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■アドラシオン・メサ・テジェリア


 テジェリアの名に恥じぬ淑女であれ。それが亡き母の口癖だった。

 母はジェノヴァの出身で、気品ある美貌と賢女と呼ぶに相応しい才覚を兼ね備えていた。貴族の娘に生まれながらも唯々諾々と従属するだけの女ではなく、夫にも忌憚のない物言いで接し、夫もまた妻の言を尊び重んじる。アドラシオンにとって、そんな両親の姿は理想であり、憧れであり、目標であった。


 ──お前はこのわたくしの血を引く子。その才で、テジェリア家を支え導きなさい。それがお前の使命ですよ。


 抜きん出た才知を見せれば、母はそう言って微笑んだ。幼き日のアドラシオンは誇らしかった──母はこの自分に希望を見出だし、頼みにしてくれているのだと。

 そんな母は、アドラシオンが十の頃に亡くなった。父と共に遠乗りに出かけていた際、馬が暴れて落馬したのである。腕利きの医師も呼ばれ、懸命な治療が施されたが、ついに母は帰らぬ人となってしまった。

 父は落胆した。純粋な悲しみもあっただろうが、何より彼を焦らせたのは嫡男を生まずして母が死んでしまったことだった。いくら優秀でも、女のアドラシオンでは家を継げない。アドラシオンに男児があれば、摂政のように中継ぎの形で立てることはできるだろうが──生憎、アドラシオンはまだ幼少。婚姻を取り付けることはできても妊娠出産にはまだ早く、事を急ぎすぎれば最悪母体ごと死に至る。父の苦悩が如何程であったか、アドラシオンには想像するしかできない。

 間もなくして、父は後妻を迎え入れた。アンダルシア出身のセナイダというその女は、アドラシオンと八つしか年齢としの違わぬ若い娘だった。健康で、体が丈夫とのことだったが、母のような理知的な雰囲気とは程遠く、アドラシオンからしてみればテジェリア家の妻に相応しい存在とは思えなかった。


 ──わたしのことをお母様と思うのは、難しいかもしれないわね。だから、姉でも、お友達でも構わないわ。せっかく同じお家にいるのだもの、仲良くやっていきましょうね。


 初対面のセナイダは、へらへらと笑いながら手を差し出してきた。アンダルシアではそれなりに名の通った家の娘と聞いていたが、母には遠く及ばぬその姿にアドラシオンは吐き気すら覚えた。

 このような頭の悪い女がテジェリア家の妻を名乗るなど、あってはならない。彼女は、母が自分に託そうとしてくれたテジェリア家を腐らせる害虫だ。そんな女を伴侶に迎えた父にさえ失望した。

 アドラシオンは可能な限りセナイダを避けようと努めたが、彼女は地元から何人もの使用人を連れ込んでいた。それに加えて、年齢の近い子なら打ち解けられるかしら、などと宣い、頼んでもいないのに自分の側へその使用人たちを付けてくる始末。拒絶し、遠ざけようとしても、父から意地を張るなとたしなめられる。婚姻を結んですぐにセナイダが懐妊し、待望の男児を生んだことが影響しているのだろう。気付けば、テジェリア家でセナイダを受け入れていないのはアドラシオンだけになっていた。

 このままでは、母の望んだテジェリア家など実現しない。それどころか、セナイダとその使用人たちによって破壊されてしまう。

 アドラシオンとて、黙って事の成り行きを傍観していた訳ではない。父に縁談を求め、セナイダを排斥するよう進言し、諸外国の言語を吸収し、欧州東部の大都市であるウィーンとの繋がりを持つようにと、その端緒は自分が拓くと何度も申し出た。

 だが、父は娘の提案を飲んではくれなかった。まずはマドリードで穏やかに暮らせというのが決まりきった文言で、それ以上の追及は許されなかった。

 理由はわかっている。アドラシオンに月のものが来ないからだ。

 いつまで経っても、彼女に女としてのしるしは表れない。十六歳になった現在に至るまで、ただの一度も。何度も医者に診てもらいはしたが、その度に首を横に振られるばかりである。痩せているのが原因かもしれない、まずは健やかな生活を心がけるように──どいつもこいつも、同じ診断ばかり下す。


 ──お勉強が大事なのはわかるわ。アドーラが頑張っているのは、周知の事実ですもの。でも、自分を疎かにしてはだめよ。一人で抱え込まないで、いつでもわたしたちを頼って良いのだから……。


