第15話
やっとのことで、九十二階。
勇樹は歩く。上へ上へと向かって、歩き続ける。
確実に始めの頃よりスピードは上がっていた。
早く、少しでも早く目的地に辿り着きたかった。
頭の中で渦巻く迷いを取り去ってしまいたかった。
ピザを食べて、同僚と笑みを交わしながら楽しく仕事がしたかった。
幸せを感じたかった。
今の自分が幸せであることを感じたかった。それを確認しておきたかった。
これ以上迷うことがないように。これ以上思い出すことがないように。
自分は今幸せであり、より大きな幸せに向かって進んで行く途中であることを自分自身に言い聞かせておきたかった。
だから、さらにスピードを上げて進む。
肩で息をしながら、一段飛ばしで、上へと進んでいく。
しかし――九十五階を過ぎた頃、勇樹は不意にその足を止めた。
呼吸を整えながらも、キョロキョロと辺りを見回す。
何か、音が聞こえたような気がした。
少しだけ、ほんの少しだけ、一瞬だけだったが確かに聞こえた気がした。
目を閉じ、耳を澄ませて、呼吸を殺して、辺りの音に心の全てを傾ける。
……、………、………。
やっぱり聞こえた。
途切れ途切れでよくはわからなかったが、それは何かのメロディー。
勇樹は再び歩き出す。
その音は確かに上から聞こえてきた気がした。
しかし、それを目指し進むわけではない。目指す場所はただ一つ。
百二十階。そこに向かって勇樹は足を踏み出した。
約束された幸せに向かって歩き出しただけ……
――九十六階。
聞こえた。
まだはっきりと聞き取れたわけではない。
それでも確かに聞こえてきた。
しかし、勇樹はもうその音に心を傾けはしない。
ただ真っ直ぐに目指す先だけを見据えて、上へと進んでいく。
――九十七階。
さらにその音は大きくなってきた。
それでも先へと進む。
しかし、走ったりはしない。
逃げる必要はないのだから。
ただ……気にしなければいいだけ。
――九十八階。
不覚にも勇樹は、その足を止めてしまった。
その音ははっきりと勇樹の耳に届いてきた。
それは知っている歌だった。
それは聞こえるはずのない歌だった。
確か……百階にカラオケがあった気がする。百階から見渡す風景を自慢にうたったカラオケ店。
しかし、この歌は絶対にカラオケにあるはずがない。
なぜなら、この歌は勇樹の作った歌だったのだから。
作詞はもちろん、初めて作曲も自分でこなし、完成と同時に破り捨てた歌。
だからこの歌は、絶対にこんなところで聞こえてくるはずのない歌。
それでも、それは確かに聞こえてきた。
勇樹は目を閉じて、耳を手で力いっぱいに塞いで、うずくまる。もしかしたら叫んでいたかもしれない。
それでも、その歌は聞こえてきた。
「向上心を忘れるな!
今の自分に満足するな!
そんなことを言い聞かせられて
いつ、僕は幸せになればいい?
そこら中に幸せは転がっているのに
今の自分に満足出来れば
今の自分を好きになることが出来れば
ここは……ここだって楽園になるのに
どうしてわざわざ人と競争して
どうして人を傷つけてまで
上へ上へと進まなければいけない?
上に行って、上に行って
どこまで行ったら僕は幸せになればいい?
なんでここで止まっちゃいけない!
なんでここにずっといちゃいけない?
ここにだって、幸せは溢れているのに
こんなにも幸せに満ち溢れているのに
僕はここが大好きなのに……
向上心を忘れるな!
今の自分に満足するな!
そんなことを言い聞かせられて
いつ、僕は幸せになればいい?
たくさん勉強していい学校に行けば
本当に僕は幸せになれるの?
いい会社に行って、偉くなれば
そこで……本当に幸せになれるの?
どうしてわざわざ人と競争して
どうして人を押し退けてまで
上へ上へと進まなければいけない?
上に行って、上に行って
どこまで行ったら僕は幸せになっていい?
なんで今、楽しんじゃいけない!
なんでここで幸せになっちゃいけない?
ここにだって、幸せは溢れているのに
こんなにも幸せに満ち溢れているのに
僕はここで充分幸せなのに……
どうして僕の幸せを
僕が決めちゃいけない?
他人に僕の幸せを決められて
今ここにある幸せを否定されて
いったい僕はいつ幸せになればいい?
