第3話


「幸せって、難しい……」

 フウが力なく呟く。

「私たち、ちゃんと喜ばせてあげたのにね」

「もう駄目だよ。あいつ、完全に不幸が染み付いちゃってる。どんな所からだって、器用に不幸を見つけてしまう……」

「違う……違うよ。寂しいんだよ。私だって、フウくんが一緒にいてくれなかったら、独りだったら、きっと空も綺麗だなんて感じられない。どんな幸せだって幸せだと感じられないと思うの。だから……」

「ぬぅ~~うっ! じゃあ、あれだ! 誰か一緒に幸せを感じてくれる人を連れてこれば解決だね」

「うん!」

「でも、見習いの僕たちじゃあ、そんなのは無理だよね……」

「無理だね~。どうしよっか?」

「近くにお友達のお家でもあれば、そのお友達に航と遊びたいって思わせるくらいなら出来るんだけど。親友の優和君ってのは上京しちゃってるようだし、どうやらこの近くにお友達はいないみたいだね……」

「あっ、そうだ。お散歩に行こう。天気もいいし、とってもお散歩日和。綺麗な青い空を眺めていれば元気も出るだろうし、お外なら出会いも転がっているかもだよ」

「う~ん……それしかないかのな? うん。散歩に行けば、たぶん……なんとかなる」

「うん。なんとかなるよっ! きっと」

 サンは嬉しそうに微笑んだ。

 そして、二人は思う。心の中で強く、高らかに。

 散歩に行きたい……散歩に行きたい……心の中をその想いでいっぱいに満たす。その想いは二人の心から溢れ、次第に航の心に染み渡っていく。

「はぁー、なんかもう……勉強って感じじゃなくなっちゃったな」

 航が溜め息と共に溢す。

 散歩にでも行こうかな……ふと、そんな考えが航の頭を過ぎった。

「散歩か……たまにはいいかもしれないな」

 考えてみると、航にとって散歩はほとんど初めての体験だった。実家でもペットは飼っていなかったし、健康のためや、景色を楽しむためなどという理由で、明確な目的もなく外を歩くなどという行為は行ったことがない。

 それなのにどうして急に散歩しようなどと思ったのだろうかと、自分の考えに疑問を感じながらも航は軽く身だしなみを整えて、外に出た。もちろん鉢巻は取ったし、無精髭も剃った。

 外に出ると、まず空を見上げながら一度大きく伸びをする。

 航の瞳に映る青い空……しかし、その空を見ても航は何も感じない。少しも綺麗だとは思わないし、そこに幸せを見出すことも出来ない。ただ……少し眩しいなと、そんなことを考えていた。

「あ~~ぁ、なんか僕まで鬱になってきたよ」

 フウが溜め息混じりに溢す。

 ――と。

「なぁ~~に、してんのっ?」

 不意にかけられた言葉。それは航にではなく、フウとサンに向けられたもの。

 二人が声のした方へと振り返ってみると、そこには一人の悪魔(見習い)の姿があった。自称、悪魔界のサラブレッド、リース。二人のお友達だ。

 黒くて小さなコウモリの羽をパタパタと羽ばたかせ、先っちょに矢印みたいなのがついた黒いしっぽを左右に大きく振りながら飛んでいる。

「うん? こいつをどうやって幸せにしようか試行錯誤中」

 言いながら、フウは航の頭を両手でぽんぽんと叩いた。

「お仕事中か~。じゃあ、俺様も一緒にお仕事してい~い?」

 航の頭の上、フウの隣に無理やり座りながら、リースは笑顔で言う。

「だ~め~~! 悪魔のお仕事は人を不幸にすることでしょ。もう航は十分不幸なの。リースのお仕事はどっか違うところでやって!」

 下からサンがリースのしっぽを引っ張りながら言った。

「えー。違うよ。悪魔は人を不幸にするのが目的じゃないよ。悪魔のお仕事は人に幸せを気付かせること。馬鹿な人間共は今、自分たちがどれだけ幸せな境遇にあるのかも考えないで、不幸だ不幸だ言っているから、俺様たち悪魔が本当の不幸って奴を体験させてあげて、今まで自分たちがどれだけ幸せだったかを気付かせてやるわけだ。だから、悪魔も幸せにするんだよ」

「でも、一回不幸にするんじゃん」

「だから、それは幸せにするための手段であって……んと、何て言うか、幸せになるためのスパイス? まぁ、結局は幸せになるから問題ないんだよ。人間だって終わりよければすべてよしって言ってるし。それに大体はさ、天使が人間をほいほい幸せにするから幸せが当たり前になって、幸せを幸せと感じなくなるんだぞ。困ったもんだ」

