5

■アドラシオン・メサ・テジェリア


 運命という言葉が嫌いだ。

 全ての努力を、可能性を、まるで初めから無意味だったのだと突きつけるような、人の力では望む未来を掴み取ることなどできるはずもないのだと言うようなその言葉が、アドラシオンは嫌いで嫌いで堪らない。

 絶え間なく続く頭痛と眩暈、喉の奥から込み上げる吐き気と全身を包む悪寒。それらに晒されながらもどうにか平静を保ち続けていたが、そんな彼女を嘲笑うように先の単語が飛び出した。


「私ね──いつか、運命の人に出会いたいの」


 薄く頬を染めながらはにかむエリス。小娘一人が背負うには重すぎる遺産を独り占めしようとしながら、彼女は努力もせずに好い人を得たいという。

 ふざけるな、と怒鳴りたくなった。名家の生まれでありながらその責任を全うしようという気概がなく、尚且つ生家よりも私情を優先しようとする身勝手極まりない希望が気に食わない。エリスの物分かりさえ良ければ、こうも事態が拗れることはなかったはずだ。

 唇の端からこぼれ落ちそうな悪罵を、アドラシオンはどうにか堪える。エリスと二人きりならばどのように振る舞おうが損はないが、ここには他の参加者も同席しているのだ。テジェリア家の名代として、情けない姿を晒す訳にはいかない。


「……運命の人、だなんて。あなた、随分夢見がちなのね。少しは現実をご覧になったらどうかしら」


 苛立ちを押し込めながら、アドラシオンは冷笑する。自分がどれだけ勝手なことを口にしているのか、思い知れば良い──瞳をぎらつかせ、エリスが何らかの反応を示すのを待つ。

 しかし、相手はアドラシオンと舌戦になろうとも持ちこたえている程の手練れ。傷付いた素振りなど微塵もなく、エリスは呑気に笑う。


「嫌だな、まだそういう人はいないよ。あくまでも、これから出会えたら良いなって話をしているんじゃない」

「あなたはカルヴァート家がどうなっても構わないのね。もしかして、ここで滅んで欲しいとでも思っているのかしら」

「そんなことはないよ。実家だって、私にとっては大切。でもね、それだけじゃ張り合いがないでしょう? いつか、いつかね──私の人生を捧げても良いって思える人を、見付けたい。私は誰かを好きになったことなんてないから」

「恋愛結婚に興味がおありなの? 失礼は承知ですけれど、戯曲やお伽噺に毒され過ぎているのではないかしら。あなた、自分のことを悲劇の乙女だとでもお思い?」

「悲劇の乙女──かあ」


 アドラシオンの嫌味を受けたエリスは、暫し視線を上に遣る。そうして、目線を戻してからふるふると首を横に振った。


「ううん、私はそこまで酷い境遇に置かれてない。むしろ、そういう人の助けになりたいと思ってる。私は好きでこういうやり方を選んだし、自分の中で勝算があるけど……世の中には、望まないまま酷い目に遭って、自力じゃどうしようもない人もいるかもしれない。そういう人が生きることを諦めず、どんなに打ちのめされても立ち上がって前を向こうとするなら、私が力になりたい。世界中が敵に回ったって、私だけはあなたの味方なんだって、励ましてあげたいんだ」

「へえ、白馬の王子様にでもなるつもり?」


 ここで口を開いたのは、これまでずっと従者のように控えていたマイカだった。何故挑発するような言葉をかけたのかアドラシオンにはわからなかったが、ひとまずこの場はマイカに任せることとする。


「うーん、そうだね。一応乗馬は嗜んでるし、やろうと思えばできるよ? 白馬の王子様。王族じゃないから、白馬に乗ってるただの私になっちゃうけど」


 やはりエリスが動じることはなく、どことなくずれた返答を寄越してきた。そして、心底面白くないといった顔つきのマイカに表情だけの笑顔を見せる──きっとこれは威嚇だ。


「マイカさん、意外とありきたりなものの喩えをするんだね。もしかして、お伽噺とか好き? それとも、実際に憧れてる? 白馬の王子様に」

「君にわかるよう、簡単な表現をしただけだよ。まあ、君よりは様になるかもしれないね」

「えー、どうかな? だってマイカさん、私よりも弱いじゃない」


 マイカの表示が固まる。無表情のまま、その眼差しに憤怒の色が宿る。

 悔しいが、マイカがエリスに出し抜かれたのは事実である。あれはアドラシオンではなくレアードの命令だったので多少手抜きはしていたのかもしれないが、それでもマイカは標的を殺害できなかった。やろうと思えばできた、のではなく、撤退を余儀なくされたのだ。