いったい僕はいつ幸せになっていい?」
涙が溢れてきた。
しかし、立ち上がる。
立ち上がって、勇樹は走り出した。
逃げたかった。
この歌から逃げたかった。
この歌を作ったときの想いを思い出してしまうのが怖かった。
だから……必死で走った。
――百二階。
もう、あの歌は聞こえてこない……
しかし、思い出してしまった。
あのときの想い。歌に込めた想い。歌に対する情熱。
そして……本当に欲しかったもの。一番求めていたもの。
それはそのときすでに手の中に在ったが、手放してしまったもの。
勇樹はそれを思い出したしまった。
それは大学三年の春。
勇樹は父に進路の相談をした。大学を卒業した後も、歌を続けていきたいと告げた。
父は真剣に話を聞いてくれた。
そして言った。
「人の手に握れるものは限られている。握った手では何もつかめない。お前には希望に開けた輝ける未来がある。しかし、その未来に進む扉の鍵を手にするには、今握っているものを手放さなければならない」
父は真剣に悩んで、本気で勇樹の幸せだけを考えてそう言ってくれた。
そして、父は自分の差し出すその鍵を勇樹が握ってくれること願っていた。
大好きな父の願いだった。中学生の頃、母を病気でなくし、それ以来ずっと二人で暮らしてきた唯一の肉親。仕事で急がしいはずだろうに、運動会も学芸会も合唱コンクールも授業参観も全て欠かさず来てくれた。
たった二人の家族でも、寂しいと感じたことなど一度もない。
本当に大好きだった父の、勇樹に向けられたたった一つだけの願い。
だから、勇樹は迷うことなく、その鍵を受け取った。
勇樹は考える。
今、自分の手の中には何が握られているのだろう。
今、手の中にあるもの。それは多くの人々が望み、しかし手に入れることは叶わないようなすばらしい未来。約束された幸せ。
それでもそれは、勇樹にとって望んだものではなく。与えられて仕方なく握り締めただけのもの。
本当に欲しかったもの。一番欲しかったもの。
それは以前、手の中に握り締めていたもの。すでに捨て去ってしまった幸せ。
どうしてだろう……
何がいけなかったのだろう……
どこで間違ってしまったのだろう……
気に入らない……
気に入らない……
気に入らない……
父が誰よりも自分の幸せを願ってくれていることは知っている。
父が本気で自分の幸せを願って言ってくれたことだとはわかっている。
だから、それでいいと思った。父の言う通りにしていれば幸せになれると思っていた。
いや……きっとなれるだろうと、今でも思う。
それでも、気に入らなかった……
「どうして……」
勇樹は呟く。
「どうして……俺のことを、俺のことを第一に考えて、俺の気に入らない、俺の望んでいない選択肢を選ばせる」
気に入らない……
自分のことを第一に考えてくれて……
気に入らない。だからこそ気に入らなかった。
どうして父はそんことばかり言うんだろう。
「俺は歌いたいのに……」
父はどうして笑顔で賛成してくれないのだろう。
歌いたいのに……
「なんで、父さんは俺のことを第一に考えてくれて、俺が悲しむ道を進ませようとする。きっと幸せになれるって……? どうして? 歌っていれば、今だって充分に、これ以上ないくらいに幸せでいられるのに!」
勇樹は叫んでいた。
それはあのときの想い。
大切なものを手放し、鍵を受け取ったときに、本当は言いたかった言葉だった。
頭がおかしくなりそうだった。
多くの想いが頭の中で膨れ上がって破裂してしまいそうだった。
そこに浮かび上がってくる一つの想い。
勇樹の行動の基準にして、この人生の中で一番思ってきた想い。
……めんどくさい。
もうこれ以上、考えるのはめんどくさい。
勇樹は心のそこからそう思う。
だから……
勇樹はバックの中から携帯電話を取り出して、掛けた。
そして、振り返る。振り返って、歩き出した。
来た道を戻るために、下に向かって歩き出す。
電話が繋がった。
「あ、父さん? 俺さ、会社辞めるは。やっぱり歌が歌いたいんだ。大丈夫、俺は幸せだから。父さんは幸せになるためだって言ったけどさ、俺わかったんだ。俺は幸せになる必要なんてなかったんだよ。だって、俺さ、父さんの子供として生まれてきて、この二十四年間、もうずっと幸せだったんだから」
そう言って、しばらく勇樹は電話に耳を傾けながら何も言わず、「うん」とだけ返事を返し続けていた。
五分くらい頷き続けた後、笑顔で「ありがとう」と言葉を紡ぎ、勇樹は電話を切った。
のんびりと、ゆっくり階段を下りていきながら大きく伸びをする。
そして少しの間、携帯電話の画面とにらめっこを続けると決意を固めて、通話ボタンを押した。
「あ……南? 俺、勇樹だけどさ。あ……うん。……久しぶり。えと、俺……やっぱさ、歌、歌いたいは」
電話をしながら勇樹は思う。
もうこれからは、めんどくさく考えるのは止めよう。
自分の思った通りに生きていこう。
今まで、自分は幸せだと思っていた。
でも……違った。自分で思っている以上にずっと、ずっと最高に幸せだった……
そしてきっと、それはこれからも変わらない。
だって、父も仲間も歌もサッカーもピザも、勇樹のほしいものはすべて勇樹の人生の中で、すでに揃っていたのだから。
勇樹はすでに、これ以上望むものがないくらい幸せだったのだから。
そして踊り場にある窓から空を仰ぐ。
今日初めて見上げたその空は美しかった。
そう……空は美しく、世界は幸せで満ち溢れていた。
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