 そう言って、リースは腕を組みながら口を大きく膨らませると、いかにも困ったという表情を浮かべる。

「フウく~~ん。リースがあんなこと言ってるよ。フウくんも何とか言ってやってよう」

「うーーん? いいんじゃないかな。僕たちのやり方では幸せにできなかったわけだし」

「おお! やっぱ、フウは話のわかるいい天使だなっ」

 リースは満面の笑みを浮かべて、フウの背中をバシバシと叩きながら言った。

「えー。でも……」

 だけどサンはご不満のご様子。

「それにほら、リースだし。きっと、航を幸せにしてくれるよ」

 やるぞーと、一人盛り上がっているリースの横でフウが小さく呟く。

「まぁ、確かにリースだもんね」

 サンも声を潜めて頷いた。

「ん? なんか言ったか?」

『ううん。何にも』

 二人はそろって首を振る。

「ほら、お仕事しないの?」

 サンがリースを急かす。

「す~る~よ~。お仕事しちゃうよ。不幸にしちゃうんだよ~」

 言いながら、えへへ~と、リースは幸せそうに笑った。

「なぁ~にをしようかなぁ~。転ばせようかな? 側溝に足を突っ込ませちゃおうかな? あー、上から鳥の糞が落ちてくるのも切なくて素敵だなぁ」

 頭を左右に大きく揺らしながら楽しそうに考えているリース。

「ねぇ! フウは何がいい?」

 一度だけ羽を羽ばたかせ、フウの方に全身を向けると笑顔で問う。

「何でもいいよ」

「そういうのが一番困るんだよな~。サンは何がいい?」

 今度はしっぽを航の髪の毛に絡ませて、ぶら下がりながらサンに尋ねる。

「うんこは嫌だな。私たちにかかっちゃうかもしんないし」

「あー。確かにそれは嫌だね。じゃあ、転ばせちゃおう」

 そう言うと、リースは自分の胸の辺りで手を構えて力を込める。

そして、叫んだ。

「うーんにゃぁぁーーー」

 リースの不思議な叫び声と共に、航の足元に少し大きめの石ころが現れる。

 航はそれに気付くことなく、期待通り石ころに躓いて転んだ。

 三人はそれぞれの羽を広げ、空中からその様子を眺めていた。

「痛てっ……あっ……」

 航が転んで手を突いた先、そこに五千円札が落ちていた。

 航はキョロキョロと辺りを見回す。そして自分の周りに誰もいないことを確認すると、五千円札を拾いながら立ち上がった。

「やっぱり、リースはすごいねー」

 立ち上がった航の肩、再び定位置に戻ってサンは笑顔で言う。

「うん。リースは百発百中で人を幸せにしてくれる」

 航の頭の上、フウも笑顔でリースに語りかけた。

「けっ。どうせ俺様は人を不幸に出来ない、へっぽこ悪魔ですよーーだ」

 そう言って、リースは二人の視線から逃れるように明後日の方向に顔を向ける。

 いつもそうだった。二人の天使と一人の悪魔。フウとサンとリースの三人の前では当たり前になった日常。

 リースは人を不幸にしようとして、二人の天使以上に幸せにしてしまう。以前、わざと躓かせて、急に飛び出してきた車から命を救ったこともあったほどだ。

「むぅーーーーーーーーー!」

 航の頭の上で、リースが地団太を踏んでいる。

「そんなに悔しがることはないよ。リースは転ばせて、しっかり不幸にしたって。航は痛っ……て言ってたもん。だから、不幸になった後、五千円を見つけて幸せになったんだよ。これは悪魔冥利に尽きる展開なんじゃない?」

「おーー。言われてみれば確かに。やっぱ、フウは良いことを言うな。天使にしておくのはもったいない感じだ」

 フウの言葉でリースに笑顔が戻る。

 そんな天使と悪魔たちのやりとりをよそに航は五千円札を睨み付け、悩んでいた。

 道端で拾った五千円札。それを手に、航の心の中では様々な想いが渦巻いていた。その中で一番強く、大きな想いが三人の心に溢れてくる。

 どうしよう……

 航は悩んでいた。この五千円札をどうしようか。警察に届けるべきか、否か。

 多くの人が財布に入っていない裸のお札など、そのまま自分のものにしてしまうであろうことは航にもわかってはいた。

 しかし、普通の人とは違い航は想像してしまう。この五千円札を落としたのは少年。一月千円の小遣いをお菓子も買わず必死でためたもので、やっと貯まったそのお金で五ヶ月も前からずっと欲しかったゲームを買いに行く途中で落としたのかもしれない。ゲームを手に嬉しそうにレジに並ぶ少年の姿も想像する。そして、レジで五千円を無くしたことに気付いて絶望する姿まで……

「警察に届けるか……」

 航は思う。ちょうどよかったかもしれない。理由が出来た。目的地が生まれた。

 元々、自分には目的地も出発地点も自宅の散歩などという小洒落た行為など似合わない。だから……ちょうどよかった。誰かが、自分が散歩をしたことで幸せになれるのなら、それだけで散歩をした意味はあった。

「いい人だね?」

 航の肩の上で呟いたサンのその言葉は、なぜか疑問形。

「うーーん。俺様的にはいい人っていうよりは、マイナス思考って感じかなぁ。あっ、そうだ。どうせだし、ちょっと誘惑してみようか」

 言いながら、リースは航と想いを共有させて思う。その五千円札は必要だ。役に立つ。この五千円で何を買おうか……?

