第25話



 白い壁に囲まれた詩菜の世界。

 何事もなく、ただ繰り返されるだけの日々。

 それでも面白い映画を見て笑うこともあるし、小説読んで泣くことだってある。昨日は、杉原先生が詩を持ってきてくれたりもした。

 とはいっても、結局はその程度。代わり映えのない毎日。

 その日も詩菜は、今日という退屈な一日をどのように過ごそうかと考えながら、窓越しに空を眺めていた。

 空は灰色の雲に覆われ、今にも雨の降り出しそうな天気。

 詩菜が今まで目にした、本やテレビからの情報によると、普通の健康な人たちは雨の日は憂鬱な気分になるらしい。詳しい理由はわからないが、詩菜は雨が降ったりすると、外が歩きにくいからだと勝手に想像している。

 しかし、詩菜は外には出られない。

 だからだろうか……詩菜は雨の日が好きだった。

 湿った、重い空気。他の音を飲み込んでしまうよう激しくも単調な雨音による、擬似的な静寂。夜の暗さとは少し違った灰色がかった、世界の色。

 雨は、いつも変わらないただ繰り返されるだけの日々に、少しだけ彩を与えてくれる。

 だから、詩菜は雨の日が好きだった。

「雨、降らないかな……」

 声に出して願ってみる。

 声に出したところで願いなど届くことはない。それはわかっていたが、念のため。

「でも、雨が降るとみんなは憂鬱になっちゃうのか……」

 しかし、詩菜はそんなことは気にしないことにした。

 だってそれはとても贅沢なことだから。雨が降ると外が歩きにくい。傘を差したり、かっぱを着ないといけない。

 そんな理由で、いちいち憂鬱になるなんて、なんて贅沢なことだろう。

 詩菜は心からそう思う。

 詩菜は雨の中を走り回りたかった。長靴を履いて水溜りの上を走ってみたかった。透明なビニール傘を差して、傘に当たる雨音に耳を傾けながら雨の色に染まった世界を思う存分眺めてみたかった。

 窓の向こうに広がる世界を眺めながら、そんなことを考えていると、ノックの音共に声が聞こえた。

「詩菜ちゃん、入っていいかな?」

 それは、杉原先生の声。いつもは、ノックもせずに「詩菜ちゃん入るわよ」とだけ声を掛けて入ってくる。

 だから少し気になったが、とりあえず詩菜は返事をした。

「うん。いいよ」

「じゃ、入るね」

 そんな確認の言葉と共にドアが開かれ、杉原先生が入ってくる。

 別にいつもとなんら変わりのない白衣姿。今日は詩も持っていなさそうだし、詩菜の嫌いな注射を持っているわけでもない。だから、注射を打つために機嫌を損ねないよう、念のためノックをしたとかいうことでもなさそうだった。

「詩菜ちゃん。今日はね、お客様が来てくれたのよ」

「お客様……?」

 いったい、誰だろうと考えるが、すぐに思い当たった。そういえば、昨日杉原先生は詩を書いた奴を連れてこようか、みたいなことを言っていた。詩菜は冗談だと思って聞き流していたが本当に連れてきてしまったのかもしれない。

「ほら、優和くんこっち来て」

「あ、鈴木優和です。よろしく」

 少し気まずそうに、作り物の笑顔を浮かべて男が入ってくる。年齢は昨日杉原先生が言っていたように大学生くらいだろうか、女の子みたいな顔をした奴だった。

「ほら、詩菜ちゃんも自己紹介を」

「……渡辺詩菜です」

 杉原先生に促されて、仕方なく名前だけ名乗る。

「あ、私は仕事があるからもう行くね。じゃあ、後は若い者同士仲良くやってね」

 そんなことを言い残して杉原先生はさっさと部屋を後にしてしまう。そこに残されたのは初対面の詩菜と優和の二人だけ。

『………………』

 狭い病室に訪れた沈黙。

 その沈黙を先に破ったのは優和だった。

「あの、俺の詩、読んでくれたんだよね? どうだったかな?」

「それより、そこ」

 詩菜はベッドの横にあるイスを指差す。

「座っていいよ」

「ありがとう」

 そう言って、優和はイスに腰掛ける。それを確認してから、詩菜は話し出した。

「で、詩の話なんだけど、飛べない鳥っていう詩」

「うん」

「……本当に飛べない鳥はどうしたらいいの? 群れのみんな、家族も友達もみんな飛べるのに自分だけ飛ぶことが出来ない、欠陥品の鳥はどうしたらいいの?」

 別に上げ足を取って困らせたいわけではない。詩菜はただ純粋に答えが知りたかった。彼の出す答えに興味があった。

「それが鳥の話なら、生きていけないんじゃないかな。でも人間の話なら、気にしなければいいと思うんだ。他人には出来て自分には出来ないこと。そんなことを考える暇があったら、自分に出来ることを考えればいいと、俺は思うよ」

