一章「天使のお仕事」
第2話
「ハイ、発見! 奴は絶対に不幸」
ビシッと、力強く「奴」を指差して、フウが断言する。
「えー? そんなのわかんないよ」
そんなフウの言葉に抗議の声を上げるサン。
「いいや……わかるよ。一目瞭然だよ。職業だってわかるよ。間違いなく彼はプロの浪人生だよっ!」
「え~! わかんないよ~。ほら……まだ、アマチュアかもしれないし?」
「あっ……浪人生だっていうのは賛成なんだ」
「だってぇ……ねぇ?」
「うん……」
雲のベンチを後にしてから数分後、二人はとあるマンションの二階にあるベランダの手すりに腰掛けて、部屋の中を眺めていた。
その視界の先に在るのは、一人の若い男。
ビン底メガネにボサボサ頭。無精髭に合格の二文字の記された鉢巻。それはもう……浪人生を絵に描いたような風貌だった。
「ねー、サン。何? あれはキャラ作りかなんかなのかな? ステレオタイプにもほどがあるよっ!」
「ほら……きっと、あれだよっ! まず、形から見たいな……?」
「お~~」
ぽむっ。
なるほど合点がいった――そんな顔をしてフウは両手を打ち鳴らす。
しかし……
「なんか嫌だね……それ」
目を伏せて呟く。
「私も、ちょっと嫌かな……」
サンも少し引きつった笑顔を浮かべた。
「まー、あれだ。何はともあれ、まずは諜報活動。彼とシンクロしてみよう」
「うん」
フウはサンの返事を待って。サンは返事と共に。二人は意識を集中して心を男の下へと傾ける。
二人の心の中に、自分のものではない、もう一つの意識が広がってきた。
これは天使たちが天界の学校で習う技術の中でも最も初歩的なもの。心を繋いで、意識を共有する技術。心を共有することによって、共有した相手の考え、思っていることを感じ取り、自分の考えもある程度なら相手に送ることが出来る。
この技術で、今の自分の在る状況を考えさせて個人情報を引き出すことや、悪いことをしようとする者を思い止まらせることなども可能になる。
そして今、二人が男から引き出した個人情報は……名前――長谷部航。二十歳。県内の大学、私立浦川大学を目指し二浪中の浪人生。
「…………浦川大学目指して二浪っていうのが、酷く涙を誘うね」
悲しそうに、目を伏せてフウが言った。
「うん。確か浦川大学って県内で一番簡単に入れる大学だったよね? 掛け算、割り算が出来て、点線で書かれた英語を上からなぞれたら合格出来るようなレベルだよね?」
「たぶん、そのはずだけど……あ、やばい。僕……本当に泣きそう」
涙が零れないように、フウは空を仰ぐ。そんなフウの視界の中に広がった空は、少し滲んでいた。
「泣いちゃ駄目だよ。私たちがそんなんじゃ駄目! ほら、涙を拭いて、彼を幸せにして笑顔を見せてもらおう」
「う……うん。そうだね……あのビン底めがねに素敵な青空を映させてあげよう!」
目に滲んだ涙を手でゴシゴシと拭いながらフウは力強く答える。
「だね。いつもみたいに勝負しよう」
「うん。どっちがよりいっぱい幸せに出来るか勝負だ。じゃあ、取りあえずもっと近づいてみよう」
「うん」
サンの返事と共に、二人は互いの手を取って翼を広げた。
そして二人はベランダの窓をすり抜けて航の部屋へと入っていく。天使は普通の人間には姿は見えず、質量もないので二人はひとまず航の上に座って様子を見ることにした。フウは頭の上、サンは左肩の上に座っている。ちなみに天使の大きさは、ある程度の個人差もあるが大体十五センチくらい。
どうやら、航はキッチンで料理中のようだった。
とはいっても、炊飯ジャーでご飯を炊いているだけのご様子。
「よし、もう少しで炊ける。それまでのんびりお茶でも飲んでようか……」
言いながら、航は急須から湯飲みへとお茶を注ぐ。
「チャ~~ンスっ!」
その瞬間、航の肩の上でサンが笑顔を浮かべた。
「私からいくねっ。奥義! 茶柱全員起立!」
とぽとぽとぽ~。
サンの叫び声は航の耳に届くことなく、心和む優しい音にのってお茶が湯飲みへと注がれていく。
「えっ……?」
航は湯飲みに注がれたお茶を見て目を丸くした。
湯飲みの中で茶柱が立っている。
それはもう……これでもかというくらいに元気に直立していた。一つ二つではなく、ぱっと見で二十は超えている。
湯飲みの中でわずかに揺れながら立ち続ける二十を超える茶柱の群れ。それを見て航は思った。その姿はさながら、ドブや池に湧いたボウフラようだと……
