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■アドラシオン・メサ・テジェリア


 間もなく雨でも降り始めるのだろうか。ここ最近の悩みの種である頭痛が、ぐわんと広がった気がする。

 アドラシオンは柳眉をひそめつつ、傍らに置いてあった銀器を持ち上げた。鎮痛効果があるという新大陸由来の薬草や香辛料を配合して作った、特製の頭痛薬である。服用すると多少思考が鈍るのが難点だが、そこは自らの精神力でどうにかできる。良薬故に副作用があるのは致し方のないことだ。

 煎じた薬を飲み下すと、幾分か痛みが収まった……ように感じられた。この機会を逃すアドラシオンではなく、部屋の隅に待機させていた従者──テオことテオフィロを呼び寄せる。


「テオフィロ。今日の首尾を聞かせなさい」


 テオはもともとアドラシオンに付いていた従者ではない。そもそもテジェリア家で働き始めたのも半年前、決して古参とは言えない経歴の持ち主だ。

 此度彼がアドラシオンの従者として選ばれたのは、ある特殊な理由からである。それはアドラシオンしか知り得ぬことだが──今は選抜の理由などどうでも良い。どうせ金輪際、テオにも彼以外の他者にも伝えるつもりはないのだから。

 テオは今のところ優秀な従者だ。軽薄な性分は困りものだが、大抵の仕事はそつなくこなすし命令違反もしない。これから為される報告によっては評価が上下することもあるだろうが、アドラシオンはある程度従者を信頼している。彼女が見切りをつけるような結果にはならないだろう。

 そんなアドラシオンの胸中はさておき、テオはにっと悪戯っぽい笑みを浮かべてから報告へと洒落込んだ。


「ヘーゼルダインとメレディスは、現時点じゃエリス……カルヴァート家のお嬢さんを害さない方向でいくみたいだ。メレディス側はこれといった動きを見せていないが、ヘーゼルダインはさすがに速い。何を仕込んだかはわからないが、エリスが訪う程度には信頼されているみたいだぜ」

「エリスが?」

「ああ、部屋から出てヘーゼルダイン主従の使用している客間に行くのが見えた。外套で素性がわからないようにしていたが、あれは間違いなくエリスだね。他に単独行動できそうな奴は何人かいるが、それを考慮しても体型や歩き方からしてエリス以外にあり得ない」

「よく見ているのね。そんなにエリス・カルヴァートがお気に入り?」


 朗らかに伝えるテオを、アドラシオンは冷徹な目で見た。一口、薬を飲み下す。

 その質問を予期していたのだろうか。テオは動揺することなく、待ってましたと言わんばかりに笑みを深めた。


「ま、気に入ってるかいないかで言ったら前者だね。今の状況に悲観していなければ完全に他者を拒絶している訳でもない。何度か言葉を交わしたが、あいつは賢しいよ。単純な悲劇の乙女って訳じゃなさそうだ。ああいう人間、おれは好きだね。立場上、完全な味方にはなれないが」

「あなたからの評価はわかったわ。それで、エレーレイス・ヘーゼルダインとの関係性はどういったものなのかしら。単純に親しくなった……とは、状況からして考えにくいけれど」

「うーん、素っ気ないね。もしかして妬いてるのかい?」

「今までの私の言動からそう推測したのなら、あなたは多大なる勘違いをしているのでしょうね。あなたが私をどう思っていようが勝手だけれど、話を逸らすのだけはやめてもらえるかしら。普通に迷惑だから」


 テオに揶揄われるのはこれが初めてではない。主人に対する態度としてどうかと思うが、今テオを自身から引き離すなど本末転倒だ。沙汰はカルヴァート家の至宝を手に入れ、スペインに帰国してからが妥当だろう。

 テオはやれやれとでも言いたげに肩を竦めてから本題に入る。


「どうやらエレーレイスは穏健派のようでね。エリスを害さずにこの会合を終わらせたがっている。それで、エセルバート殿を見に行ったおれとメレディス主従に、エリスが害されるのを防ぐため、何かあれば彼女を守ろうと持ちかけてきたんだ」

「ふうん……それであなたはその誘いに乗ったのかしら」

「まあね。陣営同士で無駄な争いでも起こったら面倒だろ? 一応武術を嗜んではいるが、おれよりも体格が良くて力が強そうな奴もいるんでね。正攻法じゃ、うちは割と不利だ。ここは乗っておくに限ると判断したのさ」

「メレディス側も、エレーレイスの提案を飲んだの?」

「ああ。この会合に集まった家の中じゃ、メレディス家は一番格下と言っても良い立場にあるからな。協調しておくのが最善と判断したんじゃないか?」

「……たしかに、メレディス家は新興貴族だものね。私たちに比べたら、その影響力は高が知れているわ」


 首肯してから、アドラシオンは腕を組んで黙考する。

 カルヴァート家の遺産、その架け橋である鍵を手に入れるだけならエリスの生死は問わずとも良い。エリスを殺害すれば、一週間という期間がなくとも参加者の目的は達成されるだろう。

 だが、それがまかり通れば参加者同士で相争うことになる。力ずくでの奪取が常識となれば、エリスだけではなく参加者全員が命の危機に晒されるだろう。そうなればテオの言う通り、テジェリア家は不利な部類に分けられる。できることなら形だけでも穏便に進めて欲しいところだ。