 何も知らないくせに、セナイダはいつも部屋を訪ねてきた。そして、休めだの寝ろだのと的外れな助言をする。何度拒み、失せるように突き放しても、彼女が諦めることはない。

 休めば、十分に眠れば、自分は大人になれるのか。そんな訳がないとアドラシオンは思う。セナイダよりも早く思い付いて実行し、効き目がないのだから、彼女の言うとおりにしたところで結果は見えている。

 必死に策を考えた。どうすれば、母の望んだような未来を手に入れられるか。いつしか生活に侵食していた絶え間ない頭痛に耐えながら、アドラシオンは日夜思考する。幸い、アンダルシアとの繋がりを得たことで新大陸由来の薬草を手に入れるのは難しくなかった。本当に効くのか疑っていた時もあったが、実際に使ってみれば頭痛は止み、眠気まで抑えられた。以降、アドラシオンは様々な薬草を相棒にすることとなる。

 カルヴァート家の当主が数年間戻らないという話を聞いたのは、そうした生活にすっかり慣れてしまった頃だった。アドラシオンからしてみればイングランドなど僻地も僻地、歯牙にかける価値もない辺境ではあったが、だからこそ箔をつけるには持ってこいというもの。セナイダの実家がイングランドとの交易で利益を上げていること、そしてテジェリア家がカルヴァートの縁者の謀殺に一枚噛んでいたことを持ち出してどうにか父をなだめすかし、カルヴァート家の遺産を手に入れてテジェリア家を再興させるため、アドラシオンは旅立った。

 本音を言えば、従者は雇われの傭兵で固めたかったが──さすがに父が許してくれなかったので、使用人の中ではまだ話がわかりそうなテオを連れていくこととした。どうせ本格的な指示は先んじて雇ったマイカに出すつもりだ。むしろ、敵の目を誤魔化すにはちょうど良い。

 そうして、万全の体勢で臨んだはずだった。最も警戒していたエレーレイスは初日に殺害され、マイカを付けていたレアードもまた死亡。本来ならばマイカによって消す手筈だったが、運良くエレーレイスの従者が事に及んだため手間が省けた。残るコフィー家とメレディス家は決定的な一打を与えてくるような相手とは思えないので、遺産を手放そうとしないエリスに一点集中すべきだろう──そう、踏んでいたのに。


(体が、重い……。私は……こんな、はずでは……)


 朦朧とする意識の中、アドラシオンはほぞを噛む。

 茶会の後、何が起こったのかを彼女は知らない。自らが寝台に横たえられていることにさえ気付いていない。これまでにない程鈍く痛む頭と込み上げる悪心、僅かに動かすこともままならない五体──己を襲う症状が正常でないことだけは、今のアドラシオンにも理解できた。

 何故、このようなことになったのだろう。前後の記憶さえ曖昧なまま、アドラシオンは何度か瞬きしようとする。しかしその度に視界は二転三転し、ぐにゃぐにゃと歪んで焦点を定めることすらできない。


「ああ、目が覚めたのか! 体調は大丈夫……って感じじゃなさそうだな。おれの声は聞こえるかい?」


 どこからか、テオの声が聞こえる。決してうるさくはないが、今のアドラシオンにとっては酷く耳障りだった。


「テオフィロ……頼むから、話しかけないでちょうだい……。この部屋からも、出ていって……」

「いや、出ていくのはさすがになあ……。一応、これでもテジェリアの従者なんでね。務めくらいは果たさせてくれよ」


 反論を許すつもりはなかったが、口がうまく回らない。話すどころか、テオの言葉も最後まで聞けてはいなかった。耳鳴りを伴う頭痛に、アドラシオンは瞼を開けていることさえできず視界を閉ざす。

 鈍重なる全身が寝台に溶け込んでいく心地だ。このまま自分が自分でなくなるような気分だったが、逆に溶解してしまった方が楽なのではないかとも思う。そうしてまた一からやり直すことができたのなら、今度こそ思い通りに事を進められるだろうか。


 ──夫も子供もいないのに?


 止まない耳鳴りの奥で、けらけらと笑う声が聞こえた。

 あれはエリスの声だ。先の茶会で、自分を貶めた言葉。忘れる──いや、忘れられるはずがない。

 彼女はアドラシオンを侮辱した。本人にそのつもりがなかったとしても、こちらがそう受け取ったのならばその時点で事実となる。間違いない──エリスは、看過できぬ敵だ。


 ──テジェリア家には、もう男の子がいるでしょう。アドラシオンさんが出る幕、なくない?


