3

□アイオナ・コフィー


 息を吸い、おもむろに瞼を持ち上げる。瞑目していた時間は数秒に満たなかったが、アイオナとしてはひどく長い時間そうしていたような気がした。

 このまま瞼を下ろして意識を落とし、何もかも忘れてしまえたのなら、どれだけ良かっただろう。

 だが、現実はそうさせてくれない。眼前で偉そうにふんぞり返っている少年は、今も自分を認識している。それだけで視界が歪む程不快な気分になった。


「聞いているのか、アイオナ・コフィー。この俺、レアード・テューフォンが協力を許すと言っているのだ、返答はひとつしかなかろう?」


 アイオナはゆるゆると視線を上げた。小柄な体躯のせいで、大抵の人間を相手にする時は見上げなくてはならない。相手よりも下にいることを嫌という程思い知らされる度、アイオナの腸は煮えくり返る。

 レアードの要求は、エリス殺害にこちらの従者であるニールを出すこと。そのために、アイオナからの許可を取り付けようとしている──とても人にものを頼む態度ではないが。

 レアードいわく、同じスコットランド貴族のよしみだ何だと言っていたが、アイオナは彼に対して同郷故の親近感など欠片もない。それは言い出しっぺのあちらも同様であろう。レアードは出身や能力に関わらず、参加者全てを格下と見下げている節がある。それだけ甘やかされて育ったということなのだろう。彼の教育係はとんでもない無能だ。あるいは主人に迎合しなければ後がなかったのか。何にせよ、人格形成でしくじったのは目に見えている。

 アイオナはゆっくり息を吐き出した。ヴェール越しにレアードを見つめ、首を横に振る。


「……血迷ったか、アイオナ・コフィー。貴様の従者さえ出したのなら、カルヴァート家の遺産、その分け前をくれてやるとまで提示してやったのだ。だのに拒否を選ぶと? 己が立場をわきまえるのだな」


 案の定、レアードの反応は芳しくなかった。顔を歪め、人差し指で肘掛けを神経質に叩く。

 こうまでわかりやすいといっそ笑えてくるものだが、アイオナは下唇を噛んで我慢する。こういった手合いは一時の激情で何をしてくるかわからない。いたずらに煽るのは悪手だ。


「──ああ、それとも。二年前、顔だけでなく喉も焼かれたか? 口が利けないおしならば致し方あるまい」


 しかし、レアードにも名家の嫡男という矜持があったのだろうか。すぐに逆上することはなく、負け惜しみとばかりにこちらを罵ってきた。

 ヴェールの奥で、アイオナは目をすがめる。笑い出しそうになるのを必死に堪えながら、事の発端である傍らの従者を見遣り──一気に気落ちした。

 ニールは一切の感情表現を表出させることなく、平常心そのものといった様子で佇んでいるばかり。議題は自分だというのに、この落ち着きぶりではまるで傍聴者だ。もう少し反応を示しても良いと、アイオナは個人的に思う。形はどうあれ、主人が貶められているのだから。

 ともあれ、このまま見下されているのも気に食わない。面倒だと思う心がない訳ではなかったが、それ以上に侮られたままというのが我慢ならなかった。


「……あなたは多大なる勘違いをしていますね、レアード・テューフォン」


 重く閉ざしていた唇を動かす。目の前の高慢な少年が、わかりやすい程に大きく目を見開いた。

 理由はアイオナが一番わかっている。彼女が扱う言葉は英語でもゲール語でもなく、スペイン語であったからだろう。


「私はあなたを気遣っただけ。スコットランドを出たことのない方に、イスパニアの言葉が通じるとは思わなくて……大丈夫ですか? 私の言葉、ちゃんと伝わっておりましょうか」

「貴ッ様……! この俺を侮るのも大概にしろ!」


 だん、と肘掛けが叩かれる。手近なところにあるだけで暴力を浴びせられるとは憐れなことだ。まあ、相手は物言わぬ家具なのだけれど。

 レアードを見れば、造形だけは整っている顔は酷く歪んでいた。ほんの少し口を開いただけでこうまで怒り狂うとは、予想通り過ぎてつまらない男だ。これが跡取りだというテューフォン家には同情を禁じ得ない。


「これではまともにお話などできませんね。ああ、とても嘆かわしいことです。取引なるものは、相互理解が成り立ってこそ可能なのに。これでは簡単な意志疎通すら不可能です」


 だめ押しとばかりに嘲笑すれば、レアードの白い顔はみるみるうちに真っ赤に染め上がった。こうまで安直だと面白くて仕方ない。

 次はどう弄ってやろうか。有力氏族の嫡子を名乗る男が無様な姿をさらけ出していくとあらば、じわじわと引き延ばして楽しみを長持ちさせるべきだろう。歯牙にもかけていなかった女の一言で自滅していくレアードを前に、アイオナの口角はますますつり上がる。本音を言えば、声を上げて笑い出したいくらいだ。


「──で、お嬢。結局、俺の処遇はどうするつもりだ?」


 密かにほくそ笑んでいたアイオナの思考を遮ったのは、彼女の従者であるニールだった。

 邪魔をするなという意味を込めて見上げてみるも、ヴェールが邪魔をしてこちらの表情は伝わらない。加えて、ニールに他者の心情を察する能力は皆無だ。今だって、何が不満なのかと言いたげな顔をしながら、きょとんとアイオナを見つめるばかり。見下されているような位置関係に、アイオナはますます不快感を募らせる。


