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■テオフィロ・レイェス
中庭に出ると、埃っぽく湿り気のある空気が鼻先を掠める。エレーレイスの一件で失念していたが、昨晩は雨が降っていたようだ。靴裏の地面も、何となくしっとりとして感じられた。
空を見上げると、昨日と同じくどんよりと曇っていた。太陽が顔を見せることはなく、うっすらと霧がかってもいる。お世辞にも見通しが良いとは言い難い状況に、テオは若干大袈裟に肩を竦めた。
マドリードの名門、テジェリア家に仕えているテオではあるが、出身はアンダルシア、詳細に言えばセビリア近郊である。温暖で乾燥した風土が染みついているからか、アイルランドの気候にはどうにも慣れない。暑くもないのに、何となく肌の表面が湿っているような気がする。体調を崩すまではいかないが、そこはかとない気持ち悪さにいつまでも付き纏われているようで落ち着かなかった。
しかし、そうした居心地の悪さを常に表面化する程テオは素直な質ではない。今も湿気なんて気にしていませんよ、とでも言いたげな、気分が乗れば口笛を吹きそうな雰囲気を纏わせながら、軽やかに歩を進めていた。
「おっ、いたいた」
視界の端に目的の人物、その後ろ姿を認め、テオは口角を上げる。決して狭いとはいえない古城を駆け回ったのだ、達成感はひとしおだった。
おーい、と呼び掛けつつ手を振る。案の定、相手に無視されることはなかった。
「──テオ?」
振り返った金髪の少女──エリスは、ぱちぱちと何度か瞬きした。先程、地下牢で見せた異様な空気はどこにもない。きょとんとした表情でこちらを見つめている。
最高とは言えないが、好感触ではあるだろう。テオは笑みを浮かべたまま、彼女の眼前へと近付いた。
「気安く呼んでくれて嬉しいよ。このまま良い関係を続けられたなら、なおのことありがたいね」
「ふふ、それは同感。でも、テオはどうしてここに? 私のこと、探してたの?」
エリスはくすりと笑い声を漏らすと、首をかしげた。さらりと揺れる金糸の髪が美しい。
だが、彼女がただの美少女でないことをテオは知っている。故にこそ、眼前の少女の警戒心は少しでも解かなければならない。せっかく親しげに話せるところまで来たのだから、この関係性は大切にするべきだろう。
テオは一瞬だけ目を細め、それからすぐに人懐っこい笑顔を作った。人好きのする振る舞いは、これまでの人生で嫌というほど培ってきた。初っぱなから話術でしくじるような真似だけは御免を
「はは、聡いねえ。恥ずかしながら、その通りだよ」
にこにこ笑いながら、テオは投げ掛けられた問いに対して首肯する。実際エリスを探していたのだから、わざわざ偽りを告げる必要はない。
「意外に正直なんだね、テオは。質問した私も私だけど、こうもはっきり言われるとちょっと照れちゃうな」
エリスは少し驚いたように目を見開いた後、面映ゆげに破顔した。
──よし、掴みは上々だ。
内心でテオは安堵する。気さくで親しみやすい雰囲気を纏わせているエリスではあるが、その実心を開いてはいない。どれだけ友好的に振る舞っていようとも、言葉の奥底には他者に対する壁がある。つまるところ、彼女はこちらを信用していないのだ。それがひしひしと伝わってくる分、テオにとってはやりにくい相手であり、そんな歯ごたえが楽しくもあった。
「意外、だなんて心外だなあ。おれは見ての通りの正直者、嘘なんて滅多に吐かないぜ?」
揶揄い混じりに眉尻を下げてみるが、エリスも相手の言葉にすぐ流される程安易ではない。えー、と可愛らしく抗議の声を上げる。
「嘘つき程そうやって、善良な小市民ぶるものだよ。味方だと思わせるために協力的なふりをして、相手の懐に入り込んで、相手を自分の思い通りに動かす。息するみたいに他者を欺いて、自分以外がどんなに損をしたり傷付いたりしてもへっちゃらなの。そういう人をたくさん見てきたから、よく知ってるんだよね」
