3

□マイカ


 気付いた頃には日が沈んでいたらしい。ふとマイカが顔を上げると、周囲はすっかり夜の帳が下りていた。夜目が利くから良いものの、凡人がこの状況に置かれていたのなら前後不覚に陥っているにちがいない。

 息を吐き出し、マイカはやっと立ち上がった。辺りを見回して、自分以外には誰もいないことを確認する──幸か不幸か、こちらの弱った姿を目撃した人物はいないようだ。もし人影のひとつでも見付けようものなら、即座に殺し屋としての本領を発揮していたことだろう。エリスには不覚を取ったが、あれは例外。余程の相手でなければ、いつでもこの手で消せる。

 だが、今のマイカが重きを置いているのは殺しだけではない。弱々しく右手を見下ろし、数時間前の出来事を思い起こす。


「……アドラシオン……」


 今、マイカが何よりも優先するもの。真なる主、アドラシオン・メサ・テジェリア──彼女に振り払われた右手は、現在もまだ痛みを伴っている、ように思える。

 彼女に何が起こったのかはわからない。だが、端から見てもそうとわかる程、アドラシオンは取り乱し、正気を失っていた。何もない空間を前にして怯え、必死に何かから逃れようとしていた彼女の姿は、これまでの凛とした女主人の顔からは程遠かった。

 驚きこそしたものの、様子の一変したアドラシオンに対してマイカが失望を覚えることはない。その胸に去来するのは、彼女に拒絶された悲しみと、純粋な心配だけ。

 アドラシオンは無事だろうか。あの後、大変遺憾ながらも彼女はテオによって客室へと運び込まれた。この身がアドラシオンの傘下にあると知っているのは、自分を除けば主人であるアドラシオン本人のみ──当然ながら部屋に近付くことも、気を失ったアドラシオンの体に触れることさえ許されなかった。そしてあろうことか、咄嗟に倒れた彼女へと手を伸ばした際、最も気に食わない人物に止められてしまったのだ。


「マイカさん、アドラシオンさんに何をするつもり? 無闇に人のことを疑いたくはないけど……テジェリアに関係のないあなたが触れて良いとは思えないな。ここはテオに任せるべきだよ」


 マイカの手首を柔らかく掴み、エリスはあくまで笑みを絶やさずにそう制止した。まるで、こちらがアドラシオンに毒を盛ったとでも言うように。

 テオもまた、自分に対して警戒心のこもった目を向けながらアドラシオンを運んでいった。彼に関しては、犯人扱いというよりも繋がっていることに疑心を抱いているようだったが──どちらにせよ、マイカの逆鱗に触れたことは言うまでもない。アドラシオンの信用を勝ち取れてもいないくせに、その汚ならしい手で彼女に触るな──叫び出したいのをぐっと堪えたのは、アドラシオンがそれを望まないであろうという確信があったからだ。でなければ、二人に対して刃を向けていたとしてもおかしくはない。

 ──まあ良い。過ぎたことをいつまでも引きずって時間を浪費するのは愚策だ。

 この時間帯であれば、日中よりも自由に身動きができる。であれば、アドラシオンの様子を見に行こうと思い至るのは当然のことであった。

 アドラシオン。マイカにとってはそうそう当たることのない理想的な雇用主。気高く、矜持に満ち、それでいて美しい彼女は、さながら物語の中に登場する貴婦人のようだ。

 幼少の頃より、マイカは騎士に憧れていた。強く、華々しく、皆に慕われる勇士になりたかった。

 それがお伽噺の中だけの存在であることはわかっている。それでも、できることなら、生涯のうち一度は可憐な貴婦人の助けとなり、その命を守ってみせたい。アドラシオンはまさに理想の貴婦人であり、マイカが忠を尽くすに値すると直感した相手だった。

 そのアドラシオンは今、危機に瀕している。二人の関係性を知る者が他にいなかったとしても、助けに行かない理由はない。テジェリア家はテオを従者として付けているが、彼はアドラシオンからの信用を得ておらず、日中も強く拒絶されていた。アドラシオンの側にいるべきは、彼ではなく自分だ──そう、マイカは自負している。