 エリスの声は平然と続ける。これも、茶会で投げ掛けられた言葉だ──アドラシオンの心を抉る、まるでこちらの事情を知ったような口振り。

 許しがたい発言だ。今すぐにでもその口を封じ、息の根を止めさせたい。それができたのなら、どんなに清々するだろうか。

 ああ、憎い。エリスが憎い。彼女は自分と同い年だ。それなのに、家のことなど顧みようともせずに自らの我儘を通そうとしている。何たる自分勝手、何たる不遜。カルヴァート家にどれ程の歴史があろうとも、あのような小娘しか残っていないのならば行き着く先などたかが知れている。

 そういえば、いつだかテオが言っていた。エリスは初日に、エレーレイスから求婚されていた──と。その時は無視したが、忌々しいことにアドラシオンの記憶には残り続けている話だ。

 羨ましい。婚姻さえ結ぶことができたなら、アドラシオンとてやりようはいくらでもある。この体が、性が、甲斐甲斐しく邪魔をしなければ、いつだって手を打てるのに。悔しい悔しい悔しい。どうしてお前なのだ。お前はカルヴァート家のことなんてひとつも考慮せず、子供が駄々をこねるように妥協から目を背けているくせに、何故お前がいつでも伴侶を得られる立場にあって、自分はいつまでも独りで苦しまなくてはならない。ずっとずっとテジェリア家のことを思い、繁栄と発展に尽くそうとしている自分が血反吐を吐きながら生きているのに、どうしてお前は苦痛を味わうこともなく、好き勝手に駆け回っていられる。


 ──アドラシオンさんの夢は大きいんだね。私はスペインのしきたりとかよくわからないけど、何か結果が残せると良いね。


 エリスの笑い声が反響する。結果など残せるはずもないのにと、言外に嘲笑っている。

 やめて。叫び出したいが声が出ない。暗闇の中、アドラシオンの心が悲鳴を上げる。私の何がいけないというの。母が死んだあの時から、私心を殺して歩み続けてきた。アドラシオンという一人の少女を捨て、アドラシオン・メサ・テジェリアとしての生を全うすると決めたのだ。そのためならどんな手段でも使い、どんな艱難辛苦も舐めると覚悟したのに──何故、その夢さえも否定されなければならない?


 ──わかってるくせに。


 耳元で囁かれる。気付けば、それはエリスの声ではなくなっていた。よく聞き慣れた、自分の喉から出る音。


 ──私がテジェリアのしもべである限り、自由なんて得られないのよ。いい加減諦めたら? お母様はとっくの昔に死んでいるんだから、今更誰も見咎めないわ。


 やめろ。お前だけは、私だけはそのような言葉を吐いてはならない。私は、テジェリア家のために尽くしてきた。今ここでその役目を放棄すれば、これまでの努力は何になる?

 自分自身の声をした影法師に、アドラシオンは内心で抗議する。今まで味わってきた苦しみは、母の言葉を実現させるためのもの。それを取り除きたいと思ったことはあるが、だからといって使命まで放り捨てる理由にはならない。そのような理由など、端から存在してはいけないのだ。

 アドラシオンの声は、きゃらきゃらと子供のように笑う。今まで、そんな無邪気な笑い声を上げたことなど一度もない。だって、自分は生まれた時からテジェリア家の娘で、貴族としての誇りを傷付けない生き方をしなければならなかったから。


 ──うちには、もうロルダンがいるじゃない。私がいてもいなくても、そう変わりはないわ。無理に気負わなくったって、何も損することはないでしょう。


 ロルダン。セナイダの生んだ男児の名だ。母親に似て理知の欠片も感じさせない、のんびりとした子供。テジェリア家の嫡男を名乗るには不適当だと、アドラシオンは常々思っている。

 あのような愚鈍な子供に何ができるというのだろう。いつも母親と共に呑気な笑いを浮かべながらぼんやりとしている彼に、テジェリアの長が務まるとは思えない。父はまだ幼いのだから、と庇う素振りを見せていたが、自分が同じくらいの年頃にはとっくに読み書きを覚えてラテン語も習得していた。ロルダンには、努力するという選択肢すらないのだ。

