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■レアード・テューフォン


 何度目かわからない、盛大な舌打ちが室内に響く。それはたった一人で客間に取り残されているレアードのものに他ならない。

 彼は目に見えて不機嫌だった。──いや、エリスが遺産の譲渡を拒否した時から機嫌は悪いのだが、これまでの出来事が積もりに積もってレアードの気分は最悪の状態に陥っている。まるで自身を嘲笑うかのような予想外の展開の連続が、彼の苛立ちをかき立てていた。


「どいつも、こいつも……身の程知らずの愚か者どもめ」


 毒づき、机に拳を叩きつける。行き場のない怒りは痛みとなって再来し、レアードは独り顔をしかめた。

 従者であるマイカは、他の陣営の様子を窺ってくると書き置きを残してどこかへ行ってしまった。咎めようにも本人がいないのだからどうしようもない。施錠こそしているものの、現在のレアードは孤立無援とも言える状況。焦燥が募るのも致し方ないことだった。

 無事カルヴァートの遺産を手に入れ、郷里に戻ることが叶ったのなら、マイカには然るべき処分でもって応じなければならない。腕利きの殺し屋と聞いて期待してはいたものの、使い物にならないのではとんだ大外れだ。──忙しなく室内を歩き回りながら、レアードは今ここにいない従者を思い浮かべる。

 男か女かもわからない、舐め腐った態度の子供。大金を積んで雇ってやったのに、エリスの抹殺すら達成できないとは笑わせる。


(あいつは相手が悪かったのだ何だと言い訳を並べ立てていたが……所詮非力な小娘ではないか。これまでの経歴を思えば、実力で負けるはずがない──さては買収されたか、凡骨め)


 思えば、アイルランドではろくな目に遭っていない──というのはレアードの基準であって、事実としては思い通りにいくことが極めて少ないだけなのだが、ここでは置いておこう。

 生まれた時から名家の嫡子だった彼は、自らの思うままに物事が進むのが当たり前だった。レアードの発言ひとつでありとあらゆるものが彼の所有物となり、邪魔者は消える。それを当然の権利として享受してきた男にとって、此度の会合は理解の範疇を超えていた。

 認めたくないが自分よりも格上の存在である、エレーレイスとアドラシオン。対して格下の分際で生意気な態度をとるアイオナ。取るに足らない小物でありながら、ちょこまかと目障りなルイス。極めつけはこの会合の意義を根底からぶち壊すエリスと来た。

 とりわけ今のレアードが許せないのは、先程協力を持ちかけたアイオナだった。彼女はこちらの提案を無下に断ったばかりか、明らかに嘲笑する様子を見せていた。気位の高いレアードからしてみれば、到底看過できることではない。


(あの女──傷物の癖に、この俺に楯突くとは! 従えているハイランドの蛮族もそうだが、身分を弁えない田舎者の分際で調子に乗りおって……!)


 他の参加者はどうだか知らないが、レアードにはわかる。アイオナには貴族としての地位こそあるものの、その役目を果たすことはできない──他家に嫁ぐことなど不可能な事情があるのだと。

 コフィー家の本拠はエディンバラだが、彼らはスコットランドの各地に別邸を有している。それ自体は何ら珍しいことでもないし、テューフォン家も同様だ。諸用や避暑のために本拠地を離れることに対して、レアードも特に抵抗はない。

 その別邸で、二年前にコフィー家を揺るがす事件があった。公にはされていないが、テューフォン家が見逃すはずもない。斥候からの情報により、レアードはアイオナの抱える事情を把握していた。


(二年前……別邸に滞在中のコフィー家前当主とその妻が、火災によって死亡した。あの女が頑なに肌を隠しているのは、その際に負った火傷故だろう)


 故に、アイオナには女としての価値がない──とレアードは判断している。常に顔を隠していなければならないと来れば、負った火傷は生半可なものではないだろう。そのような女を娶ろうとする貴族など、余程の物好きとしか思えない。

 そんな役立たずの傷物が、あろうことか自分に牙を剥いたのだ。付き従っているニールも含めて腹が立つ。エディンバラに身を置く貴族とはいえ、レアードからしてみればあの主従はどちらも蛮族に過ぎない。