 やるべきことは定まった。アドラシオンのもとへ向かおう──そう心を決めて一歩踏み出したマイカの頬が、一瞬ちりちりと痒みを帯びる。


「──⁉️」


 それが殺気だと気付いた時にはもう遅い。身を翻す直前、マイカの左腕にはどこからともなく飛んできた矢が突き刺さっている。痛みとそれに付随する熱に襲われ、マイカは顔をしかめた。

 敵がいる。矢の飛んできた方向からして、古城のいずこかよりこちらを狙っているのだろう。加えてこの暗闇で正確に射抜いてきたとなれば、相当なやり手であることは間違いない。

 負傷した左腕を庇いつつ、マイカは強く地を蹴った。一所に留まっていれば格好の的だ。幸い足は無事なので、まずは古城の中へと逃げよう──痛みの中そんな考えを巡らせるマイカに対し、頭上から薄く笑いを含んだ声が降りかかる。


「アドラシオン・メサ・テジェリアのところへ行くつもりか? 恩知らずの殺し屋」


 反射的に声のした方向を見上げた矢先、今度は右太股に矢が刺さる。しまったと思った時には遅く、意図する間もなく膝をついている。

 歩行は可能だろう。しかしすぐに体勢を整えるのは難しい。せめてもの抵抗と、マイカは目を凝らして黒くそびえる古城の影を注視する──張り出した露台に、ひとつの人影があるのを確認できた。


「あのお嬢様を見舞ったところで意味はない。すっかり参っちまってるからな。それとも、レアード・テューフォンと同じように殺すのか? あの様じゃあ、報酬の上乗せどころか支払いも危ういからなあ」

「──黙れ!」


 煽られているとわかっていても、看過できない言葉だった。マイカはまなじりをつり上げて人影を睨み付ける──誰であろうと、この忠心を侮辱する者は許せない。

 マイカの激情を逆手に取るかのように、人影はころころと笑う。手にしているのは、形状からしてクロスボウだろう。時代遅れな武器を使うものだと思ったが、その腕前は侮れない。現に、マイカは二発も矢を受けている。幸いにして急所は避けているが、これ以上の負傷は命にも関わりかねない。ひやりとマイカの背中を冷たいものが流れていく。


「そう臆するなよ殺し屋。俺はわざわざお前を殺そうなんて思っちゃいない。ま、消えても問題ない相手って点では、いつでも抹殺できるけどな。お前は腕利きでこそあるようだが、社会の明るい部分には出られないだろう? いつどこでいなくなっても、俺が社会的に咎められる謂れはないのさ」


 だからこそだよ、と闇夜の人影は続ける。きっとその口角は上がっていることだろう。


「お前はいつでも逃げられる。既にレアード・テューフォンは死んでるし、アドラシオン・メサ・テジェリアだって心神喪失状態だ。ばっくれたって誰も文句言わねえよ。俺としても、なるべく人殺しはしたくないんでね──要するにこれは親切な忠告だ。殺し屋、お前この辺りで手を引いたらどうだ?」

「……なんでお前に指図されなきゃならない? 僕の主は一人だけだ」

「あはは、お前この状況を理解して言ってるのか? だとしたら相当な肝っ玉だなあ? 俺はいつでもお前の命取れるんだぜ? これでも弓は得意なんだ。身の程、わきまえとけよ」


 偉そうな口を利くな──そう言い返したいのは山々だったが、相手の機嫌を損ねた結果死ぬなど冗談ではない。マイカはぐっと口をつぐみ、声の主について思案する。

 多少声色を変えてはいるのだろうが、この声には聞き覚えがある。エレーレイスが殺害された時のように、外部から侵入した訳ではなさそうだ。尤も、例の一件に関してはアドラシオンが送り込んだ刺客であり、本来ならエリスの息の根を止めるためのものだったのだが──彼女もつくづく悪運に恵まれている。他の派閥も彼女の命を狙っているだろうに、今の今まで何ともないような顔をして生き残っているのだから驚きである。特にこの自分の凶刃を逃れたという事実は、運が良かったということにしなければ納得がいかない。

 矢傷の痛みにもだいぶ慣れてきた。この辺りで退散しなければ、アドラシオンの様子を見には行けないだろう。

 唇を噛み、マイカはいつでも駆け出せるように体勢を立て直す。どうにかして狙撃主の隙を突きたいところだが──上階にいるというだけで相手の方が有利だ。致命傷まで受ける訳にはいかないが、背に腹は代えられないということか。


