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■エレーレイス・ヘーゼルダイン
「少し性急だったかな」
椅子に腰掛け、優美に長い脚を組む。そして、憂い混じりの声で一言。
芸術作品のひとつと誤解されてもおかしくはない佇まいのエレーレイスではあるが、彼の従者は主の見てくれに惑わされなかった。じとりと白眼視し、主の広げた荷物をてきぱきと仕分けていく。
「当たり前だろ。疑心暗鬼真っ只中の相手に、よりにもよって求婚するとはな。性急どころの話じゃねえよ」
「そうかい? たしかにせっかちだったとは思うけれど、そこまで否定されると傷付いてしまうな」
「言ってろ。大体、あんな求婚であっさり受け入れる女なんてなかなかいねえっつの。主サマくらいの容姿となれば大抵の誘いは上手くいくがな、時と場合を考えろって話だよ」
溜め息を吐きながら衣類を整えていくケントに、おや、とエレーレイスは目を瞬かせる。
「さすがに買い被り過ぎではないかな。
「……あんた、本気でそう思ってるのか?」
「本気だとも。まさか嘘を吐いているように見えるのかい?」
「…………ああはいはい、主サマはそうでなくちゃな」
何故自分は呆れられているのだろう。エレーレイスとしては腑に落ちない。
彼は無頓着なのだ、自身の容姿が優れていることに関して。良家でそだったエレーレイスは、容貌の良し悪しが人気や恋愛感情に直結する、と思っていない。多少の影響があることはわかっているが、第一条件にはならないのである。能力や人柄を重要視する彼にとって、他者の姿形など些事に過ぎない。己は恵まれた容姿を持っているにも関わらず──だ。
しかし、自分のことは棚に上げておきながら、エレーレイスはエリスの容姿に好印象を抱いてもいた。頬杖をつきながら、動き回っているケントに言葉を投げ掛ける。
「ケント、そう言う君はどう思っているんだい? あまりエリスに興味なさげじゃないか。少なくとも私は、麗しく朗らかな彼女を好ましく思っているけれど」
「この期に及んで恋愛話かよ。もし好みが被ってたらどうするつもりだ? 俺、下らねえ争いで身を滅ぼしたくねえんだけど」
「下らなくなんてないさ、私は真剣だ。何、君がエリスをどのように思っていようが、私の目的は変わらない。強いて言うならちょっと張り合うだけだよ」
「あんたのちょっとは全然ちょっとじゃねえんだよなあ……」
他者をいたぶる趣味はないが、エレーレイスは粗野なようで真面目な従者が困っている顔を見るのが好きだ。にこにこと笑みを浮かべながら返答を待つ。
暫し立ち止まって考えた後、ケントが浮かべたのは苦々しい表情だった。
「……悪い、俺はあの女、割と苦手だわ」
「苦手? 具体的には、どのようなところが?」
「いや、あんたの審美眼を否定する訳じゃないが……なんか、読めねえんだよなあ、あいつ。覚悟は決まってるんだろうが、カルヴァートの至宝を受け継いだその先に何を成したいのか……そもそも誰の、あるいは何の味方なのかがさっぱりわからねえ。自己が見えねえんだよ。敢えて見せないようにしてるのかもしれないけどな」
「それは致し方のないことだよ、ケント。今の彼女には確固たる味方がいない。一応、今のところ我々とメレディス殿──あとはテオが彼女を生かしたまま結論を得る方向性でいるが、エリスからしてみれば全面的に信用できる相手とは言い難いだろう。気丈に振る舞ってはいるが、彼女はひたすらに孤独だ」
「……主、まさかあの女に同情してるのか?」
ケントの声が低められる。普段の揶揄するような呼び方は引っ込み、鋭い睥睨が飛んで来た。
こういう態度を取る時のケントは厄介だ。彼は勘が良く聡明で、大抵の警告は当たる。何よりも堪えるのは、ケントが注意してくる際、エレーレイスは指摘された行為に対して肯定するしかない立場にあることだった。
「たしかに、同情はしているよ。だが憐れみはしない。エリスに憐憫を注ぐ資格が我々にないことを忘れるなど、あってはならない」