 手練れの殺し屋と聞いていたが、過大評価だったのか──あるいはエリスが何枚も上手なのか。真実はわからないが、アドラシオンとしては一抹の不安を覚えずにいられない。テオはエリスの殺害に否定的だし、自分がやるなど冗談ではない。暗殺は専門家たるマイカに任せるしかないのだ。そのマイカが一度しくじったというのなら、焦燥感が募るのも道理である。

 静かに憤るマイカは、これ以上の会話を放棄してしまった。結局何がしたかったのかいまいちわからず、その上エリスを優位に立たせることとなったのは腹立たしい。これではこちらの足を引っ張るも同然ではないか。


「何も今すぐ探すって訳じゃないから、皆安心して。まずは遺産をどうするか、って話だからね」


 散々場を引っ掻き回したエリスは、けろりとした顔で宣う。どうせ誰にも渡す気はないのに、だ。

 これでは埒が空かない。いっそのことマイカが今すぐにエリスを殺害してくれれば、少しは胸もすくだろうか。先のやり取りで激昂した、ということにすれば良い。アドラシオンとしてはもう少し理知的な手段を取りたいが仕方ない。何もかも、分をわきまえないエリスが悪いのだ。


「ご歓談中悪いね、失礼するよ」


 顔をしかめながらエリスの抹殺について思案していたアドラシオンは、聞き慣れた調子の良い少年の声を耳に入れる。テオが戻ってきたのだ。

 彼にしては良い時に来てくれたと思う。先刻から、どうにも調子がおかしい。皆の前で醜態を晒す前に、早くあの薬湯を飲まなければ。大抵の体調不良はあれが何とかしてくれる。

 振り返ったアドラシオンは、初めてテオに笑みを向けた。大嫌いな女──義母気取りのセナイダの紹介によってやって来た者であろうとも、手柄を立てたのなら相応の扱いはしてやらなければならない。マイカを上手く使えなかったレアードとは違う。


「テオフィロ、ご苦労様でした。して、例のものは」

「……悪い、その……お嬢様の気に入ってる薬湯、見付けられなかった。もう全部使いきっちまったんじゃないか?」

「…………は?」


 前言は、思ってもいない速さで撤回されることとなった。アドラシオンの唇がひくひくと痙攣する。

 薬湯がない。テオはそう言ったが信じられなかった。たしかに一日に数度煎じて飲むこともあったが、念には念を入れて日数以上の数量を持ってきている。最後に確認した時も、まだ余裕があったはずだ。急に全てがなくなるなどあり得ない。

 アドラシオンは立ち上がり、有無を言わせることなくテオの頬を張った。乾いた音がその場に響き、参加者の視線が集中する。


「……ふざけたことを言わないで、テオフィロ。あの量を数日で使いきる訳がないでしょう。己の失態すら認められないなんて、あなたには失望したわ」


 声を圧し殺し、あくまで冷徹に言い放つ。本音を言えば、叫び出したい程に膓が煮えくり返っていたが──テジェリア家の名代という矜持が、すんでのところで思い止まらせた。

 いきなり頬をたれたテオは、痛みに顔を歪めることこそなかったが、須臾の間瞳に反抗的な色を宿した。しかし腐っても従者、すぐに眉尻を下げて申し訳なさそうな表情を作る。


「目的のものを見付けられなかったのは、悪いと思ってる。また後で、部屋を確認するよ。もしかしたらどこか見落としてたのかもしれない」

「後で? 私は今すぐに持ってくるよう言いつけたはず。あなたは主人の命令をないがしろにするつもりなのね」

「そういう訳じゃ……。でもさ、今は茶会じゃないか。わざわざ薬湯を持ってこなくたって、飲み物ならあるだろう? 飲み慣れたものの方が信用できるってのはわかるが、たまには別のものでも良いと思うがね。これじゃ、お呼ばれしたってのに面子が立たない」

「面子が立たないのは主催者の側でしょう? 少なくとも招かれた我々が気にすることではありません。ああ、あなたは私よりもイングランド人の肩を持つというのね」

「お嬢様、おれはそんなつもりじゃ、」

「うるさい!」


 テオの弁解を強引に遮り、勢いをつけてアドラシオンは机上の食器類を地面に振り落とす。隣のマイカがびくりと体を震わせたが、生憎彼女には他人を顧みる余裕などない。

 肩を怒らせ、再び荒い呼吸を繰り返しながら、アドラシオンは周囲の全てを睨み付ける。心臓は早鐘を打ち、外にまで響いてしまうのではないかとさえ錯覚させた。


「あなたは、いいえ、お前なんか連れてくるのではなかった! あの女の差し金など、考えるだけでもおぞましい! 私の意に反するのならここで舌でも噛み切って死ね! さもなくば火薬でも背負って私の敵を全て殺してからお前も死ね!」

「お、おい、何を言ってるんだ? まずは落ち着いて、それから話を……」

「話? 話ですって? そんなもの散々してきたじゃないの! ふいにしたのはお前よ、テオフィロ! あああ、何もかもが忌々しい! 不忠者どもめ、まとめて地獄に落ちてしまえ!」