「……どうしてお前は僕を狙ったの? 手を引いて欲しいなら、もっと礼儀正しくお願いするのが筋だよ。お前は交渉の仕方も知らない蛮族ってこと?」


 やられっぱなしは癪なので、去り際に相手を煽ってみる。ここのところしてやられることが多く、無自覚ながらもマイカは苛立っていた。まともに達成できた任務など、ケントの殺害くらいだ。

 そんなマイカの焦燥感を悟ったのかはわからないが、人影はやはり愉しげに笑い声を上げた。悪童のようなそれに、マイカの眉根はきつく寄せられる。


「蛮族か、それは違うな殺し屋! どっちかというと、そういうのはお前らの方じゃないか?」

「……ハイランド人に向かって言っているのなら、見当違いだよ。僕はローランドの生まれだ。あいつらとは何もかも違う」

「ハイランドだのローランドだのって話じゃねえよ。何をするにも殺し奪い取ることしか考えられない蛮族に、国境も何もないだろ?」


 それにしても、と人影は笑いながら続ける。夜闇の中で、口元を三日月のように歪めているのが容易く想像できた。


「お前、他人を見下せると思いながら生きてきたのか? 統治を担う貴族でも、人を率いる軍人でもないくせに。ああ、どこぞのお偉いさんの御落胤だとでも言うのなら、俺も少しは考えを改めないといけないな」

「お前、は──」

「あはは、お前ってすぐ怒るんだな。同業者として助言しておくが……その直情的な気性をどうにかしなきゃ、殺し屋なんて向いてないよ。ついでに、か弱き貴婦人を守る騎士なんてもってのほかだ。実現し得ぬ夢想を捨てられないのなら、とっとと野垂れ死んどけよ。そっちの方が世の中のためってもんだ」


 何を、と言い返そうとしたが遅い。動こうとしたその瞬間、肩口に痛みが走る──確認した限り先の二つとは違いかすり傷のみにとどまっているようだったが、軽傷でないことは瞬時に理解できた。傷口が痺れ、じわじわと意識に浮遊感が伴う──鏃に何らかの毒物を塗布していたのだろう。単なる矢傷より厄介な代物だ。

 眩暈と霞む視界に意識を持って行かれそうになりながらも、マイカはどうにか両足に力を込める。ここで倒れてはいられない。何が何でもアドラシオンのもとへ向かわなければ、そうでなければ彼女の従者とは言えない。


「へえ、そこまでやられてもまだ懲りないのかよ? だったらこれ以上の説得は野暮って奴だな。ま、せいぜい頑張りなよ」


 頭上から何か言っているのが聞こえたが、今は余計な冷やかしに構っている場合ではない。痛む右脚を引きずりながら、マイカはアドラシオンの利用する客室を目指す。

 たしかに自分は貴族でも名のある軍人でもない。もとを辿れば孤児みなしごで、きっと割れてはいないだろうが立身出世とは縁遠い女という性別に生まれてしまった。死ぬ以外の選択肢を選び続けた結果、殺し屋という職に行き着いた訳だが──マイカは後悔していない。たとえ汚れ役だったとしても、夢や理想を手放す理由にはならないと信じ続けているからだ。その程度で諦める幻想であるならば、今頃すっかり忘れ去って、胸に抱いていたことさえ記憶の内から消えているだろう。

 況してや、他者から捨てるように言われたところで素直に手放せるものでもない。アドラシオンは特別だ。今まで見た中で、彼女以上の逸材はいないとさえ思える程、理想像を体現した存在だった。多少の怪我を負ったくらいで、見捨てられるはずがない。

 歩みを進める度に、視界が歪む。痛みは既に麻痺しつつあるが、体が思うように動かない。ここまでの手傷を負ったのは、悔しいがこれが初めてだ。

 アドラシオンの顔を思い浮かべる。彼女が自分を重用し、頼りにしてくれているという事実がマイカの活力となる。

 壁に手を付き、どうにか客室の並ぶ廊下まで辿り着いた。ここまで誰にも遭遇しなかったのは幸運だ。周囲に人が隠れている気配もない──部屋さえ間違えなければ、アドラシオンを見舞うのは容易だろう。隠し通路も全て把握できている訳ではないが、周辺で確認できているものの付近は恐らく無人である。殺し屋として過ごしてきた日々は、こういう時に役立つものだ。


