7

■ケント・バンパー


 足音が遠ざかる。恐らく駆け足で逃げ去ったのだろう。かの刺客は多勢に無勢と見て撤退を選んだらしく、こちらに一言も言葉をかけなかった。声を聞けたのが幸運なくらいだ。

 人影が駆け去って行った方向を、ケントはぼんやりと眺める。既にその後ろ姿は見えなくなっていたが、目線は固定されたかのように動かない。


「……君、ケント君」


 とん、と軽く肩に触れられて、ケントはびくりと体を揺らした。他者から触れられることはあまり得意ではない。むしろ苦手ですらある。エレーレイスとの生活でだいぶ慣れたとは思っていたが、そう簡単に直ってはくれないようだ。

 のろのろと視線を移せば、そこには不安げなエリスの顔があった。彼女の白い肌は、暗闇でもよく映える。

 申し訳なさそうに眉尻を下げながら、エリスはもう一度ケント君、と呼び掛けた。何とも馴れ馴れしい振る舞いだ。


「こんな夜中に騒がしくしてごめんね。でも、ケント君のおかげで助かったよ。ケント君がいなかったら、きっと私はあの人に……マイカさんに殺されてた」


 エリスもまた、刺客の正体には気付いているらしい。命を狙われていたにしてはやけに緊張感のない苦笑を浮かべて、軽く肩を竦める。

 その仕草が、やけに癪だった。


「……何、勝手に安心してんだよ」


 後ろ手に構えていた短剣の柄を、ケントは強く握る。知らず、声が震えていた。


「いつ俺があんたの味方になったんだ、え? その気になれば、女一人なんて容易く殺れる。それとも死にてえのか、エリス・カルヴァート」


 エリスが一歩、後退ったのかわかった。暗がりで鮮明に見ることはできないが、恐らくその顔は困惑に染まっていることだろう。


「そんな……どうしてそんなことを言うの、ケント君。エレーレイスさんが亡くなってから、ずっと自棄になってるように見えるよ。どうか、落ち着いて──」

「それ以上近寄るんじゃねえよクソ女!」


 エリスは引いた一歩を取り戻そうとしたが、ケントはそれを許さなかった。大声でがなり立て、短剣の先を乱暴に向ける。

 ひゅ、と鳴ったのはエリスの喉だろうか。今更怖がられたところで傷付く心は持っていないし、むしろ好都合だ。暗闇の中で怯えるエリスの顔を夢想しながら、ケントは激情を抑え込む。言うべきことは確実に伝えなければならない。


「良いか、俺はここにいる誰のことも味方だなんて思っちゃいない。全員殺してやりたいくらいだよ。エリス、あんたは最後にしてやろうかと思ってたが……ここで刺し殺してやっても良い。俺はそれだけあんたらを恨んでる」

「ケント君……」

「あんたは自分が被害者だと信じて疑ってねえようだが、もとを辿ればあんたが全ての元凶だ。あんたが主の部屋を訪れてなけりゃ……いや、カルヴァート家の遺産をここまで拗らせていなければ、主は死ななかった! あんたの独り善がりが、エレーレイス・ヘーゼルダインを殺したんだよ!」


 喉を震わせ、声をしゃがれさせながら、ケントは吠える。怒りに任せて叫んだせいで、呼吸すらままならないほど息が上がった。痛みを伴う喘鳴は、夜闇の中へと溶けていく。

 エリスは押し黙っていた。呼吸音さえ聞こえない。

 それがケントには腹立たしい。理不尽な目に遭いながらも、彼女は怒り、抵抗するどころか、傷付いた素振りすら見せてくれない。ただ黙って耐えるその姿勢は、まさに悲劇の乙女といった様子で気に食わない。相手にそのつもりがなくとも、神経を逆撫でされる。