肩を竦めながら、エレーレイスは首肯する。ケントに嘘は通じない。どのような状況であろうとも素直に答えるのが一番だと、これまでの付き合いでエレーレイスは学習している。
そうだ、エレーレイスはエリスに同情している。彼女の境遇を嘆かわしいものと見ている。それゆえに、可能な範囲でエリスを助けたい。
しかし、憐れみをかけるつもりはない。同情も憐れみも然して変わらないものではあるが、ただ可哀想だからといって全面的にエリスの味方となる訳ではないのだ。こちらの目的はカルヴァート家の所有する至宝を手に入れること。それを阻むならば、エリスの意志を折ることもやぶさかではない。言うなれば、エリス本人の命を奪わないというだけなのである。
「今のエリスは我々の目標達成を阻害する障害物だ。それなりに外堀は埋めてきたつもりだが、その程度で折れる女性ではなかったようだね。その気概は賞賛すべきものだが……彼女には変わってもらわなければならない。単なる守護者になる気はないよ」
「そりゃそうだ。この期に及んで味方面なんて、卑怯どころの話じゃねえよ。なんたってあんたはあの女の親族を、」
「──ケント」
し、と吐息のみの制止。
ケントははっと目を見開く。主の真意に気付いたのか、最後まで言葉を連ねることはなかった。あー、と行き場のない声を出してから、きまり悪そうに頭を掻く。
「悪い、先走った。俺もあんたのことをとやかく言えねえな」
「ふふ、主従揃ってせっかちということで良いじゃないか。それに全てを包み隠さず口にするよりはずっとましだ。君は利口だよ、ケント」
口元に手を持って行き、エレーレイスは屈託なく笑う。破顔した主にケントも一安心したのか、全身の強張りを弛めるのが目視できた。
朗らかな笑みはそのままに、エレーレイスは脳裏にエリスの顔を思い浮かべる。
一目見た瞬間に、可憐な少女だと思った。端正な顔立ちに浮かぶ微笑みを想起するだけで、知らずこちらの顔も綻びそうになる。気さくで人懐っこい振る舞いも、少なくともエレーレイスにとっては好感触だ。堅苦しい物言いで接せられるのは好まない。
そんな彼女の親族、その一部をヘーゼルダイン家は抹殺している。
『父には私しか子がおらず、家を継ぐに相応しい親類は、何故か皆揃って亡くなっています。現時点では私が鍵を所有する他ありませんでした』
エリスの言う通り、示し合わせたように亡くなったカルヴァート家を継ぐに相応しい親類。偶然の産物などではなく、カルヴァート家を消さんとする諸侯が一時的に手を組み、暗躍した結果である。これにより、カルヴァート家はその遺産を他家に譲り渡すしか手がなくなった。
この古城に呼び寄せられた子女の家は、多かれ少なかれカルヴァート家潰しに加担している。遺産の引き取り手として選ばれたのも、エセルバートに圧力をかけていたが故である。彼は言うなれば、体の良い操り人形であったという訳だ。直接手を下したのは雇われた刺客だが、エリスにとっては仇だらけの会合。何とも悲劇的な話だとエレーレイスは思う。
ヘーゼルダイン家の刺客によって病死を装い殺害されたエリスの祖父──シェリントン・カルヴァートが全容を知ったのなら、怒髪天を衝くどころでは済まないのではなかろうか。彼はカルヴァート家の行く末を最も案じ、本家の人間以外に乗っ取られることを危惧していた。カルヴァート家断絶を目論む諸侯らにとってはすぐにでも消すべき障害物であり、それゆえにヘーゼルダイン家が彼の排除を請け負った。厄介事を引き受けた、というよりは、主導権を得るために先手を打った、と形容するのが適当だろう。目的を同じくする相手であっても、下手に出るなどヘーゼルダイン家の矜持が許さない──スペインやスコットランドの人間が関わっているなら尚更彼らの良いようにはさせたくなかったのだろう。指示を出したのはエレーレイスではなくその父親だが、いずれ当主の座を継ぐ者として彼の思惑は理解できた。
「とにかく、エリスを味方につけておいて損はない。上手く事を進められれば、平和的に目的を達成できるかもしれないからね。余程のことでもない限り、我々は彼女の味方として動く。粗相のないよう、くれぐれも気を付けておくれよ」
