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■テオフィロ・レイェス
ここ数日は悪い報せの連続で気が滅入りそうだったが、この日は幸運にもささやかな良い報せが舞い込んできた。非業の死を遂げたヘーゼルダイン家の嫡子、エレーレイスの従者であるケントが平静を取り戻したという。
共にカルヴァート家の至宝を巡って対立する身ではあるものの、テオはケントのことを極端に敵視している訳ではない。むしろ、強硬派のアドラシオンよりも方向性が似通った相手だと思う。それゆえに、主人の死を前にして自棄になった彼にはそれなりの心苦しさを感じていた。
「よっ、昨日よりはだいぶましな顔になったじゃないか」
期待八割、不安二割で訪ねたテオの目に映ったのは、鬱陶しそうな顔をしながら客室で荷造りをするケントの姿だった。
睡眠不足が尾を引いているのか、初日と比較すればまだ顔色は悪い。だが、目にはうっすらと光が戻り、彼らしい感情表現も戻りつつある──ように見えた。
「……んだよ、冷やかしなら帰れ。つうか、どこから嗅ぎ付けて来たんだよ」
ケントの態度は素っ気ないが、対話の形を留めているという点においては相当な進歩である。寄る者全てに敵意を振り撒いていた昨日とは大違いだ。あのままなら、恐らくテオは室内に入れてすらもらえなかっただろう。
「そう睨むなよ、ちょっと様子を見に来ただけさ。妙にしょぼくれたエリスが、できることなら挨拶でもしてやれって勧めてきたんでね」
「あいつが……」
僅かに瞠目した相手に、テオは大仰なうなずきをもって首肯する。
テオの発言はほぼほぼ真実だ。基本的に快活なエリスが、今朝は何故かしょんぼりと落ち込んだ様子でケントの精神が回復したらしいと伝えてきた。先にその情報を知らされたか、あるいは実際に目にしたであろうルイスにも確認を取ったが、概ね同じ返答をもらった。憔悴していたケントが、エレーレイス健在の頃の姿に戻った、と。
「見た感じ、事前情報に差違はなさそうで安心したよ。いやあ、あんたもなかなか愛されてるね」
「どうだかな。邪魔者が出て行くと知って、
「それは相手次第だろうが……あんた、ここを発つのかい? 荷物もまとめちゃってるけどさ」
投げ掛けられた問いに、ケントは一度だけ瞬きする。衣類を畳んでいた手が止まり、視線は下に落ちた。
恐らく、ケント個人の荷物など数える程しかないのだろう。一目で上等とわかる衣類や文房具、櫛や手鏡といった道具は、彼の主人の私物に違いない。
「……一晩考えて、今の自分にできることを決めたからな。それが終わったら、ここでできることはもうない。ならばロンドンに戻るのが最善と考えたまでだ」
「ふうん、随分とさっぱりしたねえ。深く詮索するつもりはないけどさ、どういう心境の変化? 昨日までのあんたとは別人みたいだ」
「詮索する気満々じゃねえか。少し聞き分けが良くなったからって、俺がテメエの思い通りに動くと思ってんのか?」
刺々しい言葉とは裏腹に、ケントの声音には以前程の険はない。むしろ、軽口のようにも聞こえる。
アドラシオンがこの場にいたら眉間の皺がさらに深まりそうなものだが、幸い彼女は自室にこもっている。話し好きのテオは喜んで相手の勢いに乗ることにした。
「まさか! そこまであんたを舐めちゃいないさ。おれは確信してるんだよ、今のあんたとなら対話ができるって。だからこうして腹を割って話しに来た。あんたを信頼してる……って言えば、聞こえが良いかい?」
「ハッ、相変わらずよく回る口だな。転職するなら詐欺師にでもなったらどうだ? その口八丁、上手く活かせると思うぜ」
「ご助言、ありがたく拝領させてもらうよ。そういう訳だ、楽しくお喋りしようじゃないか。せっかくの出会いを雑に終わらせるのは損だろ?」
