第36話
雨音が耳鳴りのように響いていた。
優和は空を見上げる。
透明なビニール傘越しに見上げた空は暗かった。
夜の雨。
それは静寂に似ていた。
単調に続く雨が地を打つ音。ビニールの傘を叩く雨音。時折それに混じる、水を切る車の音。
どれも優和の心には届かない。
優和は空を見上げながら思う……まるで空が泣いているようだ。
そして道路の脇に視線を移す。
そこにはアスファルトの割れた隙間から雑草が生えていた。
ここ三日間ずっと降り続けている強い雨にもうつむくことなく、その名も無き植物は空に向かって成長していくのだろう。
うらやましいと思った。
こんな悲しい雨をその身に受けても、なお糧に出来る植物の強さがうらやましかった。
優和にはこの植物の種類はわからない。きっとどこにでもあるただの雑草だ。それでもこの雑草は花を咲かすのだろうと思う。
アスファルトで出来た道の中。他に自分の仲間もいないのに、一人立派に花を咲かせるのだろう……
でも――そこにどれだけの意味があるのだろうか。
届くことのない想い。届けるべき相手のいない想い。それにいったいどれだけの意味があるのだろうか……
そんなことを考えながら、優和は再び空を見上げ、家路へと歩み出す。
それから数分もしないうちに優和は家に着いた。
スマホの画面を見つめる。そこに表示されているのは今の時刻。
「八時半か……」
画面に映し出された時間を呟きながら、優和は自宅のドアの鍵を開けた。
自宅といっても、家賃四万六千円の安アパート。
家に入ると、優和は電気を付けてテレビの前に座った。
そしてリモコンを手に取ると、番組表と記されたボタンを押す。
優和は今日の日付の九時以降の欄に一通り目を通しながら、バイト先のコンビニから貰ってきた賞味期限切れのおにぎりを食べる。
「…………またか」
テレビ欄の中の一つの映画が優和の目に止まった。
その映画は一度見たことがあった。詩菜の病室で詩菜と一緒に見た映画。
優和はおにぎりを食べ終えると、テレビを消す。
ここ数日、正確には一週間くらい前からだろうか、優和の回りでは不思議なことが起きているような気がした。
詩菜の気配を感じた……
ラジオの電源を入れてみれば、流れてくる曲は詩菜との思い出の歌ばかり。詩菜が大好きだと言っていた歌や、自分が詩菜に聞かせたくて病室に持っていったものなどいろいろだった。それにテレビを付けてみても、昼間や夕方にやっている再放送のドラマやアニメは、やっぱり詩菜との思い出の中に在るものばかりだった。
それだけではない、優和の周りに広がる世界のありとあらゆるところで詩菜との思い出は溢れていた。
そんなことを考えながら、優和は今日も思う。
さて……どうしようか。
それはあの日、詩菜が死んだあの日から優和に突きつけられた難題だった。
――詩菜の死の報告を受けた日、優和は地面の上に仰向けで寝転がって、空を眺めていた。
色褪せた空。昨日まではあんなに温かく心地よかった世界も、美しかった空も、今はもうなくなってしまっていた。
詩菜が死んだことを電話で杉原先生から聞かされた後のことはあまりよく覚えていない。気が付くと原っぱに倒れこんでいた。
その原っぱが近くの公園なのか、河川敷なのかもわからない。
そのときの優和にわかったこと、それはたった一つの事実。詩菜の死。
もう詩菜と会うことも話すことも出来ないという、その事実だけだった。
不思議と涙は出なかった。
どこか他人事のような感覚。自分の心と体が別々の遠く離れたところにあるような違和感。虚ろでありながらも確かな絶望。心をゆっくりと侵していく虚無感。
優和は空を見上げたまま考える。
さて、どうしようか。
詩菜のいなくなった世界でどうやって生きていこうか。
詩菜と出会って以来、彼女を喜ばせること、幸せにすること、それが全てになった。それこそが全てだった。それだけが優和にとっての幸せだった。
だから今、優和は幸せを失った。幸せになる術を失った。
どうしよう……優和は考える。
でも、どんなに考えても答えは見出せない。
生きる理由も、生きる意味も、生きる価値も、詩菜の去ったこの世界には見出すことは出来なかった。
思い出されるのは詩菜の最後の言葉。「またね」そう彼女は言った。それは再開を約束する言葉。果たされることのなくなった約束。
