第11話 追記:ミルデンホール男爵は見た


 闘技場を埋め尽くすような炎の奔流が、怒涛の水飛沫を打ち消す。魔導師クラスとはいえ名もなき戦奴ふたりの戦いが、ここまで長く白熱したものになるなどと誰が考えただろう。

 少なくともぼくミルデンホール・インシルリクにとっては、落ちぶれ破滅しかけたインシルリク家の復興を遂げる第一歩としか考えていなかった。


「……まさか、そんな」


 ぼくは両手を握りしめ、必死で兄の姿を探した。インシルリク男爵家の当主であるはずの自分が、泣きそうになりながら。浅ましいことにそれは兄の安否そのものではなく、彼の勝利で手に入る金と敗北で失うものを思ってのことだった。


 爆炎のような水蒸気が去った後には煌めく虹が掛かり、その橋のたもとに倒れる兄、エイダ・インシルリクの姿があった。

 自分の目で見てさえ、信じられない。あの兄が。辺境の武辺インシルリク男爵家でも歴代最強の剣士にして拳闘士、そして――実用的な水魔法に偏っているとはいえ――膨大な魔力量と強靭な体力に裏打ちされた優秀な魔導師でもある、兄が。

 まさかあんな、遥かに軽く細く小さな少年相手に負けるなど、想像すらしていなかった。


「終わったな」


 借金返済に充てたまとまった金を除き、手元にあった金目の物は何もかも換金して、小銭まで掻き集めて全財産を兄に賭けた。戦奴である兄の関係者なのだから本来は賭けに参加することは出来ないのだが、裏社会の仲介人を介して密かに依頼したのだ。

 インシルリク男爵家も、我が兄弟も、すべてを喪い、何もかもを奪われる。

 もう帰る家もない。かつては主君と仰いだ王家から社会的・階級的・感情的・経済的な死を賜り、残るは肉体的な死を待つだけだ。


「……すまん、シュリーヴァー」


「それって、あんたの女?」


 仲介人がニヤニヤと笑いながらぼくを見る。破産し破滅した男を見て何がそんなに楽しいのだ。不思議と怒りは湧いてこない。もう気概も気力も、根こそぎ奪われたようだ。


「ああ。我ら・・が、命より大切に思って来た女だ」


「ふーん」


「勝者、141号! !!」


 試合会場では、兄の対戦相手が名乗りを受ける。

 そうだ。自らの名前を観客たちに知ってもらえるのは、勝者だけ。敗者は名も無き戦奴として会場から消える。その多くは、永遠に。


「アイ! アム! ザ・ファイアボール!!」


 まだ少年にしか見えない彼は両手を突き上げ、四方の観客席に雄叫びを上げた。両手から噴き上げた爆炎が宙を舞う賭け札に引火し、周囲に派手な炎のカーテンを作る。会場の隅で、呼び出し係の兵士や審判員、会場係員が消火に駆け回るのが見えた。

 派手な勝鬨かちどきも最後の力を振り絞ってのものだったらしく、勝者である彼もまた倒れて慌ただしく担架で運ばれて行った。


「いいぞ坊主! 俺たち平民が、今日だけは大金持ちだ!」

「また出場しろ! 今度は最初からお前に、賭けてやるからな!」


 会場を埋め尽くす熱狂。その熱が風を呼び、無数の賭け札が宙に舞い踊り続ける。ぼくはその一片を拾い上げて、静かに動揺する。先程の炎魔法で焦げたのではない。黒い色の賭け札。見上げると舞い落ちる紙片のなかに、かなりの割合で混じっている。


 闘技場の賭け札は、銀貨単位で買う白札と、金貨単位でしか買えない黒札がある。

 白札は試合開始時点で締め切られるが、黒札は試合開始後15分の鐘から受け付けられ、試合開始後20分の鐘で締め切られる。倍率は高く一攫千金が狙えるものの、平民が――貧乏貴族も同じだが、おいそれと手を出せるものではない。

