6

□マイカ


 アイルランドは夜空も曇っている。毎日がそうかはわからないが、少なくとも今宵は月も星もお留守番だ。

 マイカは足音を殺しながら歩を進める。頭巾を被り、布で口元を隠した今なら、すぐに素性を気取られることはあるまい。


『エリス・カルヴァートを殺せ。誰よりも速く、確実に』


 脳裏にレアードの命令が甦る。僅かに瞑目し──マイカは布の奥で唇をつり上げた。

 ここからが自分の本業だ。様子見に徹する生温い時間も悪くはなかったが、やはり殺しの仕事こそが己に相応しいと感じる。

 気配を殺して向かう先には、今回の標的──エリスの背中がある。彼女がどこへ向かうのか、マイカは知らないし知るつもりもない。敢えて灯りも持たずに歩いているカルヴァート家の一人娘は、誰に顧みられることもなく死んでいく。少女のちんけな我儘を押し通したばかりに。

 マイカは懐のスティレットに触れる。無闇矢鱈に事を長引かせるつもりはない。頭のおかしい嗜虐趣味の人間は、暴力には向いているのだろうが暗殺には不向きだ。相手の抵抗で痛い目を見ないとは限らないし、何よりも任務の遂行にあたって差し障りがあり過ぎる。暗殺家業で生計を立てている以上、他愛のない快楽を得るためだけに獲物を取り逃がすなどあってはならない。でなければ、待っているのは地下の独房で自死を選んだ刺客たちと同様の結末だ。

 足音を消したまま、一気に相手との距離を詰める。エリスはこちらを振り返ることなく歩み続けている。全てをし済ませるのに、そう長居時間はかからないだろう。

 一歩、踏み込む。自らの得物を相手の心臓へ突き立てんと、マイカは腕を振り上げて──。


「え、」


 ここで、やっとエリスが反応する。くるりと振り返り、翡翠に似た色合いの瞳をまん丸にさせて、おもむろに口を開く。


「誰?」


 キン、と響くは金属音。一瞬だが、マイカの刃は弾かれる。

 ぬかった、と思った。エリスも武器を持っていた。一撃で仕留めるはずだったマイカの出鼻を挫き、彼女は隠し持っていたらしい短剣を構える。


「……誰の指示?」


 短い問いかけだ。エリスの声は硬質を帯びている。暗がりで表情は確認できなかったが、恐らく警戒姿勢をとっているのだろう。少なくとも、先程のような隙はない。

 マイカは答えなかった。声を出せば、自分が何者か露見してしまう。その前にエリスを殺害し、主人の求めるカルヴァート家の遺産──その架け橋である鍵を奪取しなくてはならない。

 たん、と軽やかに地面を蹴る。狙うはエリスの喉元。白く細いそれを切り裂き、息の根を止めんと暗殺者は迫る。

 ひゅ、とエリスが息を飲む音が聞こえた。今度こそは、逃がさない。


「きゃあっ」


 だが、またしてもマイカの攻撃は届かない。

 エリスは甲高い悲鳴を上げ、あろうことかこちらに接近した。前転し、身を屈めることにより刺突を回避したのだとマイカが気付いた頃には、既に体勢を整えて駆け出している。


(させない──!)


 ぐっと唇を噛み、マイカは後を追う。存在を気取られ、尚且つ攻撃を躱されたとあっては、このまま引き下がるなどできない。何が何でも、エリスを絶命させなければ。

 エリスの逃げ足は存外に速かった。普段から立ち回りを想定しているのだろうか。少なくとも、一般的におめでたい頭をしたお嬢様とは思えない対応力だった。

 だが、素早さなら自分の方が勝っている。そう自負するマイカは、無我夢中でエリスの背中を追った。あっという間に二人の間に開く距離が縮まる。

 気配を感じ取ったのか、エリスの顔がこちらを向いた。それとほぼ同時に、マイカは凶刃を繰り出す。


「──っ!」


 金属がぶつかり合うのは二度目だ。此度も、エリスは回避よりも受け止めることを選んだ。

 だが、何度も相手の行動に怯むマイカではない。相手が武器を出すことは予想の範囲内、むしろ思い通りに事が進んだとも言える。

 マイカはほんの僅かに身を引くと、そのまま標的目がけて蹴りを放つ。狙うは腹部、暗殺に流儀も作法も関係ない。

 放たれた前蹴りは真っ直ぐエリスの腹にぶつかった。ぐうっ、と彼女の口から苦しげな呻き声が漏れる。

 しかし、まだ油断はできない。マイカは密かに舌打ちした。


(この女──上手く受け身を取った)


