5
射手が構えていたクロスボウを下ろしたのは、足を引きずりながら進むマイカの影が完全に見えなくなった頃合いだった。距離が空いているとはいえ、最後まで油断はできない。マイカが飛び道具でも持っていようものなら、今度はこちらが防戦に徹する羽目になる。
実際、マイカが飛び道具を有していたかは定かではない。持っていたとしても、相手はアドラシオンの見舞いを優先した──あれだけ警告してやったのに、こうまで自らの意思を貫かれるといっそ愉快に思えてくる。
どのみち、マイカとはこれきりだろう。アドラシオンのもとにたどり着けず野垂れ死ぬか、最期にアドラシオンの顔を目に焼き付けるか──最後に放った矢には、致死量とまではいかないがそれなりの毒を塗り付けてある。先の矢傷と併せれば、きっとただでは済むまい。もし生き残ったのだとしたら、その幸運を褒めてやろうと思う。──顔を合わせるのは御免なので、本音を言えばここでくたばって欲しいところだが。
それにしても、と射手は頤を上げる。そのまなうらに浮かぶのは、つんと取り澄ました少女──アドラシオンの顔だ。
「マドリードの才媛が、新大陸の毒草で破滅するとは──とんだお笑い草だな」
思い出したら愉快になってきたのか、射手はくつくつと喉を鳴らす。
突如錯乱し、結果的に昏睡にまで陥ったアドラシオン。彼女が口にしていた薬湯、それに用いられる香草を、射手はこっそりと拝借していた。大量に持ち込まれていたから、多少減ったところで差し障りはあるまい。
かつて発見された新大陸には、欧州やその東でさえも見受けられない動植物が生息しているという。特に草花は持ち帰るのも難しくないからか、今や数々の加工品として出回っている。
本当に薬となるものもあるのだろう。しかし、その多くは服用した者に悪影響を及ぼすらしい。酷ければ幻覚や幻聴に悩まされ、人格の崩壊に至る代物も存在するという。多くが鎮痛や眠気覚ましの作用を持つため、副作用は隠されて売買されることが多いのだ。
アドラシオンが持ち込んだのも、そういった類いの香草であろう。死に至るかどうかまでは定かではないが、定期的に服用していたのなら何事もない、という訳にはいかなさそうだ。射手とて、伝聞のみで満足している訳ではない──ここに来るまでの過程で、実際に人を使って効能を確かめている。アドラシオンが辿る末路は、容易に想像できた。
これでテジェリアは無力化したも同然だ。テオはともかく、アドラシオンならば派手に場を引っ掻き回してくれるかとも思ったが、身から出た錆によって自滅という滑稽な結果に終わった。まだテオが残ってはいるが、ケントのように無謀な真似に出ることはないだろう。彼にはそれなりの分別がある。
どうせならアドラシオンの醜態を見てみたいものだ──そう思いつつ、射手は歩を進める。その足裏が音を立てることはない。
──と、ここで射手はある人影を捉える。長身だがやや猫背気味の姿勢には見覚えがあった。
「よお、お前、メレディスの従僕だろう?」
するりと背後に回り込み、射手はいたって気さくに声をかける。のろのろ歩いていた人影──サディアスは立ち止まり、緩慢な動きでこちらを見た。そうして、顔を背けて再び歩き出そうとする。
「待てよ、せっかく会えたんだ。話くらいしていこうぜ? それともお前、丸腰で歩いて逃げられるとでも思ってるのか? 偶然鉢合わせたから声をかけただけだとでも?」
ぴたりとサディアスの足が止まる。そして、わかりやすく溜め息を吐きながら彼は振り返った。
「……何」
「そう辛気臭い顔をするなよ。お前とは、ちゃんと話してみたいと思ってたんだ。始終クソつまんねえみたいな顔されてちゃ、こっちとしても不安なんでね」
「…………」
「まあ、お前に興味があるってのも本当だよ。従僕だってのに、お前は全然それらしくない。ルイス・メレディスのことをちっとも敬ってなんかないんだろう? 今だって、主人を放ってふらふらしてる。逆にどうしてあいつの側に付けられたのか、気になって仕方ないね」
「……言われたから」
ぼそぼそと、聞き逃してもおかしくはない声量でサディアスはこぼす。しかし射手の耳にはしっかりと入っていたようで、その唇が笑みを深めるまでに時間はかからなかった。
「言われた? 命令されたってことか。だったらますます不思議だな。側仕えを命じられたら従うのに、いざ現地入りしたらその役目を放り出すのか? 本家の連中の目がないから、好き勝手しても良いってことかよ?」
「……違う。命令したのは、ルイス・メレディス」
「何が違うんだ? お前が今ないがしろにしてるのが、ルイス・メレディスじゃないか」
「偽物」
いちいち区切るような応答に、焦燥感を募らせつつあったのだろうか。やや苛立ちを含んだ射手の問いに対し、サディアスは相変わらずぶっきらぼうに答える。
「ここにいるのは偽物。ルイス・メレディスじゃない」