どうすればいい? 詩菜はどうしてほしいのだろう……
考える。
幸せになって……詩菜はそれを願ってくれている気がする。自分が詩菜の幸せを願っていたように、彼女も自分の幸せを願ってくれていた。
そういえば……思い出す。
彼女は言っていた。「私のせいで悲しんでほしくない」
優和は思う。幸せになることは出来るだろう。詩菜のいないこの世界でもそれを望めば幸せになることは可能だと思う。新しい生きる目的も、新しい愛さえも見つけることは出来るだろう。それはそんなに難しいことではないはずだ。
しかし、優和にはそれを望むことは出来なかった。詩菜のいない世界で幸せになんてなりたくなかった。
詩菜のいない世界で微笑んでいる自分なんか絶対に見たくはなかった――
その想いは今も、詩菜のいなくなったそのときから何もかわらない。
だから、優和はただ……生き続けてきた。それは生きているというよりは死んではいないだけ。
目的も、意味もなく、ただ生きてきた。それは生きるという作業。
だから優和は考える。
さて、どうしようか……
それを一日に何ども考える。
生きる目的も、望むものも何もないのだから。
さて、どうしようか……
それは今後の未来を占うような想いではなく、常に今に向けられた想い。
詩菜のいない未来など思い描く価値はない。
目的も望むものもない優和は刻々と変わり行く時の中で、ただそれだけを考えていた。
とりあえず今は、映画を見ようと優和は思う。
それは、詩菜の病室で詩菜と一緒に見た映画だった。
優和はテレビのチャンネルを映画にあわせながら、そのときのことを思い出す。
その日、優和が詩菜の個室で適当にチャンネルを回していると、ちょうどその映画は始まった。主演の俳優も女優も優和が大好きな人だったのでどんな話かは知らなかったが見ることにした。
恋愛映画だった。まったく境遇の違う二人の恋の物語。男は自分の全てを捨てて、女を愛することを選んだ。その想いは実り、二人は結ばれた。しかし次の日、彼女は事故でこの世を去ってしまう。そして、男に突きつけられる言葉。全てを捨てて彼女と結ばれたのに、その瞬間に彼女は自分を置いて逝ってしまった。もしこうなることが初めからわかっていたとしてもこの道を選んだのだろうか?
そんな悲しい物語。しかし、物語はここでは終わらない。後、十五分ほど時間は残されていた。そこで男はその言葉の答えをみつけるのだろう。それこそがこの物語のテーマだったはずだ。
しかしその続きを優和は知らない。
そこで詩菜がテレビを消してしまったから。
そして詩菜は言った。
「もういい。見たくない。映画でまで、こんなふうに現実を突きつけてほしくない。せめて作り物の物語くらい、幸せに終わってくれればいいのに。みんながそれを願っているのに。どうして? こんな終わり方、絶対誰も望んでない!」
そのとき、詩菜はそう言って、涙を流した。
今、目の前で放送されているものも、その場面に近づいていた。
優和は考える。それは自分の物語。
優和は映画の男とは違い、詩菜が先に逝ってしまうことは知っていた。それを理解した上で結ばれた。
だから、覚悟はあった。彼女の死を受け入れる覚悟はあった。
でも少し早すぎた……
まだ、たくさんしたいことがあった。結婚もしたかったし、何よりもっと幸せにしてあげたかった。幸せになりたかった。
それなのに彼女は一人で逝ってしまった。
言葉に出来ないほどの絶望。心を切り裂くような悲しみ。全てを飲み込むほどの虚無感。
やり場のないその想いは、優和の心の中を満たし、大きくなっていった。
時間が解決してくれる……そんな言葉があるが、時間は何も解決してはくれなかった。
詩菜のいない日々が過ぎていくにつれ、詩菜と最後に会った日から遠くなるにつれて、その想いは優和の心の中で大きくなっていった。
だから優和は常に今、最大の絶望と悲しみと虚無感を抱えている。
そんな想いを抱えながら優和は映画を見ていた。
続きが気になった。男の見出すであろう答えもテーマも想像が付く。
優和が気になったのは、彼が最後幸せになれたか……
そして映画は詩菜が消してしまった場面までやってきた。
優和は彼の幸せを願いながら、物語の行く末を見守っている。
しかし――その瞬間、テレビが消えた。
別に家の明かりは消えていないので、停電やブレイカーが落ちたわけでもない。