悪戯っぽい口調とは裏腹に、エリスの顔に浮かぶのは冷ややかな微笑である。どこか突き放すような態度を取りつつも、その瞳はじっとテオを捉えていた。
だが、この程度の牽制で引っ込むテオではない。暗に嘘つき呼ばわりされたのは地味に傷付くが、真っ向から拒絶されたのではないならまだ対話の余地はある。──むしろ、エリスは対話を望んでいると判断するのが妥当だ。どちらかと言えば、軽く喧嘩を売られるような形ではあったけれども。
「へえ、なかなか詳しいじゃないか。ま、名家のお嬢さんなんだから、多少の猜疑心を持っておかないと悪い男に引っかかっちまうってのもあるんだろうがね。庶民のおれには共感しづらい感覚だよ」
「それをわかってくれているなら十分だよ。何にせよ、この会合がなければ私たちが知り合うことなんてなかっただろうし、出会いは大事にしたいよね。……できれば、ここでこれ以上の別れは経験したくないけれど」
ぽつりとこぼしたエリスの表情を、テオは横目で窺う。苦笑の形をとってはいたが、彼女の目は微塵も笑ってはいなかった。
エレーレイスのことを思っているのだろう、とテオは直感する。それゆえに、普段なら当意即妙に飛び出すはずの言葉が、一瞬喉の奥でつかえた。
昨晩確認していることでもあるが、エリスはエレーレイスに信頼を置いているようだった。でなければ、彼の部屋を夜分遅くに訪うことはあるまい。エレーレイスならば、自らの身を守ってくれる──そう、信じていたのだろうか。
結果として、エレーレイスはその死によってエリスを守った。刺客が何を勘違いしたかはわからないが、彼はエリスの代わりに殺害されたようなものだ。その事実が、エリスの心に深い影を落としていることは想像に難くない。
とはいえ、いつまでも気に病まれているのは困る。エリスがうじうじと過去を引きずるような人間には見えないが、早々に話題を変えるのが得策だろう。でなければ、せっかちな女主人から睨まれてしまう。
「たしかに、こんな機会でもなきゃアイルランドを訪れることはないもんな。永住の地には合わないが、短期間の滞在なら良い気分転換にもなりそうだ」
しんみりした空気は性に合わない。相手の弱みにつけ込むのも何となく気乗りせず、テオはぐるりと周囲を見回しながら話題を変えた。
じめじめとした空気感には慣れないし、一日中曇り空なのも気が滅入るが、自然豊かで風光明媚と言うべき景観が広がっていることは事実。特にこの古城は人里から離れており、周囲にあるものといったら湖か森、そして平原くらいのもの。俗世から開放された、静かな時間の流れを感じ取れる場所である。
エリスはすぐに微笑みを形作り、そうだね、とテオの言葉に同意する。手持ち無沙汰だったのか、彼女は髪の毛を緩く耳にかけた。
「私も、アイルランドを訪れるのはこれが初めて。雨とか霧ばっかりなのはイングランドも同じだけどね」
「あー、ロンドンは天気良い日の方が少ないって聞くもんなあ。おれにとっては晴れの日ってのが普通だから、いまいち想像がつかないけど」
「スペインはこっちよりも暖かいし、雨が降る日も少ないだろうからね。ちょっぴり羨ましいなあ。作物もよく育つだろうし、家畜だって上手く肥やせるでしょう? 認めるのは悲しいけど、イングランドはその辺り全然だから……。大陸の人を見ると、ついつい嫉妬しちゃうんだ。頑張って発展させようにも、農耕をするってなったら良い土壌や環境が前提になるもの」
エリスは目を伏せ、どこか寂しげに呟いた。子供は親を選べないというが、それは生まれ育った国も同様である。痩せた土地が多く気候にも恵まれないとなれば、食糧の自給もたかが知れている。
しかし、いくら嘆こうと現状が変わる訳ではない。エリスが努力してどうにかなる問題でない以上、愚痴をこぼしたところで意味はないのだ。何とも不憫な話だが、受け入れる他に術はない。
