4

□サディアス


 ぽつぽつと降り出した雨は、やがて霧雨となった。

 石造りの古城、その露台バルコニーに立つサディアスは、何を思うでもなくぼうっと眼下に広がる湖を眺めていた。雨が降っているとはいえ、視界を遮る程の強さではない。うっすらと霧がかった風景は、湿り気を帯びた空気を伴ってサディアスの前に在り続ける。


「サディアスさん、こんにちは」


 静寂の中で目を瞑ろう──とした矢先、見計らったかのように声をかけられる。

 サディアスはのろのろと振り返った。生憎、ルイスとは違い立ったまま眠る趣味はない。故に先の動作を邪魔されたことに対して思うところはなかったが、せっかくの孤独を遮られたことに関しては僅かな不快感を抱かずにはいられなかった。

 霧中における全体的にくすんだ色彩の中で異彩を放つ、金色の髪。エリス・カルヴァートは悪天候をものともせず、花のような笑顔を向けて歩み寄った。


「一人? ルイスさんはどうしたの」


 主を自称する男の名を耳にして、サディアスは少し上を向いた。ぼんやりしていたせいで忘れかけていたが、今はルイスを部屋に置いてきているのだ。

 主従といえども、その形は様々だ。いつでも二人いっしょにくっついている訳ではない。テオやニールが良い例である。

 だというのに、ルイスは頑なにこちらの単独行動を咎める。先程だって、部屋を出ようとしたらすかさず小言が飛んで来た。それゆえに、外出したのだが──エリスも、主従は必ず共にいなければならないと考える人種なのだろうか。だとしたら何となく嫌だ、と思う。あの小うるさい神経質な少年と考えを同じにする人間など、多かれ少なかれまともではない。

 気にするな、という意味を込めてサディアスは首を横に振る。これに対してエリスは疑心を向けることなく、そっか、と相槌を打った。


「色々なことがあったから、きっと疲れてるんだろうね。ルイスさんには何回かお世話になったから、どこかでお礼をしたいけど……まあ、今すぐじゃなくても良いか」


 一人で何やらぶつぶつ言っているエリスを横目で見れば、視線に気付いたのかすぐに目を合わせられた。慌てて、とまではいかないが、居心地の悪さを感じたサディアスはそっとうつむいて回避する。

 エリスに限ったことではないが、白い肌の人々はやたらと目を合わせたがる。少なくとも、サディアスが出会った者たちはその傾向が強い。

 ルイスも、こちらが目を逸らすのをやたらと嫌う。対話する際は人の目を見ろ、とは何度も口酸っぱく言われたものだ。その度に無視してはいるのだが、ルイスには潔さがない。何度も何度も、口を縫い付けなければ直らないのではないかと言わんばかりに同じ注意を繰り返す。


「嫌だった?」


 ルイスのように口うるさくあれこれ注意してくることはないが、エリスもまたサディアスにとっては苦手な部類の人間だ。こちらは一生懸命避けているのに、さらに覗き込んで追随しようとする。何故そうまでして他人に干渉しようとするのか、サディアスには理解できない。

 再び首を横に振る。それだけでは足りないと思い、億劫ながら口を開く。


「嫌、というより……面倒な、だけ」

「面倒? 人と接することが?」

「そう」


 英語は難しい。ルイスから飽きる程の指導を受けはしたが、それでも理解できない部分だらけだ。

 そもそも、サディアスには言語習得の意欲がない。興味のない相手と意志疎通する気はないし、必要最低限の対話ができるだけで十分だと思っている。故に、異郷のことばを身に付けろとしつこいルイスの意向には従えない。

 無愛想にも程があるサディアスの反応を前にしても、エリスのにこやかな顔つきは変わらない。なるほどねえ、とのんびり相槌を打ってから、彼女は露台の縁に肘を置く。


「その気持ち、何となくわかるかも。世の中、しっくり来ない人が多すぎてげんなりしちゃうよね」


 違う、そういうことを言いたいのではない。

 サディアスが面倒だと思っているのは人付き合い全般だ。他人と関わることそのものが、サディアスにとっては億劫なのだ。

 だが、エリスの主義主張を聞くのは無駄ではない。彼女は誰もが狙うカルヴァート家の遺産、その糸口となる人物だ。多少の手間はかかろうとも、弱点を晒そうとする相手を無視するのは愚策だとサディアスは理解している。

 故に彼は聞きの姿勢に入ったのだが──エリスは何故か、くるっとこちらを向いた。


「サディアスさんは私のこと、苦手?」


 どういう風の吹き回しだろう。

 質問の意図がわからず、サディアスは首をかしげた。エリスはというと、相変わらず笑顔を浮かべたまま返答を待っている。

 エリスのことが苦手か。はっきりと答えられる程の交流はないし、そもそもサディアスは彼女に興味がない。自分の利となる行動をしてくれるなら多少好ましくは思うだろうが、今のところその様子はないのでどうとも思わないのが現状である。