「正直、あんたにはすぱっと断って欲しいところだが……もし俺を貸し出してえってんなら、力ずくでも意向を変えてもらわなくちゃならない。その上で指示を仰ぐが、どうなんだ? 無駄な時間は費やしたくない、手短に頼む」

「あなた、は──」


 ふざけているの、と叫び出したくなるのを、アイオナはすんでのところで堪えた。他者の前で取り乱すなど、決してあってはならない。

 ニールは平然としているが、要するに彼は脅迫しているのだ。自分をレアードに貸し出すような真似をしでかそうものなら、すぐにでもお前をねじ伏せる、と。

 これが主人に対する態度だろうか。傍観者気取りのマイカも大概だが、いちいち口出ししてくるニールも堪ったものではない。


「何を言い出すかと思えば、早速主人に反逆か。ハイランドの蛮族はどこでも変わらんものだな」


 案の定、レアードは挽回を図らんとばかりに首を突っ込んできた。久方ぶりに浮かべた冷笑は、ややひきつっている。

 だが、おとなしく嘲りを甘受するニールではない。何度か瞬きをしてから、何言ってんだ、と一蹴する。


「その蛮族に頼らなければ小娘一人仕留められねえ奴等がよく言うぜ。ま、うちの氏族クランを持ち上げられたところで、お前らに従う気は更々ねえがな」

「貴様が口を挟む余地はない。引っ込んでいろ、野蛮人が」

「そうかい。なら、そこのちびすけといっしょに負け犬気分を味わっておけよ」


 これにいち早く反応したのがマイカである。目にも留まらぬ速さでスティレットを引き抜くと、ニールの喉元へと切っ先を向けた。


「他の連中ならいざ知らず、僕を侮辱するのなら容赦はしないよ。その減らず口、今すぐ縫い付けてあげようか?」

「おう、できるものならやってみやがれ。エリス・カルヴァートに惨敗したへなちょこが俺を倒せるとは思えねえけどな」

「惨敗なんてしてないよ。戦略的撤退って知ってる?」

「なんだ、やっぱり逃げたんじゃねえか。後で確実に仕留めるための布石ならともかく、敵前逃亡は戦士の名折れだぜ? 責任取って死ぬくらいしなけりゃ割に合わねえ」


 不敵に笑うニールを前に、中性的な暗殺者は頬を歪めた。今になって、かまをかけられたと気付いたようだ。

 はあ、とアイオナは嘆息する。従者から良いように扱われているようで癪だが、ニールを渡すつもりはない。エリスの強さは未知数だが、レアード共々身を滅ぼしてくれたのならそれで良い。


「……その男はコフィー家で雇用しています。たとえ同郷の氏族であったとしても、貸し付けることはできません」


 ゆるゆると首を横に振れば、レアードは聞こえよがしに舌打ちした。何にしたって音が大きいのは勘弁して欲しい。


「その選択、後になって後悔しても知らんぞ。コフィー家程度、テューフォンにかかれば容易に捻り潰せるのだからな」

「それなら新しい雇い主を探すだけだ。俺を脅したいならもっとましな口上を考えとけ」

「…………」


 主人を前にして当たり前のように次の雇用先の話をするなど、戦闘力を買っていなければ即刻解雇ものである。注意するのも馬鹿馬鹿しくなったアイオナは、テューフォン主従、そしてニールに目をくれることもなく無言で退室する。もうこいつらには付き合っていられない。


「随分とご機嫌斜めじゃねえか、お嬢。そんなにテューフォンの坊っちゃんが気に食わなかったか?」


 どれほど距離を空けようとも、ニールとアイオナでは歩幅が違いすぎる。前だけ見てひたすら歩き続ける背中に、場違いな程呑気な問いが投げ掛けられた。

 振り返ってニールを怒鳴り付けることができたのなら、どれだけ気持ちがすいたことだろう。レアードのように感情のたがを常に外せたのなら、どれだけ良かったか。

 だが、アイオナには理性がある。細く息を吐き出し、落ち着いた風を装って振り返る。悪気などこれっぽっちもないと言いたげな従者へのささやかな反抗として、ヴェール越しに強く睨め付けた。


「……いいえ。機嫌など、損ねてはいません。無意義な時間だったことを後悔しているだけ」

「そりゃ気の毒なことだ。ま、相手が話すに値しないってわかっただけ収穫だったと思えば良いんじゃねえか? これからは時間を無駄にしなくて済む」


 どうやらニールには一切の反省がないようだ。自分の行動は正しかったと信じて疑っていないのだろう。その自信はどこから湧いてくるのか、アイオナには見当もつかない。


「あなたのスペイン語はよくわからない。これ以上の雑談は無意味です、ニール。従者ならば私に付き従っていれば良い。わかりますね?」


 精一杯平坦な声色を心がけながらアイオナは告げた。きっと効果はないだろうが、何も言わないよりはましなはずだ。少なくとも、アイオナの苛立ちはほんの少し──表皮が削れる程度には収まった。

 やれやれと言わんばかりに肩を竦めるニールにかける言葉はもうない。今度こそアイオナは前を向き、振り返ることはなかった。

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