皮肉混じりの返事に対し、テオは特に気分を害した風もなく片目を瞑る。ケントが鼻白んだ隙に、彼は手近にあった椅子を引き寄せて素早く腰掛けた。手ぶらでは帰らない心積もりだ。
「本音を言えば、テメエには一刻も早く出て行って欲しいところだが……多少の恩があるのも事実だしな。今回だけは駄弁ってやるよ」
テオの読み通り、ケントは渋々を装いつつも折れた。作業の手を止め、溜め息を吐きながら向き直る。
「認めたくはないが……今俺がこうしているのは、エリスの存在あってのことだ。昨日の夜更け、あいつに会っていなかったら──俺は手当たり次第に参加者をぶち殺してただろうよ」
「そいつはおっかないな! だがあんたは踏み止まった。そうするだけの理由を、エリスに与えられたってことかい?」
「……まあ、そうなるな。あいつは存外に強い女だった。無駄に強くて、鬱陶しくて、正しさを疑っちゃいない。テューフォンの連中は先手を打とうとしたみたいだが、相手の観察を怠ってる。あいつを上回る
「テューフォン家……あいつら、ここでエリスの暗殺を実行しようとしたのか。いつかやるとは思ってたが、せっかちだな」
うちの女主人には劣るが、とは口が裂けても言えない。まず初めに失敗したのはこちらなのだ。勝ち気なアドラシオンは認めたくないようだが、どうあれ失策だったことに変わりはない。
幸運なことに、ニールによって捕らえられた刺客は依頼主がテジェリア家であることすら知らなかった。アドラシオンいわく根回しをしていたというが、それでも情報が漏れる可能性は決して低くない。手練れの刺客が早々に自死したこと、そしてエリスではなく、エレーレイスが殺害されたことでどうにか誤魔化しが効いたのだろう。テオとしては自分が穏健派なことも疑惑の目を回避する一因になって欲しいところだが、あまり出しゃばるとアドラシオンに睨まれるのでおとなしくしておく。
話を聞くに、ケントはテューフォン家の人間──十中八九中性的な従者ことマイカだろう──がエリスを狙う現場に遭遇したものと思われる。こればかりは偶然の産物だが、テューフォン家は実に運が悪い。レアードの一貫して尊大かつ非協力的な態度も相まって、事実が露呈した暁には針の筵は不可避だろう。
しかし──だとすれば何故、エリスは自身が狙われた事実を語らないのか。
「なあケント。あんた、エリスという女をどう見る?」
ずいと身を寄せ、声を潜めてテオは尋ねる。
この古城にはいくつもの隠し通路が存在するという。他の参加者がどれだけ把握しているかは不明だが、アドラシオンいわく件の刺客は案内人が道順を提示してエリスのもとへ向かう手筈になっていた。結果として、導かれた先にいたのはエレーレイスだった訳だが。
何にせよ、ここにいるのが自分とケントの二人だけとは限らない。十分に警戒して損はないとテオは踏んでいる。
「どう見るって……テメエ、エリスを疑ってるのか?」
つられて小声になったケントは、純粋に想定外のようだった。ただ疑問のみをぶつけてくる。こちらに反感を買った様子はない。
「いや、あくまで可能性の話さ。あの子の境遇は憐れんで然るべきものだ。だが、あまりにもでき過ぎた展開だと思ってな。彼女がただの被害者と考えるにはまだ早いんじゃないかっていうのが、おれの意見だ」
「じゃあ何だ、あいつが裏で糸を引いているって言いたいのかよ。どっちかっつーと、テメエの主の方が血の気多そうだけどな」
「ははは、そう言われると否定できないね。ただ、よく考えてみてくれよ。おれたちからしてみりゃ、エリスが折れるか死ぬかしてくれれば済む話だ。対して、エリスに確実な味方はいない。言い方は悪いが、全員くたばってくれた方が有利って訳だ」
「……うちの主は誤って殺されたんだ。それに、あいつは現在進行形で命を狙われてる。細々としたことを考えてる余裕はねえだろ」
「それはどうかな? あんたがいる場所に検討をつけて、わざと襲われてるところを見せたって線は? あんたの殺意が、自分へ向かないようにした──そう考えることだってできる」