 正直やり過ごしたいが、エリスがそれを許してくれるようには見えない。サディアスはため息を堪えながら答える。


「別に……普通」

「普通?」

「好きでも嫌いでも、苦手でもない」

「まあ、そうだよねー。私たち、そこまで絡みないし」


 予想できているのなら聞かないで欲しい。サディアスは反射的にそう思ったが、それを英語で伝えるだけの気力がなかったので黙りを選択する。

 エリスの思考回路はわからない。こちらが対話を望んでいないことを理解しているだろうに、どうしてとりとめのない話を持ちかけてくるのか。普通は、自分に興味のない人間に諦めず話しかけるものではないと思うのだが。


「ルイスさんとは結構話してる気がするけど、サディアスさんとはそうでもないよね。私にとっては謎多き人、って感じだから……少しでも仲良くなれたら嬉しいな」

「……おれは、そうは思わない」

「ふふっ、サディアスさんてば、可愛い」


 可愛い? 何故?

 ますます意味がわからず、サディアスは首をかしげる。ニールとかいうハイランド風の男とまではいかないが、サディアスもそこそこ上背のある成人男性だ。どこに可愛げがあるというのか。

 わかりやすく疑問を呈するサディアスの内心は、とっくに露見していたのだろう。エリスはくすくすと笑みをこぼしながら答えを寄越す。


「だって私、さっきの主語を明らかにしていないのに……サディアスさんってば、すっかり自分のことだと思っているんだもの。私にとってよくわからないのは、なのにね。ふふっ」

「……!」


 この女──謀ったか。

 サディアスは息を飲み、初めて真っ直ぐに目の前の少女を見据えた。それでもエリスが怯むことはなく、おかしげに微笑むばかり。

 馬鹿にされたようで気に食わない。しかし苛立ちを表に出すのも馬鹿馬鹿しいので、サディアスは黙りこくったまま顔を背ける。

 もうエリスには付き合っていられない。この場から立ち去るのは癪なので、早く失せろとの意味を込めてしっしと手を振る。


「そんな邪険にしないで。私はルイスさんについて知りたいの──あなたのことはこれ以上詮索しないから」


 約束する、とエリスは苦笑する。約束も何も、こちらはひたすら関わりたくないのだが──太めの眉が尻下がりになっているのを見ると、どうにも悪者に仕立て上げられているようで良い気分はしない。ここはぐっと我慢して、形ばかりの主人の情報を売るとしよう。


「……何が知りたい?」

「うーん、そうだなあ。色々あるけど、一番は若さの秘訣、とか?」

「……なんだ、それ」


 全くの本心から出た言葉だったが、エリスはあくまで真剣だった。


「だって、ルイスさんは参加者の中で一番の年長者って聞いたんだもの。それなのにいざ会ってみれば、私とそう変わらない見目をしてるんだよ? さすがにびっくりしちゃった」

「年長者……?」

「知らないの? メレディス家の嫡子は今年で二十四歳、エレーレイスさんよりも歳上って話だったけれど」


 知らなかった。そもそも、サディアスは主人を名乗る男のことなど何も知らないし、知ろうとも思わない。ただ、馬鹿正直に肯定する気にはなれないので、黙って是非を答えずにいる。

 二十四歳。それなら、ルイスは自分と同年ということになる。

 エリスと同意見なのは何だか複雑だが、意外だと思ったのは本心だ。あれほど幼稚で聞き分けのない人間がまさか同い年だとは、数年ぶりに笑いが込み上げそうである。


「サディアスさん、余計なお世話かもしれないけど、仕える相手のことはよく見ておいた方が良いんじゃない? さすがに年齢まで知らないのはまずいよ」


 余計なお世話とわかっているのなら黙っていて欲しいのだが、エリスはわざわざ口に出してきた。彼女といいルイスといい、不要な発言しかできないのだろうか。

 サディアスの不満を感じ取ったのか、エリスはまあ良いけど、と呟いて踵を返す。ふわりと揺れた髪の毛からは一切の匂いがこぼれない。


「何にせよ、相手のことを知らなすぎるのは良くないと思うよ。どれだけ人畜無害に見えても、人間なら隠し事のひとつやふたつはあるもの。何でもかんでも知らなかった、で済ませられる程、この世界は甘くないよ?」

「…………」

「面倒事、あまり溜め込まないようにね。それじゃ」


 ひらりと手を振り、エリスは去っていく。体臭だけではなく、足音もしない。

 本当にお節介な女だ。過干渉な人間程、厄介なものはない。

 サディアスは独り瞑目する。そのまなうらには何も浮かばない。彼が他者のことを思考するなど、余程のことが起こらなければないようなものだ。それは今現在も例外ではなかった。

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