ただ、テレビの電源だけが消えた。まるでこの続きは見たくないと言うかのように……
優和はその場に立ち上がって、辺りを見回す。
そして、呟いた……
「詩菜……いるの?」
もちろん返事なんて返ってくるわけがない。そんなことはわかっている。
でもそんな気がした。ここ数日、本当はずっとそんな気がしていた。
外を歩いていたとき、通り過ぎていった一陣の風に詩菜の匂いを感じた。少し寒さを感じ、肩をすくめたとき、不意に雲の隙間からもたらされた太陽の光に詩菜の温かさを感じた。
詩菜に会いたかった。
他に望みも願いもない。ただ詩菜に会いたかった。
もう、自分を想いを抑えることは出来ない。
「詩菜……」
涙が溢れてきた。それは詩菜が死んで以来、初めて流す涙。
今まで流すことなく溜め込んできた涙が、限界を超えて溢れ出してくる。
「詩菜……」
号泣しながら、嗚咽と共に詩菜の名を呼んだ。
そのまま泣き崩れる。
「なぁに?」
返事が返ってきた。
それは返ってくるはずのない返事。
その声に優和は顔を上げる。
涙でぼやけた視界の先に誰かが立っていた。
優和は目を瞑って、涙を拭う。
そして……
そっと、瞼を開いていく。
不安と、恐怖と、喜びと、他にも多くの想い混じった複雑な感情。その全ての感情を押し流してしまうほどの大きな期待――それを抑えつけて、そっと瞼を開いていく。
「ぁ………………」
そこに詩菜がいた。
そこに詩菜はいた。
また涙が溢れてくる。ごしごしとさっきよりもっと強く乱暴に涙を拭う。
「詩菜?」
想いが声になって溢れた。
「優和? もしかして、見えてる?」
詩菜は不安と期待とが混ざった表情で優和を見つめながら言う。その声もまた、優和の思い出の中にある詩菜のものと変わらなかった。
そう、今目の前に詩菜がいる。
もう一度、詩菜の名を呼びたかった。詩菜の言葉に答えを返したかった。
それでもわずかに開いたこの口からは、ただ一言も声に出来ない。
押し寄せてくる感情が多すぎて、それを言葉に表すことが出来ない。
その代わりに、詩菜の姿をとらえるべく大きく見開いた目からは止めどなく涙が溢れてきた。
その涙で、詩菜の姿が滲んでしまう。
それが嫌で、優和は必死で涙を拭った。
そして震える唇から、少しずつゆっくりと言葉を押し出していく。
「……見える。見えるよ。詩菜が……詩菜が俺の目の前にいる」
拭っても、拭っても涙は止まらない。
「よかった……」
詩菜も幸せそうな笑みを浮かべて涙を流した。
優和の目の前にいる詩菜は少し透けていて、浮いている。それでも、そんなことは優和にはどうでもいいことだった。
詩菜が目の前にいる。詩菜が笑っている。
それが全てだった。
これが幻覚でも幻聴でもかまわない。もしこれが、頭がおかしくなって見える幻覚だったのなら、頭がおかしくなったことを神に感謝したいくらいだ。
だから……
「詩菜ぁ~!」
「えっ? きゃあ!」
優和は詩菜を抱きしめようと、飛びついた。
けれど、詩菜に触れることは出来ない。すり抜けてしまった。
そのままの勢いで優和は床へと倒れこむ。
「あ~~! 優和、大丈夫?」
「痛い……」
「あ、あのね。私、幽霊だから触れないんだ」
少し申し訳なさそうに、すごく残念そうに詩菜は言った。
「そっか……幽霊なんだ。はは、あははははは!」
「えっ、ええっ……何? どうしたの?」
優和は笑った。泣きながら大声で笑った。
涙を流したのが詩菜が死んでから今日が初めてだったように、こんなに嬉しくて、幸せでこみ上げてくるような笑いもまた、詩菜が死んでから初めてのことだった。
「え? 何でそんなに笑ってるの? もしかして髪型とか変? 幽霊は鏡とかに映れないからチェックとか出来ないんだよ……」
「違う。嬉しいんだ。詩菜とまた会えた。嬉しくて……本当に嬉しくて。あは、あははは」
「私も嬉しい。優和とまた話すことが出来た」
そう言った詩菜は満面の笑みを浮かべる。しかし、その表情は少し考えるそぶりをへて、怒りへと変化した。そして詩菜はふわふわと浮かんだまま、床に尻餅をついている優和の目の前まで近づくと怒鳴る。
「それより! 私はね、今まで話せなかったけどこの二年間。ずーっと優和にくっついていたの。何? あのへたれっぷりは。詩も小説だって全く書いてなかったじゃん。夢はどうしたの?」
