第26話



 それから毎日、優和は詩菜の世界に入り込んできた。

 どんなに詩菜が嫌がっても、怒っても、辛く当たっても、優和は楽しそうに笑顔を浮かべて優しくしてくれた。

 結局本当に来てほしくないと思っていたのは、始めの二日間ぐらいだけ。三日目からは少し、優和が来るのが楽しみになっていた。

 そして優和が詩菜の病室を訪れるようになってから約一週間。その日も詩菜は優和が来るのを心待ちにしていた。

 詩菜はベッドの上に座って、自分の膝の上の開いたハードカバーの本を眺めている。でも、読んではいない。

 優和を待っていた。

 部屋の壁に掛けられた時計を見上げる。

 今の時刻は十二時四十七分。もう昼食はとっくに済ませてあった。杉原先生と一緒にやって来た初日以外、優和は大抵一時ぐらいにやって来る。

 だからそろそろ来る頃だった。詩菜は時計と本とを交互に眺めながら、優和を待つ。

 十二時五十二分。詩菜の部屋にノックの音が響いた。

 その音に詩菜の視線はドアのほうに注がれる。でも返事はしない。

 もう一度、ノックをする音と共に――

「詩菜ちゃん遊びに来たよ。俺だけど入るね」

 少しだけ間を置いた後、ドアを開けて優和が入ってきた。

 詩菜は一所懸命嫌そうな表情を作ると、それを優和の方に向けて言う。

「勝手に入ってこないでよー。もう来なくていいって」

 本気で嫌そうな感じではなく、少しだけ嫌そうな感じ。そこがポイントだ。

 あまり強く言って、本当に来なくなってしまったら困るし、来ることを喜んでいることを知られるのも恥ずかしいという、詩菜の微妙な乙女心。

 だから加減が重要なのだ。

「ほら、そんなこと言わないで。今日は映画持ってきたから。一緒に見よう」

 そんな詩菜の気持ちに全く気付いていないであろう優和は、詩菜のご機嫌をとるような優しい口調で言った。

 優和は毎日、映画、漫画、音楽など、詩菜の病室で楽しめるものを持ってきてくれる。それも嬉しいし、優和が来てくれたこと自体がすごく嬉しい。でもそんな表情はほんのわずかでも見せるわけにはいかない。

「嫌。見ない」

 だから本当は見たいのだけれども、とりあえず一度は反対しておく。

「詩菜ちゃん映画好きじゃん。見ようよ。これは超感動するよ」

「その詩菜ちゃんっていうの止めてって言ってるでしょ。て、言うか勝手に入ってこないで。帰ってよ」

 さっきより少しだけ強めに言う。本当に詩菜ちゃんと呼ばれるのは嫌だったから。ちゃん付けで名前を呼ばれると、どうも遊んでいるというよりは面倒を見られているみたいな気がして、嫌だった。

「えー、だったらなんて呼べばいい? そして帰りはしないよ」

 優和に言われて考えてみる。

「別に呼び捨てでいいよ」

 それしか思いつかなかった。

「わかった。じゃあ、俺のことも名前で呼んでよ。ねえとかあのじゃなくて、優和って」

 確かにそう言われてみると、詩菜は優和の名前を呼んだことがない。いつも優和に話しかけるときは、ねえとかあのさと呼びかけていた気がした。

「わっかったわよ」

 さも、仕方なさそうに返事をする。

 でも本当は少し嬉しかったし、すごく恥ずかしかった。

「じゃ、詩菜。早く呼んでみて」

 優和に催促される。

 今始めて、優和に呼び捨てで名を呼ばれた。それは本当だったらすごく嬉しいことなのだが、今はそれどころではない。

 優和の名前を声に出して呼ばなければいけないのだ。

 しかも、優和はニコニコと笑顔を浮かべて、真っ直ぐにこちらを見つめている。

 胸が苦しい。鼓動が耳に痛い。

 それでも優和の名前を呼ばなければいけなかった。そして何よりも呼んでみたかった。

 だから服の胸元をぐっと握り締めながら……

「ゆ…優和」

 恐る恐る、詩菜は優和の名前を呼んだ。

「おおーーー。いいね。よし、それじゃあ、映画を見よう」

 元々笑顔だった優和の表情が、より幸せそうに歪む。

 優和のその幸せそうな表情を自分がさせたと思うとすごく嬉しかった。嬉しくて、ついつい笑顔を浮かべてしまいそうになる自分を必死で抑えながら、詩菜は尋ねる。

「ハッピーエンド?」

 念のため聞いておく。詩菜にとってハッピーエンドか否かはとても重要なことだった。

 詩菜はハッピーエンドの物語しか見ない。そもそもどうしてハッピーエンドではない物語がこの世に存在するのか、詩菜には理解出来なかった。

 人が想像した作り物の物語。それは作者が思うように物語を生み出す、作者こそが神の世界。それなのにどうしてわざわざ悲劇の物語を生み出すのだろう……それが詩菜にはわからない。