「……へえ、あの坊っちゃんはメレディス家の嫡男ではなく、影武者だと? たしかに、聞いてた年齢よりも若く見えてたが……お前、良いのかよ? 真偽はともかく、俺なんかにぺらぺら喋ってさあ。メレディス家からしてみれば、看過できない背信行為だぜ?」
「……?」
サディアスは小さく首をかしげた。何がまずいのか、根本的に理解していないらしい。
やれやれと射手は肩をすくめる。前々から厄介な相手だと思ってはいたが、まさかここまで面倒を見てやらねば対話が成立しないとは。律儀に付き合っていたルイスは、さぞ苦労したことだろう。
「あのな、いくら影武者だとしても、あの坊っちゃんがメレディス家の名代ってことには変わりないだろ? 坊っちゃんに何かあって、カルヴァートの遺産を手に入れられなかったとしたら、その責任は誰が負う? 護衛を任されてたお前しかいねえよな? お前の監督不行き届きで、せっかくの好機がおじゃんになるんだ。罰を受けるべきは、主人を守れなかった従者じゃないのかって話だよ」
「罰……」
「それとも何だ、お前もテューフォンのところの殺し屋みたく買収されてるのか? だったらメレディスなんか怖くねえよなあ。やっぱ資金か? それとも地位か? お前、何をもらえたら喜ぶんだよ」
「ない」
射手が瞬きする。一呼吸置いてから、サディアスはやはり平らかな声色で言う。
「何も、されない。何も、言われない。何も、遮らない。それが、欲しい。不快なものがないこと、一番いい」
「…………なるほどな」
射手は静かに納得する。その脳裏には、何かと口やかましくサディアスに接する彼の主人が思い浮かんでいた。
この受け答えから察するに、サディアスは過干渉を厭うのだろう。ならばルイスのような、ある意味でどんな相手でもすぐに見放さない類いの人間は天敵と言っても過言ではない存在だ。サディアス自身、ルイスとの付き合いには辟易としていたらしく、単独行動を取る彼は今までよりも吹っ切れて見えた。
この様子だと、ルイスは既に切り捨てられたか、あるいはサディアスの手によって絶命させられているかのどちらかだろう。後者であれば、今もサディアスが古城を徘徊している理由がわからないが──憶測だけではどうにもならない。
何にせよ、メレディス主従は崩壊したと見て間違いないだろう。射手は茫と立ち尽くすサディアスを見上げ、唇の端を歪める。
「お前が何を望んでるかは大体わかったよ。で、主人まで捨てたんだ。お前はこの会合から一抜けするってことで良いんだよな?」
「……?」
「お前はルイス・メレディスの従者でいることが苦痛だったんだろ? その関係が解消されたのなら、もうここにいる意味なんてない。違うか?」
「……」
サディアスは是非を答えない。一度瞬きをしてから、おもむろに口を開く。
「……意味なら、ある」
「あ? それってどういう……」
射手が全ての言葉を紡ぎ終える前に、サディアスは動いている。
暗闇の中で密かに握り込まれていた拳が、射手の腹部に向かう。しかし射手はそのまま殴打を受け入れることなく、軽やかな足取りで後方へと退いて回避する。踏み込み迫り来るサディアスの追撃を紙一重でかわしてから、今度は退避するのではなくその懐へと飛び込んだ。
「……ああ、わかった。わかったぞサディアスとやら。なんだ、お前も他の連中をとやかく言えないじゃねえか」
射手の白い頬に、赤黒い飛沫が飛び散った。自らの頸動脈が切り裂かれているとサディアスが気付くのは、一拍おいてのこと。
「要するに、お前は漁夫の利を狙ってたんだろ? 他の連中が消えてから、エリスの所有する鍵を手に入れれば良い──一生食うに困らないだけの財があれば、誰からも干渉されない生活が実現できると思ったか? ま、どんな動機だろうが、ここに居続けるって選択を取った以上お前は消さなきゃならん訳だが」
ただの一撃であろうとも、致命傷であることに変わりはない。瞠目しながらどうと倒れ伏すサディアスを、射手は冷ややかな眼差しで見下ろした。手にした短剣にべったりと付着した血液を払い落とし、それでも残った部分はサディアスの衣服で丹念に拭き取る。
「残念だったな、本当に。余計な野心さえ出さなければ、お前は生き残れたかもしれないのに。……って、今更詮ない話か。あはは」
他人事のように乾いた笑いを上げながら、射手はその場を離れていく。足音と共に、誰に向けられた訳でもない独り言が遠ざかる。
「それにしても、なあ。何だかんだと大人ぶってはいるが、連中も大概純粋というか、素直というか……。少し調べりゃわかることだろ、カルヴァート家の構成くらい。これじゃ勝ち逃げされても文句言えねえな」
からから笑い、射手の背中は完全に夜闇の中へと消える。後に残るのは一切の呼吸音すらない静寂と、誰にも知られることなくその生を終えた男の亡骸ひとつであった。
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