「アドラシオン……」


 主人の名をこぼし、マイカは扉の前に立つ。彼女としては呼び掛けたつもりだったが、掠れた声では向こう側に届くはずもない。案の定反応は返ってこなかったが、マイカにとっては返事の有無にかかずらっている暇などなかった。

 アドラシオンを助けなければ。きっと今頃、彼女は苦しんでいる。自分に何ができるかはわからないけれど、せめて傍に寄り添ってやるくらいはできるはずだ。少しでもアドラシオンの力になれるならば、なんだってしてやれる。

 扉を開く。既にアドラシオンから合鍵を渡されているので、入室に問題はない。


「アドラシオン……!」


 再度名を呼ぶ。その名の主は寝台で半身を起こしていた。一時は気絶する程だったが、意識を取り戻したらしい──その事実だけで、マイカは酷く安堵する。

 主人に大事はなかった。体調はまだ芳しくないかもしれないが、動くのは自分だ。アドラシオンは、自分に命令を下してくれるだけで良い。

 手を伸ばす。一度は振り払われてしまったが、あれは非常時だったが故であろう。今度こそ、彼女は手を取ってくれる──何の根拠もなく、マイカはそう信じきっていた。


「──誰……?」


 だが、返ってくる声はあまりにも弱々しい。怯えのみに彩られた、蚊の鳴くような問いかけ。

 マイカはゆっくりと瞬きし、眼前の女を見た。彼女は紛れもなくアドラシオンだ。顔色は冴えず、髪の毛は乱れ、肉食獣を前にした小動物のように震えてはいるが──彼女は、アドラシオン・メサ・テジェリアに他ならない。


「嫌……来ないで……。怖い、怖いよ……」


 自らの体を抱き締め、アドラシオンは震えながら後ずさる。しかし彼女は寝台の上、すぐに背中をぶつけてか細い悲鳴を上げた。

 一体どうしたというのだろう。ぐらつく視界の中、マイカは独り困惑する。これではまるで初対面──いや、アドラシオンではないかのようだ。凛として気高かった彼女の面影はどこにもなく、童子のように怖がる少女がいるだけ。


「何を言っているんだ、アドラシオン……? 僕だよ、マイカだよ。そんなに怯えて、君らしくない……」


 これは何かの間違いだと思いたかった。しかし、アドラシオンであろう少女は嫌々とでも言うように首を横に振る。


「マイカ……? そんなの知らない……あなたの顔も、名前も、知らないわ」

「嘘だ──しっかりして、アドラシオン。冗談も程々にしてよ、僕に命じてくれたじゃないか。敵を排除し、カルヴァート家の遺産を手に入れろって! 忘れるなんてあり得ないよ。君はテジェリア家の名代で、この会合を制する者なんだから!」

「やめて! 来ないで!」


 つかつかと寝台に近付き、マイカは少女の細い手首を掴む。折れそうな程に華奢なそれは激しい抵抗を見せるが、マイカにとっては児戯に等しい。

 如何なる拒絶も、マイカには届かない。届いたところで、受け入れられることはないだろう。目の前の少女を自分の知るアドラシオン・メサ・テジェリアに戻すまで、マイカが聞き役に回ることなど不可能だ。


「戻って、戻って、戻ってよアドラシオン! 僕の理想に! 僕を従える女主人に! 君は強くて、気高くて、人の上に立つことが当たり前の人間なんだ。こんなところで、僕ごときに怯えている暇なんてないんだよ!」

「嫌っ、離して! 痛い、痛いよお……!」

「このくらいの痛みで泣くな! 君は涙なんか流さないんだ! 偽物め、さっさとアドラシオンから出ていけ! 僕の主人を返してよ!」

「やだ、やだあぁ……。誰か、誰か助けて……! お願い、お願いだから……!」

「黙れ! アドラシオンはそんなこと言わない! 他人に助けなんか求めない! お前は、お前なんか、とっとと──」


 消えてしまえ。そう吐き捨てる前に、だん、と何やら火を吹くような音が響いている。

 マイカの中から、一切の音が消える。後頭部に熱を感じたのとほぼ同時に、彼女の意識はぷつりと途切れた。

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