「それなら、」
ケントが一段声を落とす。近付いてきた顔、眼差しの奥には鈍い炎が揺らめいていた。
「うちの主はどうなる。あの方もエリスの思惑で死んだって言いてえのかよ。エリスに対して、友好的な態度を崩さなかったのに?」
地の底から響くかの如き声。テオは静かに目をすがめる。
深掘りするならこの辺りまでだろう。エレーレイスのことになると、ケントは手がつけられない。彼の敵意が自分やアドラシオンに向いたのならおしまいだ。アドラシオンはともかく、テオは殺生を嫌う穏健派でなくてはならない。
「そこが難しいんだよなあ。今のところ、エリスにエレーレイスを殺害する理由はない。むしろ大事な味方が減ったにも等しい。仮に殺害を仕向けていたとして、エリス側に旨味がないんだよな」
「ほら見ろ、手詰まりじゃねえか。自分たちの疑いを逸らそうって魂胆が見え見えなんだよ」
「そんなことはないさ。たとえ可能性がなくたって、エリスを全面的に信用するのは悪手ってことだ。人間、見かけで全てを体現してるとは限らないだろ? あんなに可愛いエリスも、実は男かもしれないじゃないか」
「まあ、女にしちゃ背が高いし、体も薄っぺらいけど……性別を隠す理由がわかんねえよ。男にしろ女にしろ、多かれ少なかれ遺産争いに巻き込まれるのは変わりねえんだからさ」
呆れた口調ではあるが、ケントの物腰は先程よりも軟化している。どうやら彼の逆鱗を避けることに成功したようだ。テオとしては命拾いした気分である。
「とにかく、用心するに超したことはない。おれはあんたのことを悪く思っちゃいないからね、なるべく波風を立てずに帰ってくれるのを期待してるよ」
「余計なお世話だ、と言いてえところだが……俺もテメエに恨みはないからな。ありがたく受け取っといてやるよ」
相変わらずひねた言動に変わりはないが、ケントは憎まれ口を叩いているくらいがちょうど良い。無論、真っ向から受け取る程馬鹿正直ではないので、ゆるりと受け流しておくが。
再び荷造りに戻ろうとして、一度だけケントが顔を上げる。そうそう、と思い出したように付け加えた。
「テメエに比べたら全然だが、エリスに気を付けとけって言いたいのは同感だ。あいつ、料理に関しては底辺ぶち抜いて地獄行きだからな」
「料理? 作るのが苦手ってことかい?」
「それもあるが、多分味覚と胃袋もいかれてる。明らかに有害ってわかる出来の代物を他人に勧めるわ完食するわ、もうやりたい放題だ。命が惜しけりゃ、あいつを飲食物に近付けないことだな」
「随分と脅かしてくるじゃないか。肝に銘じておくよ」
料理がそれなりにできる身のテオとしてはどこをどう間違えばケントの言うような結果に落ち着くのかわからないが、今朝のエリスの落ち込み方からして全くの作り話ではなさそうだ。大方、彼女は面と向かって手料理を酷評されたのだろう。可哀想に思う気持ちと、一体どんな代物を作ったのかという好奇心がテオを板ばさみにする。
何にせよ、先述の通りテオは素直にケントの無事を祈っている。何事もなく彼が郷里へと帰り、穏やかに暮らせたのならそれで良い。
「じゃ、おれはこの辺りでお
「テメエの手を借りなきゃならねえことは今のところないから安心しとけ。せいぜい気難しい女主人のお世話を頑張るんだな」
「そうかい。ま、あまり気負わずにいこうぜ。長旅に臨むんだ、今くらいゆっくりしておきなよ」
ひらりと手を振って別れを告げ、テオは客室を後にする。既に視線を手元に落としているケントと視線は交わらなかったが、彼の纏う空気は凪いでいる。
ふっと表情を弛め、テオは静かに扉を閉める。これ以上の死者が出ないことを願いつつ、気の強い女主人の待つ部屋へと歩を進めた。
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