 それが返ってきた答え。もう少し着飾った、優しい答えを期待していた。気休め程度の綺麗ごとが返ってくるものだと思っていた。

 でも、返ってきたその答えは……

「私だって、飛びたいの……」

 詩菜は呟く。そして叫んだ。

「私は病気だから外には出れないし、学校だって行けない。でも、私は外を走ったりしたいし、学校にだって行ってみたい。あなたはそんなことを考えるなっていうの。私は病気だからそんなことを考えるのは無駄だっていうの?」

 それが無駄だということは、誰よりも詩菜自身が理解している。だから、いつも空想の世界、作り物の物語の中に救いを求めた。映画、ドラマ、アニメ、漫画、小説そういった物語を主人公と共感しているときだけ、詩菜は狭い世界から解き放たれ、広い世界を堪能することが出来た。それが逃避であることを詩菜は理解している。

 それでも、普通であることに恵まれた者にそんなことを言ってほしくはなかった。

「だって、無理なんでしょ? そんなこと考えてても悲しいだけだよ。だから、出来ないことを考えて悲しむくらいなら。もっとどうしたら楽しくなれるか考えたほうがいい気がしないかな?」

 確かにそれは正論かもしれない。

 それでも……

 詩菜は思う。

 彼は、何もわかってない。わかるわけがない。

 普通であることが当たり前で、あんな前向きな詩を書いている奴がわかるわけがない。

 だから、言葉にする。詩菜の世界に横たわるどうすることも出来ない真実を。

「私は楽しくなんてなれない。私は幸せにはなれない。どうせ飛べないのなら鳥に生まれればよかった。鳥だったらきっと、誰に迷惑をかけることもなく死ねたのに。私は人間だから、私は私を大切に思ってくれる人の足を引っ張って、迷惑をかけて生きながらえさせられる。私は私の幸せを願ってくれている人の幸せを奪ってまで、生きていたくない」

 それは今まで思いはしても、口にすることはなかった素直な思い。

 父も母も詩菜を心から想ってくれていた。詩菜を生かすために自分たちの全てを犠牲にして尽くしてくれた。入院費、手術費を稼ぐために仕事を増やし、二人目の子供を諦め、趣味などを楽しむ時間すら彼らにはないだろう。

 そんな両親を詩菜も愛していた。

 だからこそ、幸せになってほしかった。でも、自分がいる限り両親は幸せになれない。

 愛する両親の全てを奪うことでしか自分は生きられない。

 ……生きていたくなかった。そうまでして生きる価値などこの世界に見出すことは出来なかった。

「……君は優しくて、頭がよくて、だけどバカなんだね。君の話を聞く限りでは、君はさっさと幸せになるべきだと思うよ。それが君を大切に思ってくれている人たちの願いなんだから、その願いを叶えてあげればいいのに」

 そう言って、優和は笑った。嘲るような笑みではなく、優しい笑顔。それでも、詩菜はそれが気に食わない。

「自分を犠牲にしてまで、私のことなんかを優先しないでほしいの」

「どうして? それだけの価値があることだからやるんだ。何かを得るにはそれ相応の対価が必要なのは当たり前。俺はさっき、お腹がすいたから、コンビニでお金を払っておにぎりを食べてきた。確かに俺はお金を支払ったけど、それ以上の満足を得ることが出来たんだ。それと一緒のことだよ。だから、自分を犠牲にしてるわけじゃないと思う。ただ、君を幸せにしたいだけだ。だから君は幸せになればいい。それがその人たちの幸せにもなるはずだよ」

「何よ。偉そうに。何にも知らないくせに。私のことも、私の親のことも何も知らないくせに」

 詩菜がそう怒鳴ると、優和は少し考えるような表情を浮かべる。

 しかしすぐに笑顔を浮かべて、嬉しそうに言った。

「もしかして、俺のこと嫌い?」

「大っ嫌いよ」

「よし。じゃあ、俺が君を幸せにしてあげる」

「え?」

「だって、君は君の好きな人が自分のために犠牲になるのが嫌なんでしょ。じゃあ、代わりに俺が頑張るよ。俺なら犠牲になっても嫌じゃないでしょ。俺のこと嫌いなんだから」

「う……うん」

「じゃあ、決まりだ。これから毎日遊びに来るよ。絶対に俺が幸せにしてやる」

「え……え、ええ?」

「じゃあ、詩菜ちゃん明日からもよろしくね」

「い、いいよ。もう、来なくて」

「駄目。もう決めた」

「嫌よ。来ないでよ」


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