 ロルダンやセナイダに家を任せてはおけない。テジェリアを導くのはこの自分だ。だからこんなところで立ち止まってはいられない。お前が私自身であるならば、無意味な妨害はするな。

 そう言い返そうとして──アドラシオンは、はたと冷静になる。理由はわからないが、急に頭が冷えた。

 先程から語りかけてくる、まるで他人のような自分の声。彼女の言葉は初めて耳にしたものではない。だからすぐに反論できるのだ。

 アドラシオンは気付く。唾棄すべき怠慢を体現したかのような言葉の数々。それは、過去に自らの内へと封じ込めた弱音だ。

 思えば、アドラシオンに協力者はいても理解者は皆無に等しかった。どのような傷を抱えようとも、それを他人に吐き出すことなどできるはずもない。挫け、諦めそうになった時、彼女は自らの弱さを忘却しようと努めることしかできなかった。多忙であれば一時は忘れられる──自分自身と向き合う機会でも訪れない限り。

 ぱきんと、何かが割れて砕ける音がした。

 アドラシオンは知る由もないが──それは彼女の心がひび割れた証左に他ならない。誰よりも信じ、テジェリア家を導くに相応しいと自負していた存在に瑕疵があった──その事実は、軋み揺らいでいたアドラシオンの精神を破壊するのに申し分ない力を有していた。

 アドラシオンの精神は、彼女の意思に関係なく防衛反応を取る。ぐらり、と脳髄が揺さぶられるような感覚に陥り、酩酊感に支配され──次にアドラシオンが意識を取り戻した時には、仮初めの防壁が構築されている。


「──あ……?」


 弱々しく呻き、アドラシオンは身を起こす。頭が割れるように痛い。その上、何とも言えない倦怠感も付いてくる。そのまま寝台に沈んでしまいたかったが、彼女はそうしなかった。不安げに周囲をきょろきょろと見回し、ぎゅうと自らを抱き締める。

 ここはどこだろう。見覚えがあるような気もするが、起床するまでの経緯がわからない。それに、自分以外の人の気配がない──詰まるところ、独りぼっちという訳だ。

 アドラシオンは泣き出しそうなのを必死に堪えた。誰も見咎めはしないだろうが、何故だか泣いてはいけないような気がする。情けない真似はやめろと叱られるかもしれない──誰に、と問われたら答えられないが、きっと良い顔をしない誰かがいるという確信があったので、アドラシオンは泣けなかった。

 唇を噛み、不安と言い様のない罪悪感に耐える。誰にも助けは求められない。でも、自分以外の誰かが現れると思ったら、恐ろしくて動けない。できることと言えば、独りでここに留まり続けるばかり──。


「アドラシオン……!」


 今すぐにでも逃げ出したい衝動と戦っていた矢先、不意に扉が開いた。

 足音も気配も、全く感じられなかった。アドラシオンは唇を震わせ、寝台の上でますます縮こまる。

 入ってきたのは、少年にも少女にも見える若者だった。どういう訳か、手足から血を流している。負傷故か、顔も色をなくして青白い。まるで墓場から甦った屍のような様相に、アドラシオンの恐怖心は一気に膨れ上がった。

 こんな血なまぐさい者など知らない。何故、この者は自分の名前を知っているのだろう。怖い。怖い。恐ろしい。近寄らないで欲しい。


「何を言っているんだ、アドラシオン……? 僕だよ、マイカだよ。そんなに怯えて、君らしくない……」


 若者──マイカは戸惑った様子でそう言ったが、それで納得できるアドラシオンではない。嫌々と首を振り、拒絶をあらわにしたものの、マイカはそんなこちらの気持ちなどお構いなしといった様子で詰め寄ってくる。


「嘘だ──しっかりして、アドラシオン。冗談も程々にしてよ、僕に命じてくれたじゃないか。敵を排除し、カルヴァート家の遺産を手に入れろって! 忘れるなんてあり得ないよ。君はテジェリア家の名代で、この会合を制する者なんだから!」


 知らない。敵が誰かも、マイカに何を命じたかも、そもそもカルヴァート家の遺産が何かも、今のアドラシオンにはわからない。致し方のないことなのだ、自らを傷付ける記憶は、皆封じてしまったのだから。