「うちのご主人様が男だったら、エスパーニャ暮らしもあり得たかもしれないけどなあ……こればっかりはどうしようもないな。おれとしては、あんたみたいな可愛い女の子と暮らせるならどこの国だろうと大歓迎だが」
「もう、おだてたって何も出ないよ。それに私、これでもイングランドが大好きだからね。不便なことがあっても、大切な故郷であることに変わりはないもの」
冗談っぽく肩を竦めてみせると、エリスはにこやかながら頭を振った。そのまま腰を落とすと、足下に咲いていた花をおもむろに手折る。
一体何を摘んだのか。純粋な好奇心からテオが目を遣った先には、黄色い
「テオ、カルヴァート家についてはどれくらい知ってる?」
唐突な問いかけに、テオは思わず顔を上げる。
既に立ち上がったエリスは、柔らかな微笑を浮かべてこちらを見ていた。質問の意図が掴めないながらも、テオは記憶を辿る。
「ええと……何でも、イングランドがその形をとる前から続く名家なんだろ? 何とか大王の時代には、そこそこの勢力を築いていたとか……」
「アルフレッド大王ね。まあ、たしかに、一氏族としての地位を確立したのはその頃からかな。でも、それよりも前にカルヴァート家の前身となる一族はブリテンへやって来たんだって」
テジェリア家に雇われてから日の浅いテオは、カルヴァート家について予習する間もなくアイルランド行きを余儀なくされた。旅の準備に急き立てられて、それどころではなかったのだ。
視線を泳がせるテオを見たエリスは、くすりと笑みをこぼしてから訂正した。本心ではどう思っているかわからないが、少なくともお咎めはなかった。
「私のご先祖様はもともと傭兵集団で、大陸から渡ってきたんだって。ブリテン島が、まだブリタンニアって呼ばれてた時代のことだって教えられたけど……その頃の文献って、全然残っていないじゃない? だから、詳細な年代はまちまちなんだ」
「でも、ブリタンニアっていったら、千年とか前の話だろ? もしもそれが本当なら、随分長くイングランドに根を張った一族ってことだよな。傭兵だったとはいえ、そこまで長居するものかね」
うーん、とテオは首をかしげる。エリスの前では口が裂けても言えないが、グレートブリテン島に興味がない身としてはどうしても共感できない。
しかし、エリスはテオには目もくれず、静かに遠くを見据えていた。ぎゅ、と菖蒲を持つ手が強く握られる。
「私は当時の人じゃないし、伝聞で知っただけだから、正確なところはわからないけど──カルヴァート家の祖はブリテンの大地を一目見た時に、自分たちの居場所はここしかないって直感したらしいよ。だから、どんな手段を使ってでもこの地を父祖の地にしようと思ったんだって。国を建てるでも、後にウェールズに追いやったブリトン人どもを使って勝手気ままに暮らすでもなく、ただイングランドに根を下ろし、新たな故郷とする。イングランドを守り、そこに生まれた国家を支えるのが、後にも先にもカルヴァート家なの」
「そりゃ情熱的だねえ。利潤に重きを置く傭兵の心をそこまで動かす何かが、イングランドにはあったのかね」
「どうだろう。でも、おじいさまも父上も、皆こう言うの。一目惚れだったんだ、って」
難儀だよねえ、と呟くエリスの顔からは、いつの間にか笑いが消えている。その横顔はあまりにも透明で、どことなく空虚だった。
「私は生まれついた頃からイングランドが祖国で、祖国を愛することが当たり前だったから、一目惚れっていうのがどういう感覚なのかわからない。でも、きっと大変なんだろうなってことは理解できるよ。一度目にしただけで、その対象のことで頭がいっぱいになって、ずっと思い煩っていなくちゃいけないなんて……とても苦しいことだろうし、日々を送る上で差し障りになるんだろうなって。できれば体験したくないなって思っちゃう」
「恋なんてのは
「テオは誰かを好きになったことがあるの?」