 だが、アドラシオンはエレーレイスの方針全てに乗じることはできない。

 顔を上げて、テオを見据える。飄々とした従者は、黙って先を促した。


「既にエリスを抹殺するための刺客は送り込んでおいたわ」

「おいおい、そりゃあ……随分と性急だな。大丈夫なのか? 外部から人を招き入れるだけでも危険だし、もし失敗して事が露見すれば敵意や反発が集中することだって考えられるぜ」

「ならばあなたはだらだらとこの会合を引き延ばすべきだというの? エリスの説得など、するだけ無駄よ。ああいった手合いは、己の器も見極められないのにやたら頑固なもの。その手間を省けるのなら、多少の反発など大したことはないわ」

「けど、さすがに事をき過ぎじゃあないかい? 目立つようなことばかりしてちゃ危ない目に遭う、どうかお嬢様としての自覚を忘れないでくれよ」

「あなたに言われるまでもなく、名家の娘として矜持は持ち合わせています。私への諫言は不要よ、テオフィロ。それに、何も私自身が動く訳ではないわ。ここには内通者を潜ませているから、大抵のことはあれが何とかしてくれる」

「随分とその内通者を信頼しているんだな。妬けるねえ」


 冷ややかに言い放てば、テオは僅かに目をすがめて苦笑した。まるで駄々っ子を相手にしているかのような態度だ。

 この従者は軽薄な態度の割に奥手だ。消極的とも言える。恐らく、自分から行動を起こし、カルヴァート家の至宝を奪う心づもりはないのだろう。

 アドラシオンはそれが気に入らない。自身から行動してこそ、目的は達成される。漁夫の利など、余程の強運でもなければ実現しない。ものぐさなのもいい加減にしろ、と思う。

 何にせよ、もう刺客は放たれている。あちらは三人、たった一人のエリスにどうこうできる相手ではあるまい。もしかしたらヘーゼルダイン主従の助力を仰いでいるのかもしれないが、エレーレイスかエリスとなれば従者ケントは間違いなく前者を守るだろう。こちらはエリスを排し、彼女が持つ鍵を手に入れられればそれで良いのだ。


「良いこと、テオフィロ。エリスを気に入るも気に入らないも自由だけど、あれが障害物であることだけは忘れないことね。あれは敵よ。どれだけ友好的な風を装っていたとて、鍵を渡さない限り排除しなければならない存在……絆されて何も成し遂げられないことだけは避けなければ──」


 アドラシオンが全ての言葉を口にし終える前に、扉が強く叩かれる。

 テオフィロがすぐに振り返った。一度だけこちらを見て、目線のみで指示を仰ぐ。

 このような夜中に来客とは珍しいが、エリスの例もある。あるいはこちらの敵かもしれない。


「……中には入れないで。入口で対応しなさい」


 いざとなれば籠城に転じれば良い。アドラシオンは静かに命令した。

 テオフィロは足音を消しつつ扉に近付き、そっと細い隙間を作る。そしてそこを覗き込み──あっと声を上げた。


「あんたは確か、メレディス家んところの……」

「メレディス?」


 テオが口にした単語。全くの予想外ではなかったが、意外な登場に思わずアドラシオンはそれを反芻する。

 メレディスの、というと、ルイスについていた従者が来たのだろうか。確か、エウロパの人間らしからぬ浅黒い肌をしていた気がする。東方の血が混じっているのか、あるいは再征服運動レコンキスタで立場をなくした異教徒に連なる人間か。どちらにせよ、アドラシオンにとって良い印象の容姿とは言えなかった。だからこそ、記憶にも残っているのだが。

 その従者がどうしたのだろう。幾度か言葉を交わすテオの背中を、ぼんやりと眺める。薬が効いてきたのか、段々と意識に浮遊感が混ざり始めた。


「──えっ?」


 瞼が下がり始めてきた辺りで、テオの場違いな声が響く。少しだけ意識が浮上した。


「そんな……襲われたってどういうことだよ?」


 来訪者の声は聞こえないが、困惑をあらわにするテオの言葉を聞いていたら、何となく状況が把握できた。

 きっと、メレディス家の従者はエリスのことを報告しに来たのだ。テオはエレーレイスら穏健派とも言葉を交わしている。情報を共有しようとするのはおかしくない。

 だが、何故こうもテオは戸惑っているのだろう。つい先程のこととはいえ、エリスに刺客を差し向けたことは既に知っているはずだ。本気で動揺しているのなら失望するし、こちらの関与を疑わせないための演技ならば見直そう。

 何度かテオが振り返る。何か言いたげなその表情に軽い苛立ちを覚えつつ、アドラシオンは小さく手招きをした。今は立ち上がるのも億劫だ。


「その……大変なことになった」


 言い出しにくそうなテオを白眼視する。この従者は、一体何を躊躇っているのだろう。

 人差し指で肘掛けを叩く。溜め息を吐くことさえも面倒だ。手短に済ませて欲しい、と言外に滲ませる。


「──エレーレイスが、襲われて重傷らしい」


 視界がぶれる。ぐわん、と不協和音にも似た耳鳴りがする。

 アドラシオンは、驚愕から大きく目を見開いた。

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