 攻撃を回避はしなかったものの、エリスは息を詰めていたのか、蹴りを入れてもその体が大きく揺らぐことはなかった。加えて体を前へ出すことで、マイカの攻撃が最大速度に到達する前に受け止めている──要は威力を減退させたのだ。一瞬でここまで判断ができたというのなら、エリスの判断力はなかなか馬鹿にできない。

 攻撃の手を弛めれば、エリスはまた逃げ出すだろう。この短時間で同じ過ちを犯すなど、暗殺者にはあるまじき失態だ。

 スティレットを逆手に持ち直し、前に突き出す。だがエリスもこちらの出方を読んでいるのだろう、すぐさま顔を背けて刺突を回避すると、目にも留まらぬ速さで握り拳をぶつけてきた。


「うっ……⁉」


 しかも相手が狙ってきたのは目元である。マイカは咄嗟に身を屈めたが、一手遅い。目潰しは免れたが、額に拳を食らってしまった。


(いきなり目を狙ってくるなんて……僕が言えたことじゃないけど、この女、悲劇の乙女ぶってる割に卑劣な手を使う……!)


 苛立ちから声を上げたくなるが、どうにか理性を総動員して我慢する。こちらの身柄が露見しては元も子もない。

 だが、個人的な所感を抜きにしてもエリスは厄介だ。やりにくい相手、と言っても過言ではない。

 エリスにはこちらを再起不能にさせようという気がないらしい。隙を見てさっとその場を立ち去ろうとしたが、マイカがそれを許すはずがなかった。逃がすものかと足払いをかけ、相手を転倒させる。


「いっ……⁉」


 今までの立ち回りが嘘のように、エリスはあっさりと転倒した。いたた、と呻く彼女の上へ馬乗りになり、今度こそ得物を振り上げる。


「……そんなに私のことを殺したいの?」


 エリスがぽつりと声をこぼす。命乞いにしては、やけに淡泊で落ち着いた問いかけだった。

 もとより対話に応じるつもりはない。武器を持つ手に力を込めながら、マイカは無言で相手を見下ろす。

 どんな顔をしているものかと思ったが、エリスは拍子抜けする程に平然としていた。恐怖はなく、単純な警戒心と疑問をもってこちらを見つめている。呼吸の乱れさえなく、これから死に向かう人間とは思えない落ち着きぶりであった。

 エリスを殺したいか。その問いに答えるとすれば、マイカは確実に是と言うだろう。これが自分に課された任務であり、主人が望み求めることなのだから。

 今回の主とは波長が合う。マイカの好みに合致していると言っても良い。その主を失望させたくはないし、こちらの腕を買ってくれたその意思に報いなければならない。エリスの殺害は、最上の結果をもたらすための足がかりであり、目的なのだ。

 次はない。これで最後にする。

 決意を胸に、マイカは標的を見据えた。狙いを定め、息を吸い込む。

 それとほぼ同時に、エリスの口角が持ち上がる。


「それとも、レアードさんに命令されたからそうするだけ? マイカさん」


 ひゅ、と喉が鳴る。

 エリスはこちらの動揺を見逃さなかった。笑みを維持したままマイカの腹を蹴り上げ、その勢いを落とさずに後方へ転回する。同業者でもなかなか見ない、軽やかな身のこなしだった。

 痛みを堪えながら、マイカは素早く立ち上がる。最早体面など気にしてはいられない。


(あいつは看破した。ならば、尚更生きては帰せない──!)