「朗報と言えば、エレーレイス・ヘーゼルダインが死んだことくらいか……」


 怒りを圧し殺しながら細く息を吐き出し、レアードはぽつりと呟く。

 エレーレイスとの間にこれといった交流があった訳ではない。だが、一目見た時から、あの利口ぶった男が気に食わなかった。いかにも善良でそつなく、紳士的な風を装った立ち振舞いは、反吐が出る程憎々しい。

 あれが殺されてくれて本当に良かった。個人的な私怨を抜きにしても、エレーレイスは脅威と言える相手だった。彼は早々にエリスの懐へと入り込もうとしていたようだし、何よりイングランド出身なのが大きい。スコットランドとて小国と謙遜する程の規模ではないとレアードは自負しているが、カルヴァート家はイングランドに根を張る一族だ。必然、同郷の人間の方が有利になる。

 だからエリスは殺害するしかない。時勢も掴めぬ愚鈍で浅はかな女は、遅かれ早かれテューフォンの害となる。融和を求める連中も、いずれ道連れにしなければならない。

 そのためにマイカを雇ったはずだった。だが、実際のところはどうか。あの殺し屋は参加者一人消すこともままならず、主にもぞんざいな態度を取っている。とても許容できたものではない。

 このままではいけない。早いところ体勢を立て直さなければ、何も得られずに会合が終わる──いや、あるいは生きてアイルランドを出られるかもわからない。

 なんとかしなければ。手始めに、まずはエリス暗殺の算段をつけるべきだろう。あの女さえ消すことができたのなら、遺産はどうとでもなる──。


「──?」


 憎いエリスの顔を思い浮かべようとした、矢先のこと。レアードの背中が突如熱さを持つ。

 何事かと振り返るより早く、彼の体はかしいでいた。そのままどう、と床に叩き付けられたと同時に、腹の上に重みがかかる。


「き──さまは、ヘーゼルダインの……!」

「へえ、覚えててくれたのか。嬉しいよ、レアード・テューフォン」


 全身から急速に温度が奪われていく。背後を刺されたのだとレアードが気付いた頃には、襲撃者──ケントは短剣を握り直していた。


「だがテメエはここで終わりだ。残念だったな」


 待て、とレアードは叫ぼうとした。だがその前に、短剣が彼の右腕を突き刺している。

 悲鳴がほとばしる。痛い。熱い。今までに経験したことのない痛みに、視界がぐらぐらと揺れる。

 この召使いは更正などしていなかった。まともに戻ったふりをして、ずっと牙を隠していたのだ!


「はは、良い悲鳴だ。けど、これで終わらせはしない」

「な……がァッ⁉️」


 左腕。右脚。左脚。右手、左手、それぞれの指。

 一切の容赦なく、そして間断なくケントは刺していく。悲鳴を上げ続けるレアードには見向きもせず、ただ淡々と、作業のように。

 レアードは最早言葉を発することすらできなかった。可能なことと言えば、喘鳴にも似た叫びを繰り返しながら、ケントを見上げるだけ。


「なんで自分を狙ったのか、とでも言いたげな顔だな?」


 血だまりの中を必死に這いずろうとするレアードから退くことなく、然れど平然とした口調でケントは言い放つ。最早相手に返答する余裕はないが、もとより対話の意思はないのだろう。血反吐を吐くレアードへと、淡白な眼差しが降りかかる。


「テメエはさっき、主の死を喜んだだろ? そんなの看過できる訳がない。それが理由だよ」

「は、」

「そうそう、ここまでは隠し通路を使わせてもらったぜ。せっかく便利なものがあるんだから、活用しなきゃ損だよな」


 そう告げると、ケントはゆっくりと立ち上がった。朦朧とする意識の中では、彼の姿を鮮明に捉えることはできない。


とどめまでは刺さねえよ。テメエにはそのままくたばってもらわなきゃならねえ。主と同じ苦しみを味わうが良い」


 足音が遠ざかっていく。最早視界すら定まらぬレアードの意識は、ただ暗がりへと落ち行くのみ。

 その間際、ケントのものとは異なる輪郭と、何かが崩れ落ちる音が聞こえた気がしたが──真実を知る前に、レアードの意識は途切れていた。

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