 一度開いた唇は止まらない。胸の苦しみが増せば増すだけ、アドラシオンの呪詛は外界へと放たれる。最早、テオが薬湯を探し出せなかったことなど忘却していた。今はただ、目の前に見える全ての人が憎らしい。

 さすがにただ事ではないと判断したのか、テオがさっと顔色を変えてこちらに手を伸ばす。彼からしてみれば、単に相手の両肩を押さえようとしただけなのだが──それが、アドラシオンの癇に障った。


「触らないで、匹夫のくせに!」


 ぱし、とテオの手をはたく。唇からまろび出た声は、自分のものとは思えない程に甲高く、上ずっていた。

 速まる動悸を抑えるために歯を食い縛っていると、ぽかんと呆気にとられるテオの顔が見えた。嗚呼恨めしい。こいつは何も知らないのだ。あの女から、セナイダから、都合の良いことしか聞かされていないから。己の力で、何が正しいのかを見極めようともしない、愚かでつまらない平凡な男。それなのに何もかもわかりきったような顔をして、さも自分こそがまともなのだと言うように振る舞う、身の程を知らない凡人。ずっとずっと我慢してきたけれど、ここまで来たらもう見過ごしてはおけない。

 ぐるぐるぐるぐる、アドラシオンの脳内で思考が加速する。加速し過ぎて、彼女にも理解が及ばない。とにかくここにいる者たちは皆間違っていて、アンダルシアから来た愚昧な義母と同じ類いの人間なのだと自分に言い聞かせる。そうだ、ここで一番正しいのは自分だ。だからカルヴァート家の遺産を手に入れるべきなのも、このアドラシオン・メサ・テジェリアだ──。


「……?」


 うぞり。

 先程テオを拒絶した手に違和感を覚え、アドラシオンはひとつ瞬きする。何気なく、ほとんど反射的に、右手へと視線を落とす。

 掌いっぱいに、蛆虫が蠢いている。


「ああ──ああああっ……⁉️」


 悲鳴を上げ、アドラシオンは後退りする。うぞうぞと蠢動する蛆虫を払い落とそうと腕を振り上げ──腕いっぱいにも蛆虫がくっついていることに気付いて、さらに絶叫を重ねる。

 なんだ、これは。わからない、何故、何故、何故!

 皮膚の内側を、大量の蛆虫が這っている。ただくっついたのではなく、アドラシオンの中で増えているのだ。つまり奴らは自らの内側で湧き、皮膚を食い破って出てくる──内からこの虫たちを浄化しなければ、無限に湧き出てくるも同然だ。

 視界が歪む。虹色の粘液に浸かっているようだ。周囲の色という色が反転し、ぐにゃりぐにゃりと混じり合っていく。子供がこねくり回す顔料の中にいるみたいだ。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃと混ざる色彩、早く黒に収束してくれたらどんなに楽か。

 逃げようとしたら足がもつれ、アドラシオンは思い切り尻餅をついた。痛みなど二の次、歪む世界がひたすらに気持ち悪い。いつからだろうか、ジイイイイイイと耳鳴りが脳を焼いている。きっとこれは頭痛の延長だ。早く、早く薬湯を飲まなければ。いつも手元に置いていたあれはどこにある? ──それを従者に持ってこさせようとしたことなど、綺麗さっぱり忘れてアドラシオンは滅茶苦茶に両手を動かした。蛆虫が這う両手で、ここにあるはずのない特効薬を探す。


「──アドラシオン!」


 名前を呼ばれて、はたと顔を上げた。アドラシオン。そうだ、自分の名前だ。ここにいるのは自分だけではない。何をしていたかは忘れてしまったけれど──確か、誰かに呼ばれてここに来たのだった。何か、大切なことを決めるために。

 本当は、気持ち悪くて仕方なかったけれど。自分に──アドラシオンにとって大事な局面だとわかったから、恐る恐る顔を上げた。ここで逃げてはいけないのだと、内なる声が急き立てる。


「う、ぁ──」


 目。目目目目目目。

 最早風景など映さない極彩色の背景に、幾つもの目が浮かんでいる。その背景の一部がぐにゃりと歪んで、肉塊を継ぎはぎにして、どうにか手を形作ったような異物が、こちらに向かって差し出されている。

 指らしき部位から、どおろりと粘液が垂れる。この粘液が落下し、混じり、撹拌されてどろどろと今を構成している。甘く腐ったにおいが鼻腔を刺激し、口の中は酸の味でいっぱいになる。

 アドラシオンの黒目が、ぐるんと回る。そのまま揺れたのは視界だけではない。彼女の体ごと、仰向けに倒れる。

 自らの生み出した幻をと認識することも能わず、アドラシオンは意識を手放した。

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