「あー、でも五千円あれば漫画が十冊くらい買えるなー」

 そう口にしながら、航は考える。五千円あれば……ちょうど今欲しかった漫画が全部集められる。確か一冊、五百円くらいで九巻が今月出たばかりなはずだった。

 そう考えると、貰ってしまうのもありかもしれない。

「あっ! バカ。リース、誘惑なんてしちゃだめー」

 言って、サンはまたリースのしっぽを引っ張る。

「サン。僕たちも」

「うん」

 サンは返事を返して、フウはサンの返事を待って、二人で強く思う。

 ……五千円は交番に届けよう!

 航の心の中で想いと想いとがぶつかり合う。それは善と悪の戦い。

 航は目を閉じて心の中の戦いに集中する。

 目を閉じた先……黒いスクリーンの中に悪魔と天使がいた。二人の天使と一人の悪魔。

 自分の心の中に悪魔より天使が多くいたことが、航は少し嬉しかった。

「裸の五千円なんて今の時代、誰が交番に届けるんだよ? どうせ落とし主なんて見つかんないし、交番の人が面倒くさそうに、嫌な顔するのがおちだぜ。貰っちまおうよ」

「そんなことないよー。今頃、子供が交番で泣いているかもしれないよっ」

「それに、五千円を貰って罪悪感に苛まれるより、届けて正しいことをした充実感に満たされる方がいいに決まってる」

 そんなふうに航の頭の中で、天使と悪魔が口論を繰り広げていた。

 航は考える。いや、考えることもなく答えは出ていた。五千円は交番に届けよう。貰ってしまおうなんて考えてしまったことじたいどうかしていた。

「駄目だぁぁーー。交番なんかに届けては駄目! ぬぅ、こうなったら力ずくでも。うにゃぁー」

 気合一発。叫び声と共に悪魔の手の中に自分の背丈くらいある鎌が現れる。

「そっちがその気なら仕方がない……神は幸せを享受するために不幸を与えられた。それと同様に平和を享受するために戦いもまた与えられた。生きることは戦い。何かを食さねば生きていくことが出来ない以上、生きることは奪うこと。だから僕は戦うことから逃げはしない。彼の幸せのためになら……僕は戦える!」

 悲しそうにそう呟いた天使の手の中に、二丁のマシンガンが現れる。そして天使はその二丁のマシンガンを悪魔に向けて構えた。

 その光景を見て、航は思う。天使にマシンガン……とても様になっているのはなぜだろう。

「いっけーー!」

 天使がマシンガンを乱射する。圧倒的な火力。しかし、悪魔は起用に鎌を回転させ、それを全て受け止めていた。

「そんなもの、この大悪魔リース様には効かないっつうの!」

 確かに銃弾は悪魔に届かない。しかし、航が気になっているのはそんなことではなかった。悪魔の背後……そこにそれはいた。

 テレビゲームでオークやトロルなどのモンスターが持っているような、トゲトゲのついたまがまがしい棍棒。それを両手できつく握り締め、振りかぶっているもう一人の天使の姿がそこには在った。

「やっちゃえ! サン!」

 銃を乱射しながら天使が叫ぶ。

 航は「悪魔、後ろ後ろ」と叫んであげたかったが、棍棒を握る天使の邪悪な笑みの前に言葉が出ない。

 そして、天使は棍棒をフルスイング。それはもう、メジャーリーグの四番バッターも真っ青なくらい腰の入った完璧なフォームで、悪魔の頭を打ち抜いた。

 何とも形容しがたい鈍く重たい音。心を突き刺す悲痛な叫び声とともに悪魔が宙を舞う。

「正義は勝つ」

 明後日の方を眺め、悪魔を撲殺した天使は呟いた。それこそ代打逆転サヨナラ満塁ホームランを打ったようないい顔をして……

「戦いはいつだって悲劇を生む。それでも人は戦わねばならないし、その悲劇を踏み超えて前に進まなければならない。さぁー、いざ行かん。交番へ!」

 航の頭の中に響く天使たちの声。

 航は背筋に寒気を感じながらも、心の中に響くその声に従って交番に向かうことしか出来なかった。


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