物わかりの良いケントが二度も失言するとは思えないが、念には念を入れるべきだ。茶目っ気を含めて、エレーレイスは器用に片目を瞑ってみせる。昔からこの手の仕草は得意だった。
案の定、ケントは何も言い返すことなく静かにうなずいた。──と同時に、こんこん、と扉を叩く音が控えめながら確かな存在感をもって響く。
主従は顔を見合わせる。やがてケントが目配せをしてから扉の前へと移動し、細く隙間を作って様子を窺った。
「……あんたは……」
「夜分遅くにごめんなさい。ちょっとお話ししたいことがあって来たのだけれど……お邪魔だったかな」
ケントの肩口から、ひょこっと顔が覗く。外套を羽織っているのか髪の毛はよく見えなかったが、それでも顔立ちと声から来訪者が誰かを察することはできた。
「エリスじゃないか。一体どうしたんだい」
「ううん、別に大したことじゃないの。ただ、少し相談したいことがあって。そんなに時間をかけるつもりはないから、中に入れて欲しいな」
変なものを持っていないという意思表示なのか、エリスは両腕を上げながらそう頼んだ。
どうする、とでも言いたげにケントが視線を向けてくる。言葉を発しないからか、妙な緊張感がその場に漂った。
「通して差し上げなさい、ケント。我々を頼ってくれる相手を邪険にするものではないよ」
もとより、エリスを追い返すつもりはない。エレーレイスは間を置かずに快諾し、口角を上げた。
ケントは渋い顔をしていたが、主人の命令に逆らう訳にもいかなかったのか、扉を開けてエリスを招き入れた。二人が並ぶとエリスの方が長身で、何とも言えない気分になる。
「ありがとう、エレーレイスさん。なるべく早く済ませられるように頑張るね」
入室したエリスは、持っていたランプを手近な机に置いてからおもむろに外套についていた頭巾を取り去る。ふるふると彼女が頭を振れば、柔らかな金髪が輝きを纏いながら揺れた。
恐らく、エリスは自らの正体がわからぬよう外套を身に付けていたのだろう。彼女はその金髪や整った顔立ち、そして女性にしては背が高いことも相まってよく目立つ。せめて隠せるところは隠しておきたい、という気持ちはその容貌から苦労したことのあるエレーレイスとしてもわからなくはない。
そっと目配せして先を促すと、エリスはえっとね、と切り出しに悩む様子を見せながら話し始めた。
「多分、これから皆寝ることになると思うんだけど……ちょっと、一人で過ごすのが不安で。寝込みを襲うって常套手段でしょう? だからどうにか対策できないかと思ったんだよね」
「なるほど……君は従者をつけてはいないものね。しかし、何故我々に? メレディス殿やテオフィロも、君のことを守る方向性でいるようだったけれど」
「うーん、他の人たちを悪く言うつもりはないけど、あの中で一番話がわかりそうな人……って考えたら、エレーレイスさんが思い浮かんだんだ。私にとってエレーレイスさんが一番安心できる相手だし……あっ、単純にあの面々の中で一番部屋が近いっていうのもあるよ。叔父上と同じ場所で寝るのは何だか居心地が悪くって……空いている客間で寝ることにしたんだ」
エリスはそう言ってから、自信の発言に気付いたのか照れくさそうにはにかんだ。無自覚なままに放たれた言葉だったのだろう。
何にせよ、彼女の言葉はエレーレイスにとって素直に嬉しいものだった。彼女にとっての安心できる相手とは、つまり信頼に足る相手だ。彼女の中で、エレーレイスはそういう位置に立っている。当初の目的通りだ。
だが、その位置に甘んじるだけではいけないとも思う。彼女の力になりたいと願うのならば、相応しい人間であることを示さなければならない。でなければ、エリスの信頼は脆くも崩れてしまう。現在の関係性を維持、そして良い方向に進展させなければカルヴァート家の至宝が遠ざかると自らに言い聞かせるべきだろう。
「……ふむ。わかったよ、協力しよう。それで、何か具体的な案は考えているのかい?」