優和はぷりぷりと怒っている詩菜を見上げながら、考えてみる。
この二年間、詩菜が死んでからずっと、優和は確かにへたれていた。
「それは詩菜のせいだろ。詩菜が勝手に死んじゃうから。結婚しようって約束したのに、手術の前にまたねって再開を約束したのに……」
「う……それを言われると、そうだけど」
「でも、もういいよ。詩菜は約束どおり戻ってきてくれた。こうしてまた会えた。これからはずっと一緒にいられるんだよね? 幽霊との恋愛ってのも、なかなか面白そうだ」
「ううんん」
詩菜は首を振る。
「違うの。私はお別れを言いに来たんだ」
「……冗談、だよね?」
「冗談じゃないよ。だって、私は幽霊なんだもん。ずっとはここにいられない。成仏しなきゃいけないの」
「そんな……嫌だよ」
「やっぱりね。幽霊って言うのはよくないの。世界の法則から逸脱してるんだって。それに私は優和に幸せになってもらいたい」
「だったら、幽霊でもなんでもいいからずっと一緒にいてよ。そうすれば俺は幸せでいられる」
「それは駄目。私は優和を縛りたくない。それに例え望んだとしても、ずっとここにいることも出来ない。だから優和には私のいない世界で幸せになってほしい」
詩菜は真っ直ぐに、優和を見据えながら言う。
「私は優和に幸せになってほしいんだ」
「そんなの無理だ。詩菜のいない世界で幸せになんてなれない」
「そんなことない。優和は言っていたじゃない。人に幸せを与えられるような小説や詩が書きたいって。それを読んで誰かが幸せになってくれたなら、それこそが自分の幸せだって。だからその夢を叶えてよ。優和なら、私じゃなくても誰かを幸せにして、そこから幸せを得られる。だから幸せになって。そうすれば、私も幸せになれる」
そこまで言って、詩菜は優しい笑みを浮かべて続ける。
「だからお別れをしよう。私と優和との物語はここでおしまい。優和は新しい物語を始めて。私は大丈夫だから。私は優和に出会って、ステキなハッピーエンドの物語をもらったから」
「……詩菜はなんだか、ずいぶんと大人になったね」
「うん。だって最後に会ってから二年もたったから。優和はあんまり変わってないかな。あ、でも、私は毎日見てたから気付かないだけかもしれない」
そう言って詩菜は少し笑った。優和には幸せそうに見えた。
だから――思う。
詩菜の言葉に嘘はない。彼女は優和との別れを望み、それで幸せになれる。
彼女は言ってくれた、優和の幸せこそが自分の幸せだと。
そして優和の幸せもまた、彼女の幸せだった。
その二つの幸せは相反するものではなく、同一のものであるはずだと優和は思う。
だったら……答えは一つしかなかった。
「わかった。俺は幸せになる。小説を詩を書くよ。たくさんの人を幸せに出来るような作品を書く。俺は俺の夢を叶える」
「じゃあ、お別れね……今までありがとう。私は本当に幸せだった。優和と出会えたから幸せだった。もしこの病気のおかげで優和と出会うことが出来たのなら、この病気になったことを感謝したいくらいだよ。だからね……ありがとう」
そう言って、詩菜は微笑む。心から幸せそうに笑みを浮かべて、もう一言だけ付け加えた。
「……さようなら」
しかし優和はその言葉に頷くことは出来ない。
「嫌だ。さようならは言わない。俺は詩菜のいない世界で幸せになる。でも、さようならは言わない。だって、幽霊とかがいるなら生まれ変わりとかもあるはずだろ? 生まれ変わってこいよ。また出会おう。また、恋をしよう。だからさようならなんかじゃなくて、再開の約束をしよう」
それがたった一つだけの答え。そう、優和は思う。
詩菜を幸せにしたいのなら、自分が幸せになればよかった。自分が幸せになりたかったら、詩菜を幸せにすればよかった。
そう……簡単なことだった。幸せになるだけで、幸せに出来た。幸せにするだけで、幸せになれた。二人だから幸せだった。
それこそが答え。
だからこそ、離れるわけにはいかなかい。もし、離れ離れになるのならせめて心だけは一つに。そのためにも互いを縛る約束は必要だった。それは、互いの自由を縛る束縛ではなく、互いの幸せを繋ぐ大切な絆……
きっとそれは赤い糸なのだと優和は思う。
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