第32話


 翌日。

 昨日、結局優和は来なかった。

 優和の携帯電話に何度も電話したが、繋がらなかった。その度に、留守番電話に伝言も残した。それなのに連絡すらなかった。

 たった一日。たった一日、優和に会えなかっただけ。

 怖かった。それでも怖かった。

 優和に嫌われてしまったのではないか。自分が優和を怒らせるようなことをしてしまったのではないか。そんなことばかりが頭を過ぎる。

 嫌われてもいい。怒っていてもいい。優和が隣にいてくれさえすればそれでよかった。詩菜が一番恐れたのは、優和が自分の隣から消えてしまうこと。

 今の詩菜は、優和の去った世界に独りであることを耐えられない。

 ほんの数週間前までは、独りであることが当たり前で、恐怖など感じもしなかった。むしろ、それは好きで、安らぎすら感じていた。

 それなのに今は……

 ――コンコン。

 ノックの音。その後に声が続いた。

「優和だけど、入いるよ」

 ドアを開けて、優和いつもの笑顔を詩菜に向けて入ってきた。

 でも、詩菜は涙の溜まった瞳で優和を睨みつける。

「何で昨日来なかったの。毎日来てくれるって約束したのに。何度も何度も電話したのに」

「ごめん。昨日さ、携帯電話と財布を落としちゃってさ。いろいろ解約したりとかで、手続きとかいっぱいあって大変だったんだ」

「だったら、連絡くらいくれてもいいでしょ」

「えと、携帯も無くしちゃったもんで、病院の電話番号もわからなくなっちゃって」

「そんなの調べればわかることでしょ」

 涙が零れる。

「そうだね。ごめん」

「どんなに不安だったかわかってるの? 怖かったんだからね、悲しかったんだからね。私、独りで、この部屋の中でずっと優和が来るのを待ってた。ずっと待ってたのに。まるで、世界に私独りになってしまったみたいで怖かった」

 そう、優和を失うことが怖かった。それは死などよりずっと怖かった。

 ふと――詩菜は思う。気付いてしまった。

 自分が優和を愛しているように、優和も自分を愛してくれている。その意味することに気が付いてしまった。

「もしかして、私が死んだら。優和もそんなふうに感じるのかな?」

「えっ……」

「寂しくて、悲しくて、苦しくて、どうしようもないほどの虚無感……」

「うん。なると思う。本当にごめんね。これからは毎日何があっても来るから。どうしても無理だったらしっかり連絡もいれるよ」

 詩菜は涙の溜まった目で優和を見つめていた。

 「うん。なると思う」その後の言葉は全く耳には届かない。

 どうしよう……詩菜は混乱していた。

 考えもしていなかった。優和のことなんて何にも考えていなかった。好きだの愛しているだの言葉にしておきながら結局自分のことしか考えていなかった。

 詩菜の余命は後半年。

 優和の恋人にしてもらって、そして半年後に死を迎える。詩菜にとってそれは十分な幸せだった。

 確かに出来ることなら、もっと長く生きていたいし、少しでも長く優和と共に在りたい。そんな考えがないわけでもないが、それでも幸せなまま迎えることの出来る死は、詩菜にとってハッピーエンドには違いはなかった。

 しかし、詩菜にとってそれがハッピーエンドであったとしても、残される者、優和にとってそれは……

「嫌だよ! 優和には悲しんでほしくない」

 言いながらベッドを飛び出して、優和に抱きつく。

「え……?」

「ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさい……私、優和にそんな気持ちになってほしくないよ。こんなことなら、愛されなければよかった。出会わなければよかった。ごめんなさい……私のせいで優和に悲しんでほしくない」

 優和の腕の中で泣きじゃくる。

 いつも自分のことだけを考えていた。いつも自分が幸せだとか、不幸だとかそんなことばかり考えていた。

 でも、今はそんなことはどうでもよかった。ただ、優和には不幸になってほしくなかった。自分に与えられる幸せなどどうでもいい。優和に幸せになってほしかった。それこそが詩菜にとっての一番の幸せだったのだから。

「ねぇ、結婚しようか……」

 優和が泣きじゃくる詩菜の瞳を真っ直ぐに見つめながら、優しく言った。

「えっ?」

 何か聞き間違いだろうか、意味のわからない単語が聞こえた気がした。

「だから、私、もうすぐ死んじゃうんだよ」

「じゃあ、早く結婚しないと」

 そう言って、優和は優しく笑った。

「えっ……ええっ?」

 元々混乱していた詩菜の頭がいよいよ、本格的にその仕事を放棄しようとしていた。もう何も考えられない。頭がパンクしそうだった。

 少し前まで、頭の中を支配していた悲しい気持ちも、新しくやってきた幸せな気持ちで全部どこかに押し出されてしまう。頭の中だけでなく、心の中までも幸せだけで溢れてしまっていた。

 だから、もう何も考えられない。

 ただ、わけもわからず、優和の胸の中で涙を流していた。


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