 よほどの富裕層と貴族階級しか利用しない(できない)それは、ある種の資金洗浄の意味も持っていた。


 黒札の存在は知っている。見たこともある。だが、こんな光景は初めてだった。

 これまでの試合でも、ほんの数枚が、上階から投げ捨てられるのを目にしただけだ。

 それが、ざっと見ただけでも数百枚。大穴狙いで平民の少年に賭けた者もいるだろうし、負けた人間が全員、賭け札を捨てる訳でもない。実際かなり無作法な行為なのだ。つまり、捨てられていない札もある。実際には舞っている数の数倍だろう。総額では少なく見積もって金貨で数千枚、下手すると数万枚にもなる。大領地の年間予算、どころか小国の国家予算だ。


 この試合だけ、明らかに賭け金が異常だ。思い返すと、レートの変動もおかしい。資金洗浄のためのレート操作に失敗したかのようにさえ見える。

 いや、実際そうだったのかもしれない。走り回る係員の表情も焦りを通り越して恐慌状態にあった気がする。

 この闘技場に……そして恐らくこの国に、ヒューガとかいうあの少年がもたらした(あるいは奪った)ものの大きさを思って、ぼくは空恐ろしくなる。

 そして、それに我が兄エイダが関与していることも。


 なんにしても、いまの自分には関係のないことだが。


「……じゃ、行こか」


 仲介人が、ぼくの背を押す。文無しになったぼくは、興業主オーナーに会って借款を清算しなければいけない。死に掛けた兄の命を、さらに削って切り売りするということだ。


 どんよりと沈むぼくを余所に、熱狂は止まず、歓声はますます大きくなる。ぼくが進む先には、担架に載せられたまま治療を受けている兄の姿があった。意識が戻ったのか、ぼくを見て笑みを浮かべる。屈辱的な敗北を喫し、全てを喪ったというのに、いっそ清々しいばかりの笑顔だった。


 おずおすと歩み寄ったぼくに、兄エイダは手を伸ばしてくる。子供のように頭をクシャクシャに掻き回され、ぼくは兄の手を押さえる。ゴツゴツした手は傷だらけで腫れ上がり、ひどい熱を持っていた。


「そんな顔するな」

「でも……」


 治療を終えたのか、担架は動き出し、ぼくもそれに続く。敗者である筈の兄にも、観客からたくさんの拍手と声援が送られる。敗者への声援なんて、そんなものは聞いたこともない。


「惜しかったな! 良い試合だったぞ!」

「ええい、馬鹿もんが! 貴様は、いちから鍛え直せ! 傷が癒えたらマッコードの城まで来い! わしが直々に稽古を付けてくれるわ!」

「俺の目に狂いはない! お前は強いんだ! 胸を張れ!」

「次は勝て! いいな! 今度は、全財産を掛けてやるからな!」


「次、か」


 兄の呟く声が、ぼくの耳に届く。

 次などない。そんなときはもう、永遠に来ないのだ。


◇ ◇


 医務室に運ばれる兄と分かれ、ぼくは身形みなりの良い兵士に別室へと誘導された。何の用かは聞けなかったが、いずれにせよ悪い知らせ以外の何物でもかなろう。禁止されていた賭けへの参加が露呈して厳罰を受けるのかもしれない。罰則は確か、全財産の没収と強制労働だったか。何が加わろうと構うものか。もう破滅は既決事項なのだ。

 革張りのソファーに浅く腰掛け、静かに深呼吸して覚悟を決める。心はひどく静かだった。もう何も方策はない。領地を押さえられている以上、逃げることも出来ない。

 この後に何が待ち受けていようと、それは破滅の形がどういうものかの違いでしかない。


 ノックもせず入ってきたのは、ひと目で貴族とわかる男だった。上流階級でしかあり得ない物腰と衣服。命令することはあってもされることのない人間に特有の穏やかな雰囲気。こういう人間は、反抗する者には笑顔のままで残虐な死を与えるのだ。


「イールソンだ。王立中央闘技場ここ興業主オーナーをしている」

「お初にお目に掛かります、エイル・イールソン公爵閣下。お噂はかねがね。わたくしは、インシルリク男爵家当主、ミルデンホール・インシルリクと申します」

「……ふむ、若いな。貴殿が、の戦奴エイダの弟か」

「はい、兄は我が領地の未来のため、己が身を投げ出しました」

「美談だな。敗れたとはいえ、なかなかの戦いぶりだった」


 ぼくは黙って頭を下げる。いっそ打ち明けてしまいたかった。その美談の主人公は、我が無能のせいで犬死にすることになるのだと。


「さて、先に紹介しておこう」


 公爵は背後を手で示す。少し下がった位置で、両脇に立つ屈強な男たちがいた。どちらも衣服の上からはっきりわかるほどの筋肉の塊で、体重はこちらの優に3倍はある。ぼくのような青二才など、片手どころか指先ひとつで殺せそうだった。


