Ⅰ Even if the possibility is a thin yarn, I will never let it go. 

1

 アイルランド北部、アルスター地方。

 霧のかかる湖を見下ろすようにして、その古城は屹立していた。いつ頃、何のために利用されたかは定かではなかったが、少なくとも放棄された訳ではないのだろう。故に、それはアイルランド島に数ある古城のひとつとして今も使われている。

 だが、イングランドによる植民が進む昨今は、その所有権もアイルランド人から離れつつある。この古城も、とある悪趣味なイングランド人の試みに利用されようとしていた。



■エレーレイス・ヘーゼルダイン


 吸って吐いた息は陰鬱だった。普段は溜め息など滅多に吐かないのに、この大広間にいると嫌でも幸福を逃がしたくなってしまう。

 湖畔にそびえる古城。よく手入れされ、古い意匠を残していながらも人の出入りに問題のなさそうな場所ではあるが、如何せん内部がどんよりと湿っているように感じられる。それは外部からの光が入りづらいからか、それともこちらの精神に訴えかける何かがあるのか──エレーレイスには判断しきれない。今はただ、大広間の中央部に設えられた円卓で、未だ姿を現さない此度のを待つだけだ。

 エレーレイスはつ、とおとがいを上げた。手元に、彼の長い金髪がかかる。それを払ってから、円卓に座す同席者を観察した。

 客人として招かれた者が自身を入れて五人、その従者もまた五人。主催者によって、同行させる従者は一人──それも二十五歳以下と定められている。客人もまた、皆若々しく三十路に達していそうな者は一人としていない。現在二十三歳であるエレーレイスは、この中では年長の部類に入りそうだった。


(レアード・テューフォン……彼はわかりやすく苛立っているな)


 まずエレーレイスの目に入ったのは、机上に両足を放り出し、数分おきに舌打ちを響かせている黒髪の少年。スコットランドの有力氏族、テューフォン家の嫡男である。

 彼はスコットランド王室とも遠い縁戚だというが、今現在の態度を見ると名家の男児というよりかは不機嫌な一少年と形容するのが妥当と言えた。誰も注意しない──というか、できるような雰囲気ではないが、場の空気を一層重くしているのはレアードの態度が大きいと誰もが思っていることだろう。

 ロンドン出身のエレーレイスは、彼のことをよく知らない。だが、立ち振舞いを見ただけでもわかることがある。

 彼は幼稚だ。それが能力に比例すると一概に言えないが、少なくとも精神的に未成熟であることは一目瞭然。癇癪かんしゃくを起こさないだけ、まだましなのかもしれない。

 従者は何をしているのか。そう思い少し視線を移ろわせれば、華奢でほっそりとした体躯が目に入る。

 レアードの従者は非常に小柄だった。男物の服装を身に纏っているが、様になっているというよりは服に着られている、と表現するのが適切だ。顔立ちも中性的な美貌を湛えており、ふんわりと波打つ髪の毛も長い。一目で性別を判断するのは難しそうだ。

 そんな従者は、あからさまに不機嫌な主には目もくれず、真っ直ぐ前だけを見つめている。何を考えているかはわからないが、この調子だとレアードを注意しそうにはない。せめて主の不満が爆発する時には、止めに入って欲しいものだ。


(対して、アドラシオン・メサ・テジェリアはさすがの風格だ。才媛とは聞いていたが……女傑と呼ぶのも相応しいような気がするな)


 視線を少し右側に寄せれば、凛とした佇まいをした栗毛の少女──アドラシオンが目に入る。

 彼女はブリテン島の出身ではない。聞くところによると、マドリードの有力諸侯の娘だという。遠く離れたアイルランドまでわざわざやって来たのは、母方の家がイングランドと縁深いことが理由らしい。今はともかく、先代のメアリ女王の時代にはスペインとも懇意であった。その時にできた繋がりなのだろう。

 それを抜きにしても、エレーレイスはアドラシオンという少女個人に注目していた。

 彼女は度々周囲の親族から男であったなら、と嘆かれる程の才媛と聞く。実力はまだ目にしていないが、少なくとも四ヶ国語を操るという話だ。加えて、気高さを隠さぬ美貌の持ち主でもある。国内外から縁談が絶えないというが、彼女はどれもきっぱりと断っているらしい。