問いかけてから、すぐにエレーレイスは付け足す。
「ああ、勿論、今から考えるのでも構わないよ。君を急かすつもりはないんだ。もし焦らせてしまったのならすまない」
「ううん、気にしないで。私なりに、色々考えてきたから」
そう告げて、エリスは何を思ったかエレーレイスのもとを離れる。訝しげなヘーゼルダイン主従の目線が辿り着いた先は、石造りの正方形が規則的に並んだ床。
しばらく歩き回ってから、エリスはそっとしゃがみこむ。そして、がしりと石材の両側面に手をかけた。
「私の部屋にあったから、まさかとは思ったけど……やっぱり、どの部屋にもあるんだね。隠し通路」
そのまま、よいしょ、と持ち上げる。石材はかぱりと、いとも簡単に外れた。
エレーレイスはすぐさま駆け寄り、ぽっかりと空いた空洞を見下ろす。真っ暗闇の向こう側を窺い知ることはできなかったが、エリスの言葉が正しいのなら通路と言えるだけの空間が存在しているのだろう。
「……あんた、これを俺たちに見せてどうするつもりだ?」
未だその場を動かぬケントが、刺々しい声色で尋ねる。彼の利き手が背中に回されているところを見るに、変な動きがあればすぐに隠し持った短剣でエリスを攻撃する心づもりなのだろう。主の身を守るためなら、その意向に逆らうことも辞さない──どこまで行ってもエレーレイスを基準とするケントらしい動きだ。
エリスは困ったように眉尻を下げた。太めの眉毛がわかりやすく悲しげな色を帯びる。
「どうする、って……別にどうもしないよ。こういうものが存在するんだって、伝えておきたかっただけ。だって二人とも、私が隠し通路を見付けるまでそんなものがあることすら知らなかったでしょう?」
「……それは、そうだがよ」
実際に隠し通路に気付けなかったのだから、いくら威勢が良かろうと否定はできない。ケントはうつむきながらもごもごと口ごもった。ひねくれているようで、案外嘘を吐けない性分なのだ。
「ふふっ、そんなに落ち込まないで? 本題はここから」
そんなケントを微笑ましげに見つめながら、エリスは隠し通路をもとに戻す。そして、すっくと立ち上がってからエレーレイスに向き直る。
「今のところこれといった接触はないけど、もしかしたら私たちの他にも隠し通路を見付けた人がいるかもしれない。そうなったら、私に危害を加える可能性だって増えるよね? だから、何か対策を立てた方が良いかなって思ったの」
「ふむ、たしかにそれは懸念すべきだね。隠し通路がどのような仕組みかはわからないが……君の部屋への道程が暴かれたら一大事だ」
長い指を頤に添えながら、エレーレイスは瞑目する。
真っ先に思い付いたのはエリスを自分たちのもとに匿う策だった。うら若き少女を男ばかりの場所に置いておくのはどうかとも思うが、エリスが害されることと比べたら背に腹は代えられない。自分のことではないのでケントに関してはどうこう言えないが、少なくともエレーレイス自身はみだりに女性に手を出さないだけの理性を持ち合わせているつもりだ。過ちは起こらない……ように最善を尽くしたい。
「エリス、君さえ良ければ、我々の部屋に留まってはどうかな。一人で過ごすよりはずっと安全だろう」
善は急げと提案してみたが、エリスはふるふると首を横に振る。
「それはさすがに申し訳ないよ。場所の問題もあるし、何よりエレーレイスさんに変な風聞が立ったら、私、どう責任を取れば良いのかわからないよ」
「そのように気にする必要はないよ。無論、君が望まないと言うなら無理強いはしないが」
「ううん、エレーレイスさんが嫌って訳じゃないよ。ただ、単純にお邪魔するよりも良い方法を考えてきたんだ。まずはそれを聞いて欲しいな」
「そういや、色々考えてきたって言ってたな。どういう作戦だよ」
ケントが仏頂面のまま横槍を入れる。記憶力の良い従者は、先の発言をしっかりと暗記していたようだ。
エリスは彼にちらと目を向けてから、ぴんと人差し指を立てた。
「あのね、エレーレイスさんと私で、部屋を入れ替えようと思うの」
「入れ替える?」