 強く手首を掴まれる。これまでに加えられたことのない力に、アドラシオンは細く悲鳴を上げた。


「戻って、戻って、戻ってよアドラシオン! 僕の理想に! 僕を従える女主人に! 君は強くて、気高くて、人の上に立つことが当たり前の人間なんだ。こんなところで、僕ごときに怯えている暇なんてないんだよ!」

「嫌っ、離して! 痛い、痛いよお……!」

「このくらいの痛みで泣くな! 君は涙なんか流さないんだ! 偽物め、さっさとアドラシオンから出ていけ! 僕の主人を返してよ!」


 顔を歪め、声を掠れさせながら迫るマイカは、アドラシオンにとって恐怖の対象でしかなかった。必死で拘束から逃れようともがくが、非力な彼女の抵抗など意味をなさない。むしろ、手首を掴む力は増すばかり。

 このままでは殺されてしまう。回らぬ頭で、アドラシオンは直感する。

 いやだ。こんなところで、見ず知らずの恐ろしい人に殺されるなんて。自分が何をしたというのだろう。ああ、でも、こんなに怒らせるくらいだから、きっとひどいことをしたのかもしれない。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。どうか許してください。ひどいことはしないでください。何も覚えていないけれど、あなたの顔も知らないけれど、ちゃんと謝って、望むままにしますから。


「やだ、やだあぁ……。誰か、誰か助けて……! お願い、お願いだから……!」


 そう言って相手を落ち着かせたいのに、口から出るのは情けない抵抗の言葉ばかり。じたばたと手足を動かしても、何かを掴むことはない。無意味に空を切り、寝台の軋む音だけが響く。


「黙れ! アドラシオンはそんなこと言わない! 他人に助けなんか求めない! お前は、お前なんか、とっとと──」


 助けて、ともう一度叫ぼうとしたが──口が震えて音にならない。その音すら紡げず、アドラシオンは絶望的な思いを抱えたまま、眼前からぶつけられる絶叫じみた否定の言葉を拒むようにぎゅっと目を瞑った。

 ──矢先に、その場の空気が震える。

 何やら焦げ臭いにおいがすると気付いた時には、アドラシオンに向かってマイカの体が倒れかかっていた。避ける間もなく寝台に倒れ込み、アドラシオンは目を白黒とさせる。

 襲いかかられたのかと思ったが、マイカはぴくりとも動かない。よく見てみれば、その後頭部には先程までなかった傷がある──傷と言って良いのかはわからないが、絶え間なく流れ続ける血液は手足の比ではない。この者は死んだのだ、と一拍遅れて理解した。


「やれやれ、まさか押し入ってくるとはな……。こいつを持ってきて正解だったよ。大丈夫かい?」


 死体を押し退け、顔が覗く。小麦色の肌をした若い男だ。その手には、細く煙を吐く筒──鉄砲が握られている。

 この男の顔にも、アドラシオンは覚えがない。しかし、この状況に際して助けてくれたということはすぐに理解できた。安堵から、全身の力が抜け、嗚咽がこみ上げてくる。


「そ、そんなにか……? よしよし、もう大丈夫だからな。悪かったよ、あんたの言い付けとはいえ、露台に出て余所見してるのはいけないよな。こればっかりは、側にいなかったおれの責任だ。本当にすまなかった」


 背中を擦られ、アドラシオンの呼吸は僅かながら落ち着く。彼はこちらを害する者ではない──そう直感できた。

 涙をぐいと拭い、アドラシオンは顔を上げる。ひどく戸惑った様子の若者に向けて、精一杯声が震えないように努めながら尋ねる。


「あの、あのね……。助けてくれて、ありがとう。あなたのお名前を、教えてくださいな」

「え──」


 若者は一度だけ目をぱちくりとさせる──が、すぐに笑顔を浮かべた。人好きのする、快活な笑みだ。


「おれはテオフィロ。テオって呼んでくれよ。その方が呼びやすいだろ?」


 テオフィロ。テオ。口の中で繰り返し、アドラシオンはその名を馴染ませる。

 きっとテオフィロは味方だ。何故だかはわからないが、そんな気がする。彼の側にいれば安心だ。彼のような人がいてくれて、本当に良かった。

 心からそう思い、アドラシオンは口角を弛める。そして、あまりにも無邪気な声で告げた。


「ええ、ええ──本当にありがとう、テオ。私、あなたに会えて、本当に嬉しい。これからどうぞよろしくね!」

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