問いかけられ、テオは何度か目を瞬かせる。
こちらを覗き込んでくるエリスは、無邪気な顔をしている──ように、見えた。今まで彼女が浮かべていた表情と比較しての話だが。
テオは天を仰ぐ。鈍色の雲が、どんよりと立ちこめている。
「実はないんだな、これが。仕事やら何やらで忙しくて、そんな暇がない……って言うのは、言い訳に聞こえるかい?」
「ううん、そんなことない。……でも、こうなったら結局わからずじまいかな。良かったような、残念なような」
「おいおい、こんな早いうちから諦めてどうするんだい? この先、良い人が見つかるかもしれないじゃないか」
「あはは、そうだね、そうかもしれない」
エリスの笑い方は意外にも子供っぽかった。口元を隠すことなく、声を上げて笑う。今までの声なき微笑みは作り物めいた精巧さを伴っていたが、今の彼女は人間くさく、等身大の少女のように見えた。
「まあ、本音を言えば、今じゃなくても良いかなって思うよ。大事な会合の最中に心を乱すようなことがあったら、きっとろくなことにならないもの」
「そうだな、急がなくたって好機はいずれ訪れるさ。あんたは美人だから、好いてくれる相手はいくらでもいるだろうよ。状況が落ち着いたら、相応しいお相手を探せば良い」
「相応しいお相手、かあ……。エレーレイスさんの求婚は、結局断っちゃったけど」
ここに来て浮上したエレーレイスの名前に、テオは静かに目をすがめた。
たしかに、エリスはエレーレイスから求婚されていた。それが単なる好意から来るものではないと傍観者のテオは理解していたし、恐らくエリスも同様だったろう。あまりにも唐突過ぎたし、エリスも断っていたが、それで二人の関係が完結することはなかった。エリスはまず初めに頼る相手として、誰でもないエレーレイスを選んだのだから。
エリスはつとめて気丈に振る舞っている。一瞬でも親しくなった相手が、自分の選択した行動で亡くなったのだとしても、悲哀に飲まれることなく立っている。カルヴァート家の遺産を、そして自分の身を守るために。
その状況に──テオは、少し。ほんの少しだけ、違和感を覚えるのだ。
でき過ぎている、と。
「なあ、エリス」
呼び掛けると、彼女は、ん、と小さく喉を鳴らしながら向き直った。金色の髪の毛がさらりと揺れて、
なあに、とエリスが相槌を打つ。その仕草は、声色は、あくまでも健気でいじらしく善良な、
「エレーレイスのこと、どう思ってる?」
唾を飲み込み、決心して。テオは、いつになく硬い声音で問いかける。
エリスは控えめに息を飲んだ。視線を一度だけ落とし、唇を噛む。そうして数秒間、己の中の何かと葛藤する様子を見せてから、彼女は意を決したように目線を戻した。
「人間的に、嫌いな人じゃなかったよ。むしろ好ましいと思えた。だから、亡くなったってわかった時は、とても悲しかった」
「……そっか。なんか、悪いな。不躾に聞いて」
「ううん、気にしないで。いつまでも気に病んでいたらいけないって、私もわかっているから」
一目で空元気とわかる微笑を向けてから、エリスは足早にその場を離れていく。何かから逃げているような振る舞いだった。
何となく後を追う気にもなれず、テオは古城に消えるエリスの背中をぼんやりと眺めていた。しかしずっと直立不動というのも辛いもので、一人になったのを見計らってテオは伸びをする。
「……ん?」
ふと、視界の端に鮮やかな色彩が映る。
視線を移してみれば、そこには手折られた菖蒲が落ちていた。エリスが持っていたものだろうか。そういえば、立ち去る時は手にしていなかった気がする。
テオはしゃがみ込み、菖蒲を観察する。
つい先程手折られたそれは、ほんの少し
テオは背後を仰ぎ見る。当然のことながらエリスの姿は既になく、静寂と共に湿った空気が肌の表面に纏わり付くだけであった。
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