第5話
散歩を始めてから約二十分、航は交番の前で足を止めた。
手をポケットに入れて中の五千円札を確認し、交番の中へと向かう。
「おおっ! わ~た~る~~!」
航が交番の中に入ろうとした――そのとき、遠くのほうから航を呼ぶ叫び声が聞こえた。
「えっ?」
聞き覚えのある声を受けて、航は声のしたほうに視線をやる。
「おい、航。こんなとこで何やってんだー? 自首かぁ?」
そこにはスポーツバッグを右肩にかけて走ってくる航の姉、海の姿が在った。
「姉ちゃんこそ、何でこんな所に?」
航の言葉を受けて、海の眉が中央による。その明らかに怒りを表す表情を目にして、航は思い出した。「私の質問に質問で返すな。私が質問したら、まず答えろ」そう言われて何度殴られたことか……
だから航は急いで言い直す。
「……っと、散歩してて、五千円を拾ったから、交番に届けようかと思って。それで、姉ちゃんはどうしてここに?」
「ん? 私はちょっと最近、絵がスランプでな。描く気がしなくて。暇だったから遊びに来てやった。嬉しいだろ? ま、そんな訳だから、航の家に行くぞ。早く案内しろ」
絵を描く気がしない。その言葉に航は驚いた。
海は趣味と仕事の間くらいの感覚で絵を描いている。いつも絵が描き終わると自慢げに航に見せてくれた。子供の頃からずっと絵が好きでいつも絵を描いていた。その姉が絵を描く気がしない……
航には信じられなかった。
「ほら、なーに、ボーーッとしてんだ。早く家に案内しろよ」
「あ、うん」
姉に怒鳴られて、ほとんど条件反射で返事を返した後、航はここに来た本来の目的を思い出す。
「あっ、待って。五千円を届けないと」
「めんどい。五千円くらい貰っちまえよ」
姉はそんなことを口にするが、ゲームを買いたい子供が泣いている可能性もあるので、そういうわけにもいかない。
「そんなの駄目だよ。ダッシュで届けてくるから」
「じゃ、三分だけ待ってやるから、さっさと言って来い」
「うん。すぐだから待ってて」
そう口にした航の表情は笑顔だった。満面の笑みではない、幸せが滲むような穏やかで優しい笑顔。
嬉しかった。幸せだった。「待ってて」その言葉を口にしたとき、温かな想いが溢れた。
自分を待っていてくれる人がいる。それが嬉しかった。
理由なんて分からない。でも、その事実が航にはとても大きな喜びに感じられた。
――それから、約十分後。
「ごめん。思いのほか時間がかかった」
交番から出てきて、申し訳なさそうに言う航。
それを鬼神のような怒りに満ちた表情で見据える海。
「九分もオーバーだ」
正確には十二分後だったらしい。
「なんかさ、名前とか書かされててさ、意外と時間がかかっちゃって」
「ふぅーー」
わざとらしい大きな溜め息と共に、海の顔から怒りの表情が消えていく。
「罰だ。航が持て」
少しだけ怒ったような、むすっとした表情を浮かべて言う海。
「うん」
素直に頷いて、航は海からバッグを受け取った。ひょいと手渡されたバッグを持った途端、肩が抜けるような重みが航を襲う。
「うあっ……重っ!」
よろめきながら呻き声を上げた。
「ずいぶん重いね。何が入ってるの?」
航は言いながら、持った感じ八キロくらいあるかな? などと考える。
「いろいろ入ってる」
「いろいろって?」
「めんどくさいから、いろいろでいいんだよ。ほら行くぞ」
言って、海はスタスタと少し早足で歩き出した。
「姉ちゃん。そっちじゃなくて、こっち」
航は自分の家がある方向を指差す。
海はむっとした表情を浮かべて振り返り、航の指差したほうへと進路を変えた。
航は駆け足で海に追いつき、横に並ぶ。
そして笑顔で話しかけた。
「そういえばさーー。今日、すんごいことがあったんだよ」
「ん? 何があったんだ?」
大して関心もなさそうな、抑揚のない生返事。でも、いつものことなので航は気にしないで続ける。
「朝飯のときにお茶を飲もうとしたら、茶漉しが壊れててさ。いっぱいお茶葉が入っちゃってね」
「うん」
やっぱり、適当な相槌。
「なんと! その茶柱が全部立ってたんだ。二十本ぐらいみんな立ってて壮観だったよ。ちょっとボウフラみたいだったし、飲んだらすごく苦かったけどね」
じとーっと、嘘吐きを見る目を航に向ける海。
「いや、本当だよ。嘘じゃないよ」
「一本ならまだしも、二十本とか、流石に盛りすぎだろ」
「本当だって。後、ぬるぬるたまごを食べようとしたら、卵も双子だった」
「よし。卵が双子だったことはこの際、無条件で信じてやろう。だから茶柱が二十本立ったという嘘は、嘘だったと白状しろ。今なら姉ちゃん、殴んないで許してやるぞ」
「本当に本当だって!」
「もしそれが本当だったら、今日すごくいいことが起きるはずだぞ……いや、待てよ。私が遊びに来たことが航にとってはすごくいいことであるからして……んむ。そう考えると、茶柱二十本もあながち嘘とは断言できないか?」
――と、そんなことを話していた二人は映画館の前を通る。
そこで航は足を止めた。
「どうした?」
航の横を歩いていた海も足を止め、尋ねる。
「ほら、この映画」
言いながら航は映画館のほうを指差した。
「あー、これな。今、流行ってるらしいな」
航は映画館の入り口を見つめていた。ちょうど映画が終わったところなのか、映画館からはぞろぞろと多くの人が出てきているところだった。
笑顔な人。目を真っ赤にした人。いまだに泣いている人。たくさんの人が映画館から出てきていた。
嬉しかった。そんな人たちの表情を見るのが何だか誇らしかった。「どうだった? 感動したでしょ。僕たちは三年も前からこの映画が大好きだったんだ」と、そんなふうに一人一人に自慢したいくらいの気分。
交番に向かうときに通ったときは泣きそうなくらいに寂しかったのに、今は泣きそうなくらい幸せだった。
だから、航は言う。
「見ていかない?」
「航の奢りか?」
「残念だけど、今、財布持ってない」
「だから五千円くらい貰っちゃえばよかったのに。まぁ、仕方ない。ここはお姉様が奢って差し上げよう。超感謝しろよ」
「うん。超感謝する。ありがとう」
言って、航は空を見上げた。何故か急に空が見たくてたまらなくなったから。
航の瞳に映る青い空。
綺麗だった。信じられないくらい綺麗だった。
自然と笑みがこぼれる。笑い出したいくらいだった。何だかよくわからないが、とにかく空を見上げているだけでどんどんと幸せが溢れてくるような気がした。
「航! 何してんだ? 映画見てくんだろ?」
映画券売り場の前で海が叫んでいる。
「あ、ごめん。空があんまり綺麗だったから見とれてた」
「うん……?」
海も空を見上げた。普通の人が見上げれば、それはいつもとなんら変わりのないであろうただの青い空。
「…………確かに、綺麗だな。今度は青い空の絵でも描いてみるかな。なんか久しぶりにいい絵が描けそうな気がしてきた。でもまぁ、取り合えず今は映画を見るぞ」
そう言った、海の顔からも笑みが溢れる。
「うん。姉ちゃん、来てくれてありがとうね」
「ああ、感謝しろ」
二人は互いに微笑みあいながら、映画館の中へと向かっていく。二人横に並んで。
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