「そう。この部屋に私が、私がいるはずの部屋にエレーレイスさんが入る。勿論、ケント君には私の側についてもらう。そうしたら、きっとこのやり取りを知らない人たちはあべこべになっているなんて気付かないよ。多少の差はあるけど、外套を身に付ければ別人だと看破される確率もぐっと下がるだろうしね。ただ……」
ひとつだけ問題があって、とエリスは苦笑する。
「エレーレイスさん、護身術は身に付けてる? 言い方は良くないけど、あなたには私の身代わりになってもらわなくちゃならない。刺客を撒けるくらいの力量がなければ、エレーレイスさんはただの生贄になってしまう。それは、ちょっと酷すぎると思うから……どうかな。自分の身、守れる?」
「……あのよ、あんた、本気で言ってるのか? あんた一人を守るためだけに、主人の身を危険に晒せと?」
エレーレイスが答えるよりも先に、ケントがずいと詰め寄っていた。
間違いない。彼は怒っている。従者の全身からふつふつと漂う怒気を感じ取れぬ程、エレーレイスも鈍感ではなかった。
しかし、エリスは怯まない。毅然とした態度でケントを見下ろす。
「私は初めから本気だよ。じゃなきゃ、わざわざ一人であなたたちのもとを訪れたりしない」
「なら答えろよ。あんたを守ることに、なんの利がある? 下手したら主は死ぬかもしれねえ、それ以上の報酬がなきゃ引き受けられねえよ。あんたは、主の命以上の価値があるものを用意できるのか?」
「できるよ」
即答だった。
エリスは胸元をまさぐる。そこからつまみ出されたのは、紐の先に括られた鍵。
「エレーレイスさん。あなたが協力してくれるのなら、カルヴァート家の遺産をあなたに譲る。勿論、何もかもを引き渡すつもりはないけれど……カルヴァート家が代々守ってきたものを、報酬としてあなたに、ヘーゼルダイン家に差し上げます」
「……本当に? 君は本当に、カルヴァート家の至宝を諦めるのかい?」
「……悔しいけど、ここで死ぬ訳にはいかないもの。だから、ね。お願い。私を助けると思って、協力してくれないかな」
エリスは切実さを湛えた眼差しで、真っ直ぐにこちらへ歩み寄る。制止しようとするケントの横をすり抜けて、エレーレイスの前に立つ。
「お願い、エレーレイスさん。どうか、私を助けて」
翡翠色の目が潤む。彼女の瞳に映った己の姿が、不安定にぶれる。
──なるほど、彼女は本気だ。
エレーレイスは静かに嘆息する。そして、わかったよ、と相好を崩した。
「君の覚悟はよく伝わった。そこまで言うのならば……私は喜んで君に協力しよう」
「……っ! ありがとう、エレーレイスさん!」
ぱあっと表情を明るくして、エリスは両手でエレーレイスの手を握る。
「そうと決まれば早速準備を始めないとね。ええと、まずは……」
「待ってくれ」
張り切るエリスを呼び止め、エレーレイスはそっと手を解く。きょとんとしたエリスの表情は、彼女を年齢以上に幼く見せた。
「どうしたの、エレーレイスさん。何か、他に条件とかある?」
「まあ、そうだね。君に協力するにあたって、約束したいことがあるんだ」
「約束?」
「ああ。これから先、私は決して君を傷つけない。君を守るために、君の意志に反することはしないと誓おう。たとえ全てが円満に終わり、君がこの古城を去らなくてはならなくなったとしても、だ」
「え……それって、つまり」
エレーレイスは微笑を浮かべたまま、ゆるりと首肯する。
「君がこの先、何にも脅かされず、幸福に生きられるよう──ヘーゼルダイン家が、全面的に君を援助しよう。願わくば、私の伴侶となり、二人で手を取り合いながら進めたら一番なのだが……君には君の意志がある。可能な範囲で君の要望を聞き届け、その未来が平穏無事なものであるよう、全力を尽くそう」
「そんな……そんなの、悪いよ。私が良い思いをしてばかりじゃない」
「いや、こうでもしなくてはとても釣り合わないよ。最大限の覚悟をもって私に応じてくれたのだから、こちらも誠意を見せなければならない。エリス、君の厚意に応えるのは当然だ」