「……お茶葉こんなに入っちゃって、茶漉しが壊れたのかな? 流石にこれは飲めないよ」
力なく、溜め息混じりに呟く。
「あ~れぇ~~? なんか、しょぼーんって感じだよ。むしろ悲しんでいるよ。カタストロフ? 悲劇的結末だよ!」
フウが航の頭の上から身を乗り出し、サンにニヤニヤと笑顔を向けた。
「ふ~~んっだ。ほら、次はフウくんの番!」
頬を大きく膨らませて、そっぽを向きながらサンが言う。
「よーっし。じゃあ、今日は僕が勝たせてもらっちゃうね」
「ふぅー。めんどくさいから、朝はぬるぬるたまごだけでいいや」
航は一人呟きながら、お茶葉だらけのお茶を流しに捨てると、生卵を求めて冷蔵庫に向かう。ちなみに「ぬるぬるたまご」とは俗に言う「たまごかけごはん」のことだ。なぜか長谷部家では昔から「ぬるぬるたまご」と呼ばれ、おかずの有り無しにかかわらず多くの場面で親しまれていた。
航は冷蔵庫から卵を取り出すと、すでに用意されていたお茶碗へと卵をぶつけた。
そして卵を割る……
――その瞬間、今度はフウが叫んだ。
「必殺っ!」
「えっ! 殺すの? 必ず殺しちゃうの?」
「いや……殺しはしないよ。んと……じゃあ、必笑顔! 卵、双子になぁーれっ!」
フウの声と同時に卵が割られ、茶碗の中へと吸い込まれていく。
そして、茶碗の中に現れたのは、黄身が二つある双子の卵。
「おっ……」
再び航は目を丸くする。
あっ……すごい。
――フウとサンが航と心を共有した部分。そこに想いが響いてくる。心躍るような温かな驚きの感情。
それは二人が与えたいと願った、小さいけど温かい、確かな幸せ。
フウは勝ち誇った笑顔をサンに向ける。そして返ってきたサンの表情もまた満面の笑み。
人に幸せを与えることによって、二人もまたそれ以上の幸せ貰った――はずだったのだが、何故か不意に二人の心の中を悲しみの想いが満たしていく。
その想いを確かめるために、二人は心のより多くを航に明け渡した。
航は何かを求めて辺りを見回している。
そして、響いてくる想い――誰もいない……
航は再び双子の卵に視線を戻す。そして大きく溜め息を吐いた。
航は思う。去年まで、いや今年の四月、ここに越してくるまでは辺りを見回せば、いつもそこには家族がいた。お人好しで、どこか抜けている母。元気だけが取り柄で、何かにつけて暴力を振るってくる姉。暇さえあれば自分の過去の栄華を語り出すじいちゃん。
今、自分の横に彼らがいれば、この双子の卵を中心にどれだけの幸せを得られただろうか?
でも……今は独り。ここには、今日こんなことがあったと伝える恋人も、昨日の出来事を語り合う友人もいない。
誰もいない……たった独りの自分には、双子の卵も何の意味もなさない。
語るべき相手のいない自分には、どんな出来事も意味をなさない。
想いを共有する相手のない自分には、その想いすらも意味をなさない……
航の瞳に映る、寄り添うように在る二つの黄身。航はそれにすら嫉妬を感じた。
だから……
醤油を入れて掻き混ぜる。
今、自分の周りにはそれをもったいないと止めてくれる家族はいない。
少し乱暴に掻き混ぜる。黄身と白身が完全に交じり合うまで必死に掻き混ぜた。
混ぜ終わると、その上からそのまま茶碗に半分くらいのご飯をよそう。
もう一度、ご飯も一緒に少しだけ掻き混ぜる。ご飯が少なめで、ぬるぬるな感じがちょうどいい。
そして出来上がった「ぬるぬるたまご」を航は口に流しこんだ。
おいしかった……やっぱり、「ぬるぬるたまご」はおいしかった。
その想いを誰かに伝えたかった……
母に「そんなにおいしいなら、もう料理はしないで、ご飯と生卵だけで十分だね」と、微笑んでほしかった。姉に「本当にうめぇ~な~」と、同意してほしかった。じいちゃんに「昔は卵自体が大変高価なもんだった」と、しみじみと語ってほしかった。友達に「ぬるぬるたまごってなんだよ。たまごかけごはんだろっ」と、ツッコミを入れてほしかった。
しかし、その願いは叶えられることはない。
航は残りの「ぬるぬるたまご」をほとんど味わうことなく口の中に詰め込んだ。そして湯飲みにお茶を注ぎ、お茶葉だらけのお茶を一気に飲み干す。
それは少し熱くて、とても苦かった。
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