 呼吸を整え、眼前の輪郭を睨む。何故か視界がぼやけて仕方がない。


「……俺はこの会合の参加者全てを始末する。エリス、あんたもその一人だ。主の死に対する報いだとでも思って大人しく死んでくれ」


 言い放ち、ケントは再び短剣を構えた。暗闇に白刃が煌めく。

 直線上から聞こえたのは、はあ、という幽かな溜め息。第三者の気配は感じられないので、誰が吐いた息かは一目瞭然だ。


「……あのさ、ケント君。少し発言させてもらって良いかな」


 嘆息と共に吐き出された声は、平生の彼女よりも低く感じられた。

 ケントは目線を移ろわせる。かつん、と鳴った靴音は、鈍くくぐもって耳に届いた。


「そんなつまらない復讐に酔って、他人に迷惑をかけるくらいなら──今ここで死になさい」


 足音が止む。

 エリスは表情がわかる程の距離まで近付いていた。喜怒哀楽、いずれも映さない翠玉の双眸が、冷たくこちらを見下ろしている。

 おそれを抱いたのは事実だ。だが、ケントの唇は知らず弧を描いている。喘鳴にも似た笑い声が、口の端からこぼれ落ちた。


「ハ、問いかけの形を取っておきながら命令かよ。他人に迷惑? 散々かけてるのはあんただろ。自らの意思に従って好き勝手やってるあんたが、俺の報復に口出しするんじゃねえ」

「そう言うと思った。でも、私はどうやったってあなたの行いを看過できないよ。ケント君、あなたは復讐を果たしたいようだけど、その後の見通しは立てているの? 一時の思い付きで、何もかもを滅茶苦茶にしようとしていない?」


 威勢良く噛み付いたケントではあったが、対するエリスは至極冷静だった。淡々と、然れど確実に問いを投げ掛ける。

 そのまま返答せずに襲いかかることもできた──が、情けないことにケントの動きは止まってしまった。歯を食いしばり、自分の復讐計画を振り返る。

 見通し。復讐を果たした後。そんなこと、思考の埒外としか言い様がない。全部を終わらせたら、そこで自分もおしまいだ。エレーレイスのいない世界など、ケントにとっては意味を成さない。


「主を喪った従者は、主に殉じるだけだ。その後の人生なんか知ったことか」


 肩を怒らせながら吐き捨てる。エリスの言うなど、これっぽっちも興味はない。

 ケントの人生は、エレーレイスに拾われた日に終わり、そして始まった。あの日から、ケントはエレーレイスだけの従者となったのだ。その主人が死んだとなれば、仇を討ち、そして自分も同じところへ向かう他に方法はないだろう。

 そっか、とエリスは相槌を打つ。相変わらず、顔には一切の感情も浮かばない。


「それなら、私は尚更許容できない。ケント君を動かしているのは、一時的に燃え上がった怒り。後先のことなんて何一つ考えないで、エレーレイスさんを殺した犯人だけじゃなく、無関係の人たちに八つ当たりするつもりなんだね。誰のためにもならない、ただの自己満足のために!」

「自己満足で何が悪い! 俺には主しかいなかったんだ。主を喪った今、俺には拠り所のひとつもない! 他人がどう思おうと知るものか!」


 もう待ってはいられない。これ以上エリスの綺麗事を聞いていても時間の無駄だ。

 ケントは身を低め、エリスに向かって突進する。彼女の心臓を目がけて、短剣を突き出す。


「──いい加減にして!」


 しかし、ケントの出鼻は真っ向から挫かれた。

 突き出した右手、その手首をエリスはがっちりと掴んでいる。そのまま強く捻り上げられ、鋭く走った痛みにケントは短剣を取り落としてしまった。


「ケント君、あなたは復讐を舐めている。そんな杜撰な計画で悲壮感に浸って、自分一人が可哀想みたいな顔をして……あなたはまだ選択できる、手を汚さない方法だって模索できるのに! どうしてわざわざ茨の道を選ぶの? あなたの言うように全てをし済ませたのなら、あなたは正当な復讐者にはなれない。錯乱してこの会合を台無しにしたばかりか、各国の要人、その子息を殺害した大罪人になってしまうんだよ⁉」