優しく諭すと、エリスは戸惑った様子を見せながらもこくりとうなずいた。自らの幸福に関しては、どこか鈍感なようだった。
そんな彼女を微笑ましく思うと共に、エレーレイスはふと悲しくなる。
きっと、エリスは一言では言い表せない程に過酷な人生を歩んでいる。ただ名家の娘として生まれただけで、親族を殺害され、親とも離別し、家そのものさえ奪われようとしている。
その一端をヘーゼルダイン家が担っているのもまた事実だ。だが、だからこそこれ以上の不幸をエリスに背負って欲しくはない。
「エリス、君さえ良ければ、全てが終わった後にブリテン島を出ることも考えよう。ここは君にとって辛い地に他ならないだろう?」
気付けば、エレーレイスは損得勘定抜きに申し出ていた。おい、とケントが声を上げるが気にしない。
「大丈夫、ヘーゼルダイン家は各地に別荘を持っているから、大陸に出たとて心細い思いはさせないよ。何なら、このアイルランドにいても良い。君に見合った屋敷を見繕うことも容易いし、どこに行こうと援助は続ける。そのための約束だからね」
「でも……ブリテン島を、イングランドを出るって、結構な負担にならない? 私は生まれも育ちもイングランドだし、気持ちだけでも全然平気だよ」
「……実を言うとね。私は、今のイングランドにあまり期待してはいないんだ」
声を落とし、エレーレイスは囁いた。これまで心の奥に秘めていた思いを、何故かエリスになら吐露しても良いと思えた。
「エリス、君にとっては縁遠い話かもしれないが……今のイングランドは強国に囲まれ、いつ戦いの火蓋が切って落とされるかわからない危険な状況にある。外交交渉によってどうにか均衡を保ってはいるが、未だ私掠船は横行しているし、スペインとの関係も良好とは言い難い。たしかに十年前のアルマダ戦争では
「じゃあ……エレーレイスさんは、スペインに屈服すべきと考えているの? イングランドはなくなっても良い、と?」
「そこまでは思っていないよ。私もイングランド人だ、祖国への思い入れはそれなりにある。私としてはね、覇権国家たるスペインとの融和が最善なのではないかと思うんだ。いくらネーデルラントやフランスの援助があろうとも、その見返りはあまりにも乏しい。ネーデルラントはともかくフランスを全面的に信用するのはどうかと思うし、北には協調的とはいえスコットランドがある。スコットランド王は今でこそ静かだが、情勢によっては出方を変えることもあるかもしれない。何せ次期イングランド王となる可能性もあるのだからね。アイルランドもカトリックが優勢だから、いずれイングランドとは対立することになるだろう。つまるところ敵だらけなのさ、イングランドは」
だから、とエレーレイスは語気を強める。
「戦勝による国威高揚はもう意味がない。イングランドは着々と追い詰められている。──わかるかい、エリス。イングランドに居続ければ、カルヴァート家の至宝を抜きにしても君の身は脅かされ続けるだろう。私は、君が人並みの平穏と幸福を手に入れられるよう、力を尽くしたいんだ」
エリスはうつむき、沈黙する。彼女の表情は窺えないが、エレーレイスの言葉に思うところがあったのか、彼女は微かに肩を震わせていた。
やがて、エリスは顔を上げ、エレーレイスの目を見る。そして、静かに口を開いた。
「……私には、この身と命を捧げようと思う存在があるの。だから、エレーレイスさんの伴侶になるつもりはないんだ」
「構わないよ。君がそこまで真剣になれる方がいるのなら、その想いを否定するのは野暮が過ぎる」
「ありがとう。エレーレイスさんは優しいね」
目元を弛めてから、エリスはよしっ、と場違いに明るい声を出す。空元気なのは明らかだったが、敢えてエレーレイスは指摘しなかった。
「それじゃ、作戦を実行に移そうか! まず、私の部屋について説明しないとね。紙と、何か書くものはないかな? 図面で説明した方が、きっとわかりやすいだろうし」
「備忘録があるから、それを使ってくれ。──ケント、ペンとインクを用意して欲しい」
