第13話
六十九階を越え、七十階を目指しながら、勇樹は考える。
好きなこと……
大好きなこと……
楽しいこと……
物心付いた頃からずっと真面目に生きてきた。めんどくさいことを出来る限り避けるための一番簡単な手段が、それだった。
部活は中学ではほとんど活動のない英語部に所属し、高校は進学校で部活は強制でなかったため、どの部活にも所属していなかった。
だからといって、遊びほうけていたわけではない。ほとんど毎日、塾に行っていた。
中学のときは、いい高校に入るため。高校のときは、いい大学に入るため。
父に言われるがまま、勉強ばかりしていた。
だから、中学、高校時代にこれといって楽しかった思い出はない。
その努力は報われて勇樹は父の望む、日本で一、二を争う名門大学にストレートで合格した。
そして、大学に入学すると共に勇樹は一人暮らしを始めた。
そこで初めて、多くの楽しいものと出会った。
その中でも特に好きになったもの。
その一つはサッカーだった。
きっかけは一つのテレビゲーム。大学で出来た友人に進められて買った、実名選手の出るサッカーゲームだった。
そのゲームにはまるうちに勇樹はたくさんのサッカー選手の名前を覚えた。
そして実際のサッカーの試合もテレビで観戦するようになった。試合で自分がゲームで使っている選手が活躍しているのを見ると、とても嬉しかった。
大学二年生になるころには友達とチームを作り、フットサルを始めるくらいサッカーが好きになった。
それ以来、ずっと勇樹はサッカーが大好きだ。
今でも週末は海外のひいきのチームの試合を深夜に生放送で見ているし、サッカーにはまるきっかけとなったゲームは新しいバージョンが出るたびに、予約して買っている。
しかし勇樹には、そんなサッカーよりもっと好きなものが一つだけあった。
それもやっぱり、大学に入って出会ったもの。
それは歌……
勇樹は大学でバンドを組み、そこでボーカルを担当していた。
バンドの名前はラジカルドリーマーズ。いちおうはロックバンドということだったが、今思うとロックよりバラードを歌うことのほうが多かった気がする。
歌を始めたきっかけ――それは始めて行ったカラオケだった。
二年の夏、フットサルの試合があった。練習試合だったが勇樹のチームは相手チームに三戦三勝と圧勝した。
そしてその後、打ち上げということでメンバーのみんなでカラオケに行くことになった。
それは勇樹にとって始めてのカラオケだった。
しかしカラオケこそ初めてだったが、それなりに音楽は聴くほうだったし、高校時代は苦手だった日本史の成績が9だった以外はすべて10。もちろん音楽も10で、歌にもそれなりの自信はあった。
そこで勇樹は初めて歌うことの楽しさを知った。
おもいっきり歌った。心を乗せて想いのままに本気で歌った。
それはとても気持ちよかったし、とても楽しかった。
そして浴びせられる、友からの賞賛。
嬉しかった……
自分がこんなにも楽しめて、友達もとても喜んでくれた。それはとてもすばらしくて、最高に嬉しいことだった。
そのカラオケの後、フットサルチームではゴレイロをやっていた南にバンドをやってみないかと誘われる。
南は高校時代に地元でバンドをやっていたらく、勇樹の歌声を聞き、またやってみたくなったと言っていた。
勇樹は喜んでその誘いに乗った。
その後、約一ヶ月で同じ大学からドラムとギターの担当を探し、ベースでリーダーの南、ボーカルの勇樹との四人でラジカルドリーマーズは結成した。
それから勇樹は残りの大学の三年間、歌ばかり歌っていた。
もちろん、時々はサッカーもしたし、勉強だってしっかりしていた。
とても充実した、最高に楽しい三年間だった。
その三年間の間で、インディーズで二枚CDも出したし、何度かインディーズバンドを取り上げたテレビに出たこともあった。ライブは数え切れないほどこなし、実現には至らなかったが一度はメジャーデビューの話だってあった。
しかし、すべてが順風満帆だったわけではない。
進路の問題があった。
勇樹以外の三人は本気でメジャーデビューを夢見ていた。
しかし勇樹には決められた進路があった。それはこの世界に産声を上げたそのときから用意されていた道。
父も母もその道を真っ直ぐに進んでいけば幸せになれると言っていた。そして、それを望んでいた。
勇樹自身も、それに異論などなかった。二人は誰よりも自分を愛し、大切にしてくれていた。
だから――愛する両親の望むままにずっと、敷かれたレールの上を真っ直ぐに進んできた。
それで幸せになれると思っていたし、その先にある幸せを夢見てもいた。
しかし、勇樹はその幸せへと続くと信じていた道の途中で、幸せになってしまった。
そう、十分すぎるくらい幸せだった。大好きなメンバーと大好きな歌を歌って、みんなが喜んでくれた。感動して泣いてくれる人だっていた。
歌だけではない、大好きなサッカーだって出来た。友達と外でフットサルをして、家ではテレビゲームで熱くなった。
最高に楽しかった。これ以上にないくらいに幸せで満たされていた。
それでも勇樹には進むべき道があった。その道を進むことを望む人がいた。
だからここで止まってしまうわけにはいかなかった。
仮に、音楽の道に進んだとして、成功するとは限らない。このままの幸せが続くとは限らない。音楽で成功することがとても難しいことは分かっている。
だが、用意された道には成功が約束されていた。幸せが保証されていた。
なにより、大好きな両親を裏切りたくなかった。
だから、勇樹は大学を卒業した後も音楽を続ける気はないと、メンバーに告げた。
それが大学三年の春のこと。
そして、三年の冬。この頃には同級生の中にはすでに進路が決まっているものもいた。しかしラジカルドリーマーズのメンバーは、勇樹以外の三人は就職活動すらしていなかった。
そして、大学の卒業をもって、ラジカルドリーマーズは解散する。
結局、そのときまで三人の進路は決まっていなかった。
勇樹はその後、三人の誰とも連絡は取っていないので彼らがどうなったかは知らない。カラオケも一度も行っていないし、歌も歌ってはいない。
大学卒業から二年、こうして遠藤勇樹は階段を上っていた。
現在――八十四階。
未だ、約束された幸せへと向かう道の途中。
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