 そんなアドラシオンのことだから、どれほど理想的な従者を連れているだろうと思うが、意外なことに彼女が侍らせているのはあまりにも身軽な出で立ちの少年だった。礼儀知らず──とまではいかないが、重厚な建築物に名だたる名家の人々、といった中では異質である。わかりやすくラテン系の顔立ちをした彼は、貴族社会よりも活気のある街の方が溶け込めそうだ。

──と、こちらを見ているのに気がついたのだろう。従者の少年はエレーレイスに向けて、茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。すぐにアドラシオンが睨むものの、今にも口笛を吹きそうな顔をしてしらばっくれている。なかなかに度胸が据わった性分のようだ。


(同じ女性ではあるが……アイオナ・コフィーはアドラシオンとは対照的な雰囲気だな。静謐とした置物のようだ)


 参加者のうち二人を占める女性のうち、もう一人──エディンバラ出身の貴族、アイオナはさながらよくできた人形のようだった。

 彼女は肌を一切見せない。顔は黒いヴェールで覆われ、手袋も細かな意匠が施されてはいるものの素肌を隠す役割はきちんと果たしている。ぴんと伸びた背筋や、ほっそりとした小柄な体つきで印象を量る他ない。

 アイオナの側に付いているのは、遠目から見てもわかる程大柄な男だった。すっきりと整えた短髪に精悍な顔立ち、その容姿だけで勇ましさと威容を体現する美丈夫である。唇を真一文字に引き結んでいることとつり気味の眉毛から、内心はどうあれ強面、あるいはしかめっ面に見えるのが玉に瑕だ。アイオナはエディンバラ──イングランドとも文化的相似点の多いローランド地方出身のはずだが、この従者はいかにもハイランド地方出身といった服装に身を包んでおり、格子柄タータンのフェーリアを着用していた。

 この主従は言葉を交わさない。アイオナも従者も、目立つどころか一切の動きを見せない。よくできた彫像のようだ、とエレーレイスは感心した。


(ルイス・メレディスもご機嫌斜めといったところだが……表情のみにとどめている辺り、レアードよりも分別はありそうだ)


 最後に観察するは、コーンウォール半島出身の貴族、ルイスである。

 彼の実家は海に近い地理を生かして、海運業にも手を出しているそうだ。積極的に海洋進出を狙う現政権からは度々援助を受けているらしい。名家ではあるのだろうが、新興貴族という印象も強い。

 ルイスもまた、なかなか現れない主催者に苛立っているようだが、レアードよりはあからさまではない。癖の強い髪の毛を指に絡めつつ、神経質そうに眉を跳ね上げて辺りに視線を走らせている。

 対して、ルイスの従者は微動だにしない。エレーレイスよりも若干年上、年齢制限ぎりぎりといった様子のその男は、瞬きひとつせず屹立するのみ。エウロパの人間ではないのだろうか、黒髪と浅黒い肌が特徴的だった。

 さて、これで一通り参加者の顔は覚えた。問題は、エレーレイスの真正面に座るべき人物──名前も知らぬ主催者だ。

 いや、姓はわかっている。そうでなければ、これだけの面々が一堂に会することはない。


「主サマよぉ」


 ひそりと耳打ちするのは、エレーレイスの従者であるケントだ。ぶっきらぼうだが、苛立ちよりも困惑の方が強い。


「カルヴァート家のお方ってのは、こんなに遅刻するものなのかよ。主催者だってのに、こんなことってアリか?」

「あちらにも事情があるんだ。その中で手違いが起こることも少なくはないだろう。私たちにできるのは、然るべき時まで黙して待つことだけだ」

「そーかよ。けど、そろそろ限界じゃねえの? 特にテューフォンの坊っちゃんとかよ。騒ぎ出したらどうするつもりだよ」

「そこは我々が尽力する他ないさ。だが、彼も名家の嫡男。下手な真似はしない──と信じたいね」

「あくまでも希望かよ。どうしようもねえな……」


 はあ、とケントはわかりやすく溜め息を吐く。しかし、文句は言いつつもエレーレイスに噛み付く様子はない。

 この少年は、偶然貧民街スラムで行き倒れていたところに出会い、拾った後に従者とした経緯がある。口が悪いのが玉にきずだが、エレーレイスに忠実な良い従者だ。市井にも通じているため、貴族社会ではなかなか触れづらい箇所にも手が届くという利点もある。