「そんなの知るかよ! なんでこの期に及んで他人を気にかけなくちゃいけない⁉ 自分の体面はどうなったって良い、主を殺して嗤う連中を殺せるのなら、何だって──」

「良い訳ないでしょう! 歯を食いしばりなさい!」


 ぱちん。

 音と共に、ケントの頬に痛みが弾ける。平手で叩かれたのだと気付くまで、数秒の遅れが生じた。

 痛みに顔を歪めつつ、ケントはのろのろと視線を上げる。その先には、きつく眉をつり上げたエリスがいた。


「ケント君、あなたの悲しみはあなただけのもの。私にわかる訳ないのは、私が一番理解してる。だからこそ、私はあなたに自滅して欲しくないの」


 また怒鳴られるかと思っていたケントではあったが、かけられた言葉は予想に反して落ち着いていた。相手に隙を見せたくはないものの、思わず目が丸くなる。

 手首はまだ掴まれている。だが、不思議と振りほどく気にはならなかった。

 エリスの目は真っ直ぐにこちらを貫いた。相手にしたくないのに、自然と惹き付けられて逸らせない。


「さっきも言ったけれど、ケント君、あなたはやり方を選べる。方法は唯一じゃないの。やりようによっては、最良の結果を得られるかもしれない」

「……死にたくないから、俺を諭そうっていうのかよ」

「うん、否定はしない。でもね、あなたを放っておけないっていうのも正直な気持ちだよ。エレーレイスさんは、私を助けようとしてくれた……彼の死は私にとっても痛手だった。だから、その無念を晴らしたいというあなたの思いを無駄にしたくないんだ」


 するり、とエリスの手が上へ向かう。そのまま、ケントの右手が優しく包まれた。


「もし、もしもね。平和的に解決できる全ての手段を手放してでもエレーレイスさんの仇を取りたいのなら、徹底的に突き詰めなくちゃ駄目だよ。生半可な復讐程、滑稽なものはないのだから──何に、誰に復讐するのか、しっかり見極めなくちゃ」

「徹底的に……」

「スカンディナヴィアのアムレートは、フェンギへの報復を確実なものとするために狂乱を演じた。そこまでしろとは言わないけど、短絡的な思考で復讐を成し遂げようとすればきっと失敗する。手当たり次第に皆殺しなんて以ての外だよ。そんなの、自殺行為に等しい」


 それにね、とエリスは微笑む。


「どんな理由があっても、他人を傷付けることを正義にしちゃいけないって思うの。人の命は尊ぶべきだし、その命を奪ったり、意図的に他者へ苦痛を与えたりするのは間違ってる。だから、人を殺めるからには相応の覚悟を決めて、その罪を背負わなければならない。復讐を果たそうとする自分が格好いいとか、自分は被害者だから何をしても良いんだとか、そういう風に思っている人間に復讐者を名乗って欲しくないんだ、私は。やりたくないのに手段がひとつしかなくて、苦しみながら他者を殺めるしかない人もいるのに……気持ち良くなるためだけに人殺しを正当化する連中なんて、私、一生かかっても許せる気がしない」


 だからね、ケント君。

 そう言って、エリスは手を離す。代わりに掌に触れたのは、先程ケントが取り落とした短剣。


「復讐すべき相手を見誤らないで。あなたが道化になる様を、私は見たくない。よくよく考えて、それで私を殺すべきだと思ったのならまた剣を向ければ良い。その時は、私も正々堂々相手になるから」


 柔らかく微笑し、エリスは背を向ける。隙だらけの背中だったが、急襲しようという気にはなれなかった。

 唇を噛み、ケントはおもむろに足を踏み出す。向かう先はエリスが去って行ったのとは逆方向──唯一の神を祀る主祭壇。

 今まで見向きもしなかったそれを、ケントはぼんやりと見上げる。夜の冷えた空気に、肌がざわりと粟立った。


「……復讐すべき相手、か……」


 かつてエレーレイスと共に見た、ゲッシュを思い起こす。

 この城に足を踏み入れた者は、真に目的を達成するまでけっして立ち去ってはいけない。これが己に課された制約ならば、達成すべき目的を定めなくてはならないだろう。

 祭壇の前に跪き、ケントは瞑目する。この場に集まった参加者の顔を思い浮かべ、最後にエレーレイスの微笑みを想起する。


『良かったら、うちにおいで。茶会は人が多い方が楽しいからね』


 貧民街で行き倒れていたケントに声をかけて、居場所を与えてくれた主。卑しい身分の自分に目をかけてくれた彼の無念は、必ず果たさなくてはならない。

 やるべきことは決まった。胸中に広がる靄が、次第に晴れていく。

 ケントはゆっくりと瞼を持ち上げた。立ち上がり、胸に手を当てる。


「──俺は、主の仇を取る。あの方の無念を、信念を、決して風化させはしない」


 それは、どこにいるとも知れない神に対する宣誓だ。

 今度こそ、ケントは礼拝堂を立ち去る。その足取りは大きく、そして迷いとは対極にあった。

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