「余計な、お世話だ……」

「あは、言い返す元気があるなら大丈夫か。ここにいる連中はどうだか知らないが、俺は障りになると判断したものの悉くを排除する。たとえ国家や神が相手でも、やると決めたら俺はやる。もしも今後、俺の最愛を脅かそうとするものに出会ったら、たとえ地の果てにいても喉笛を食い破ってやると伝えておけ」


 そう言い放つと、今度こそ乱入者は隠し通路へと戻っていった。姿が見えなくなってから、自分以外の気配、その一切が消える。

 気を張っていたが故か、今になって疲労感とあらゆる痛みが舞い戻ってくる。意識が飛びそうになるのをすんでのところで堪え、少年は唸り声にも似た音と共に息を吐き出す。


「……行かなければ……」


 誰にでもなく呟き、立ち上がろうとしてそのまま膝をつく。どうにも力が入らない。

 小さく舌打ちしてから、少年はもう一度両足に力を込めた。何とか立ち上がれたことにまずは安堵する。そうして面を上げ、彼は一歩一歩、緩慢な動きながら確かな足取りで歩を進めた。

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