 そんなケントは、人よりも我慢強い方だと自称している。彼が痺れを切らしているくらいなのだから、待たされている側の焦燥もひとしおというものだ。

 主催者の登場と誰かの怒りが爆発するのと、どちらが先か。室内にはぴりぴりとした空気が流れつつあった。

 ──そして、ついにその時は訪れる。


「犬畜生にも劣るカルヴァートのやからが──俺をこうまで侮るとはな!」


 がたん、と音を立てて椅子を倒し起立したのは、エレーレイスが予想していた通りレアードだった。

 彼は倒れた椅子をさらに蹴飛ばすと、周囲には目もくれずずかずかと歩を進める。帰ろうとしているのか、主催者のもとに殴り込みへ行こうとしているのか──エレーレイスにはわからない。ただ、止めなければまずいことになると直感が語ってはいた。


「レアード殿。何処へ向かうおつもりかな」


 そして、エレーレイスは迷わない男だ。すぐさま立ち上がり、よく通る声でそう呼び掛けた。

 室内の視線が、一身に突き刺さる。特に強く睨み付けるのはレアードだ。彼は心の底から不愉快だとでも言わんばかりの表情で、自分よりも背の高いエレーレイスを見上げる。


「決まっている。主催者──カルヴァートの下郎のもとだ。俺を侮辱したのだ、ただでは帰さない。生きていることを後悔させてやる」

「様子を見に行くだけならまだしも……一方的に力でねじ伏せるのは不適当だと思うがね。あちらにも事情がある、悪意を以て我々を待たせている訳ではないだろう」

「悪意の有無など知ったことかよ。テューフォン家は、カルヴァート家とは比べ物にならない程の家格を有している……身の程をわからせてやらねば、連中は必ず増長するものだ。貴様らも含めてな」


 レアードの発言に、ますます場の空気が凍る。自覚があるのなら最悪だし、無自覚ならば質が悪すぎる。

 何にせよ、彼は何食わぬ顔でこの場にいる全員を見下した。名家としての自負があるのは良いことだが、それによって他者の価値を貶めるとなれば話は変わってくる。

 ぎり、と歯軋りの音が聞こえた。見れば、ルイスが顔を真っ赤にしながらこちらを凝視している。アドラシオンは対照的に、冷徹な表情で一同を見渡していた。アイオナの顔つきはわからないが、無表情……という訳ではなさそうだ。肩が小刻みに震えている。

 状況は最悪だ。エレーレイスは貶められたことに対して特に何も思わないが、このままでは全員を巻き込んだ争いが発生しかねない。交渉は苦手ではないが、さすがにこの人数となると骨が折れる。下手すれば、自分が標的ともなりかねない──難しい選択を迫られたものだ。

 浅く深呼吸をし、レアードを真っ向から見据える。己の中で最善の言葉を選び出し、それを口にしようと唇を開きかけて──ふと、耳に入った音がした方向を向かなければならないような気がした。


「──皆さん、お待たせしてごめんなさい」


 それは、大広間の奥に位置する扉が開かれる音だった。

 誰もが視線をそちらに向ける。大きな扉の隙間から、小さな顔が覗いていた。

 まず目に入ったのは、あまりにも輝かしい金の髪の毛。肩に届く程度まで伸ばされたそれは、薄暗い室内ではよく目立つ。とりわけ、重苦しい空気が立ち込める中で、その輝きは光そのものだった。

 少女だ。この場にいる誰でもない、第三者。


「なんだ、貴様は」


 レアードが訝しげに目をすがめる。声には出さなかったが、皆一様に同じ問いを抱いていたことだろう。

 金髪の少女は、やや苦しげに眉根を寄せた。それはレアードの発言に対する反応ではなく、たった一人で重い扉を押し出そうとしているがゆえであった。

 これにいち早く気付いたのが、アイオナの従者である。彼はずんずんと大股で近付くと、軽々と扉を引いた。


「ありがとう。助かります」


 アイオナの従者は言葉を返さず、ふん、と一度鼻を鳴らしただけだった。エリスが入室したのを確認すると、扉を閉じてもといた場所へと戻る。

 やっと室内に足を踏み入れた少女は、ゆっくりと一同に目線を走らせた。翠玉エメラルドのような瞳は、たとえ離れていても人々にその色彩を伝えるだけの彩りと美しさがあった。

 視線を一周させた少女は、意を決したように息を吸い込む。そして、真っ直ぐに前を見据えて、声を発した。


「──私は、エリス。エリス・カルヴァート。あなた方を招いたエセルバート・カルヴァートの姪にして、カルヴァート家の至宝を守る者です」

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