 荒い息をどうにか押さえ込み、生意気な標的を睥睨する。先程から何度も殺されかけているはずの彼女は、どうしたことか困ったように眉尻を下げていた。


「私はあなたを殺そうとは思わない。無駄に争ってお互いに怪我でもしたら、誰も得をしないよ? こんなこと、私が言うべきではないのかもしれないけど……この辺りにした方が良いんじゃないかな。これ以上の戦闘は無意味だよ」


 エリスが何か言っている。聞く価値もない言葉だ。

 何故こちらがお前の要求を飲まなければならない。生殺与奪を握られているのはエリスの方だ。命乞いにしても無茶苦茶過ぎる。

 マイカは沈黙をもって否定する。スティレットを構え直しながら、じりじりと相手との距離を詰める。


「……そっか。それなら、こっちも抵抗するね」


 この場に似つかわしくない苦笑を浮かべてから、エリスはまたもや背を向けて走り出す。

 何度も逃がす訳にはいかない。マイカは反射的に駆け出し──はたとエリスの行き先に気付く。


(礼拝堂……?)


 エリスの向かう先は、古城と渡り廊下で繋がっている礼拝堂だった。一度古城内を見て回った時に存在を確認してはいたものの、マイカは信心深い性分ではないため内部に足を踏み入れたことはない。

 もしも礼拝堂から外へ出られるとしたら、エリスの追跡はより困難となる。この古城もそれなりの広さを有しているのに、真夜中に外部へ逃走されたら見つけようがない。何にせよ、エリスを古城に留め置かないことには任務の達成どころではないのだ。マイカは迷わず礼拝堂へと飛び込んだ。

 礼拝堂は暗かったが、これまで通ってきた道筋と比較すると幾分か明るかった。内部に設置されている燭台に火が灯っているためだ。

 エリスはこちらを振り返ることなく歩を進めていたが、椅子を避けるためかその速度は先程よりも落ちていた。これ幸いとマイカは飛び跳ねるように距離を詰め、彼女の手首をがしと掴む。


「……っ、やめて……!」


 エリスが抵抗する。無茶苦茶に腕を振り回して拘束を逃れた彼女ではあったが、体勢は大きく崩れている。マイカは全身全霊の力を込めて飛び掛かり、再びエリスを組み敷くことに成功した。


「終わりだ!」


 散々手こずらされた相手だ。スティレットを強く握り込み、マイカは高らかに勝利を宣言する。このままエリスの頸を突き刺せば、これまでの苦労は報われる。

 ──はずだった。


「……その声……テューフォンの従者か」


 ゆらり。

 自分のものでも、ましてやエリスのものでもない影が揺らめく。低く、這いずるような声色には聞き覚えがあった。


「ケント君……!」


 声の主が何者か想起する前に、するりとエリスが自身の拘束から抜け出している。ほんの少し、力が抜けたところを突かれたらしい。あっと思った時には遅く、マイカの体は傾いでいた。

 ケント。確か、ヘーゼルダイン家の従者がそういう名前だったはずだ。エレーレイスの死に際して、抜け殻になってしまった少年。

 椅子の縁を掴み、倒れそうになったところをぎりぎりで踏みとどまる。ここまで来て、これ以上の醜態を晒すなどもっての外だ。


(屈辱的だけど……撤退するのが最善かな)


 煮えたぎる腸に舌打ちしつつ、マイカはくるりと踵を返す。自分の得意分野は闇討ちだ。正面切って二対一など御免蒙る。

 幸い、エリスは追ってこなかった。それに安堵すると同時に、肌の露出部分が熱くなる。お前には追う価値もないと宣告されたようで、酷く腹立たしかった。

 きっと、レアードはお小言では済まないだろう。彼がどれだけ寛大な対応を取ろうとも、エリスを取り逃がしたことを詰問されるにちがいない。


(エリス・カルヴァート……認めたくないけど、あの女は強敵だ。この僕を手こずらせるなんて、忌々しい)


 覆面の下、端正な顔が歪む。言い様のない焦燥を感じながら、獲物を逃がした狩人は歩を早めた。

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