場の空気を読んでか沈黙を守っていたケントは、こくりとうなずいてからすぐに命じられた通りのものを持ってくる。エレーレイス愛用の羽根ペンとインク。ヘーゼルダイン家御用達の高級文具だ。
ペン、そしてエレーレイスの手渡した備忘録を受け取ったエリスは、さらさらと部屋の間取りを描いていく。今いるエレーレイスの客間とそう変わらない内装のようだ。
「隠し通路はここ。こっちと同じで、階下に繋がってる。押さえになるものを上に乗せておくと良いかも」
「それだと、脱出経路として使えなくなってしまわないかい?」
「それはそうだけど、でも、侵入者を中に入れないのが一番だから。もし侵入者が入ってくるとしたら、表の扉か、窓か、隠し通路ってところだと思う。多分目立つのは避けたいだろうし、内側から施錠可能、それに大人数で押し掛けることもないだろうから、表の扉は真っ先に選ばれないんじゃないかな。むしろこっちを脱出経路にした方が良さそうだね。表立って刺客を放ったと知られるなんて、名家の矜持ある人たちは避けたがりそうだし」
「けど、窓から入るのもきつくねえか? 石造りとはいえ、手をかけられそうな突起はほとんどなさげだぜ」
「相手の力量がわからない以上、油断は禁物だよ。大人数での襲撃が難しいなら、熟練の手練れ……少数精鋭で来るかもしれない。用心するに超したことはないよ」
隠し通路のある場所を丸く囲ってから、エリスは顔を上げる。
「全ての侵入口を潰すのは、かえって予想外の場所を突かれる可能性があるからやめておいた方が良いと思う。こっちの脱出を視野に入れるなら、窓周りの警戒を緩く、出入り口からの脱出が最善かな。隠し通路はどうなってるかわからないし、こっちが使うには不安要素が多すぎるから、思い切って塞いじゃおう」
「わかったよ。それならすぐ脱出できるよう、扉の側にいた方が良いかな」
「いや、万が一扉から来られたらまずいよ。場所にはあまりこだわらなくても良いんじゃないかな。一応、ケント君はこっちの扉の外側にいて欲しいな。ほら、私たちの部屋って直線上にあるでしょう? 外に出たり、周囲に誰かがいたりしたらすぐにわかるはず。こっちで何かあったら、すぐ知らせられるしね」
「了解。俺が寝ずの番をすれば良いってことだな」
「そうそう。眠いだろうけど、頑張って」
ぱちん、と茶目っ気たっぷりに片目を瞑るエリス。しかし、主人も似たような仕草を度々するからか、ケントは華麗に受け流した。何かしらの反応が欲しかったのだろう、エリスは控えめに唇を尖らせる。
「とにかく、これで大方の作戦は出そろったね。私としてはこのまま実行したいところだが……エリス、君からは何かないかい?」
発言しにくい空気をものともせず、エレーレイスは問いを投げ掛ける。遠慮はなしだよ、と付け加えながら。
しかし、エリスは首を横に振った。笑顔のまま、大丈夫、と答える。
「ここまで来たら、足踏みなんてしていられないよ。そっちが準備万端なら、私から言うことは特になし。大体の考えは把握できたしね」
「そうか、それなら良いんだが……気張りすぎていないか、私としては心配でね。立場上このようなことを言う資格はないかもしれないが、どうか自分に嘘を吐いてはいけないよ。己の意志をしっかりと持つんだ」
「……ありがとう。でも私、エレーレイスさんが思っているよりも、ずっと正直に生きているよ?」
ほんの少しの間を置いてから、エリスはふっと微笑む。程よく上がった口角、弛む目元──お手本のような笑顔だ。
──一瞬、その眼差しが陰ったように見えたのは見間違いだろうか。
エレーレイスは何度か瞬きする。目の前に立つエリスにおかしなところはない。こてん、と首をかしげながらこちらを見つめている。
「何はともあれ、無事に朝を迎えることが一番だからね。二人とも、どうか気を付けて」
笑顔ながら緊張を内包した声色に、エレーレイスは余裕のある微笑、ケントは投げやりな返事でもって応えた。
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