 そのほうが感動が与えられるから。そのほうが話が盛り上がるから。そのほうが面白いから。作者はそんなことを言うかもしれない。でもそんな理由で、物語の中とはいえ人を不幸にしてほしくなかった。

 詩菜は思う……

 この世界に本当に神がいるのなら、それでもこの世界が平等ではなくて、多くの悲しみが存在する理由。それは神もその作者と同じようなことを考えているからなのかもしれない。

 だから神もそんな理由で自分に悲劇の物語を演じさせているに違いない。

 そのほうが面白いから……そんなつまらない理由で。

「ねぇ、詩菜? 聞いてる? ハッピーエンドだから見よう」

「あ、うん。じゃあ……仕方ない。見てあげる」

 優和の言葉に、頭の中に渦巻くごちゃごちゃした考えを追い出して、詩菜は答える。

 せっかくの優和との楽しい時間をこんな悲しいことを考えながら過ごすのはもったいないと思ったから。

「よーし。じゃあ見よう」

 そう言いながら、DVDを入れると、優和はリモコンの再生ボタンを押した。

 ――そんなふうにして優和との楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。

 そして優和が帰った後、詩菜は一人、考える。

 楽しかった。優和と共に過ごす時間はとても楽しかった。

 それだけではない。幸せだった……

 今までも面白い映画や本を見ていれば楽しかったし、バラエティー番組やコメディー映画を見て笑うことだってあった。

 それでも自分が不幸であることには変わりはなかった。幸せにだけはなれなかった。

 しかし、今は幸せだった。生まれて初めて、幸せを感じていた。

 目を閉じて、瞼の奥に優和を思い描く。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 心臓が高鳴る。胸が熱くなる。心の中で幸せが溢れる。

 そして、詩菜は優和を想う。

 優和は詩菜がどんなに文句を言っても、怒っても、突き放しても来てくれた。

 いつも笑顔で真剣に真っ直ぐ、飾ることなく応えてくれた。いつも優しかった。

 初めて優和に会ってから、まだ一週間程度。それでも、出会ってからは優和のことばかり考えていた。

 今だって、明日が待ち遠しい。早く優和に会いたかった。

 ぽたん……涙が零れる。

「あ……」

 涙を流している――詩菜は涙が自分の手を濡らして、初めてその事実に気が付いた。

 一度その事実に気付いてしまうと、後はせきを切ったように次々と溢れ出してくる。

 でも……悲しいわけではなかった。

この胸の奥に初めて生まれた幸せという感情、それが溢れ出し涙に変わった。ただそれだけのこと。

 詩菜の胸の中に渦巻く不思議な想い。

 切なくて、それでいて幸せで、温かい……

 そんなふうに感じる理由。

 その想いに、詩菜はなんとなく心当たりがあった。

 映画や小説やアニメ。人の作り出した物語の中で当たり前のように語られ、一番大切にされているその想い。

「優和のことが好き……」

 言葉にして呟いてみる。

 きっと、そういうことなのだと思う。今自分の中にある感情は愛と呼ばれるものに違いない。

 今まで恋愛なんてしたことはなかったし、人を好きになったことなんて一度もない。

 それでもわかった。今、自分が優和を愛していることだけはハッキリとわかった。

 確信を持って詩菜はそう思う。

「ぅ…………」

 ハッキリと自分の想いを自覚すると、今度は急に恥ずかしくなってきた。

 明日、どうしよう……

 そんな考えが頭を過ぎる。

 いったい、どんなふうに優和と接していいのかわからない。

 心臓は痛いほどに高鳴っている。

 これでは明日、優和が来たとき、まともでいられる自信がない。

 そんなふうに優和のことを考えているだけで、彼への好意的な感情が溢れ出してきた。

 溢れかえるその想いは、後から後から湧き出してきりがない。

 ただじっとしているだけで、どうにかなってしまいそうだった。

「あぁ~、どうしよ~」

 そんなふうにして詩菜は残りの一日中、優和を思って悶え苦しんでいた。


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