「これは興業進行管理人ブッカーのベローズ。そして戦奴の管理と調達を行う、ホロマン商会の会頭ヘムヌン・ホロマンだ」


 話の行き先が読めず、ぼくは静かに公爵の沙汰を待つ。


「さて、貴殿を呼んだのは他でもない。兄エイダの、行く末・・・についてだ」


◇ ◇


 ぼくは、ふらふらと廊下を歩く。


 どれほどの時間が経過したのか、興業の喧騒は既に遠く、静まり返った廊下の薄暗闇に瞬く明かりが目に痛い。

 ぼんやりした頭のなかを、公爵の言葉が切れ切れに行き過ぎ、取り留めのない思いは形を持たないまま霧散して、何も考えられない。


「……ふざけるな! そんな話が呑めるか!」


 薄く開いた部屋の扉から、廊下に灯りと兄の声が漏れていた。

 ぼくはそちらに歩いてゆく。足元が浮ついて、ひどく心もとない。


「なぜ?」

「なぜ、だと!? 貴様、それは本気で訊いてるのか!?」


 縋りつくように扉を開けると、そこには全身を包帯で巻かれベッドに転がされた兄の姿があった。兄の前に立っているのは、対戦者の少年ヒューガ。憤怒の表情で吠える兄の剣幕にも動じず、罵倒の言葉も涼しい顔で受け流している。

 ふたりとも、部屋に入ってきたぼくのことなど気付きもしない。


「もちろんだ。要は、段取りブックを呑まなければ不利益をこうむるってことだろ。コロシアムの運営側から見れば当然の要求じゃないか?」

「何をいっている! お前は、悔しくないのか!? 我らの命懸けの戦いを、身勝手な都合で捻じ曲げて、奴らが勝敗を決めるなどと……こんな屈辱的な役割を押し付けられて、我慢など出来るか!」


 ヒューガはわずかに肩を竦め、苦笑しながら頷いた。


「ああ、気持ちはわかる。立場を変えてみれば、納得いかないのも理解する。でも、あんたは自分の立ち位置と、問題の本質を見誤っている」


「……なに?」


 兄は困惑してヒューガを見詰める。彼の言葉が、平然としていられる意味が理解出来ないのだろう。

 ぼくもそうだ。興業主オーナーの公爵から説明を聞きはしたが、まだ微塵も腑に落ちていない。


「何を他人事のようにいっている! 次に負けることになるのは貴様なのだぞ!?」

「ああ、そこだ。なぜ俺がそんな……あんたのいう“屈辱的な役割”を“押し付けられた”と思う?」

「そ、そんなもの、立場の弱い戦奴だからに決まっている!」


「半分正解、商品価値が低いからだ。だが、もう半分は間違いだ。その役割は、からだよ。上手く負けるのは、上手く勝つより遥かに難しい」

「負けることなど誰にでも出来る!」

「ああ、凡戦になっても良いならな。でも、ここの客はもう、それでは納得しない。俺たちが基準値ハードルを上げたからな。それも、だ」

「俺、たち? あれは、全部お前ひとりで……」

「本気でいってるのか?」


 一瞬、少年の声が低くなる。それを聞いてぼくの背筋にゾワッと冷たいものが走った。それは兄でさえわずかに身構えるほどのだ。


「そ、それは、もちろん本気だ。お前なら、どんな相手とだって客の熱狂を得られるだろうが」

「ああ、そうだ。俺なら、誰が相手でも一定レベルの試合は出来る。だが、それ以上の闘いは、優れた相手なしには不可能だ」


 おかしな光景だった。

 ほとんど殺し合いのような戦いを行った少年を相手に、兄が真っ赤になって俯き、口をつぐむ。

 それはまるで、愛の告白を受けた乙女のような仕草だった。握り締めた両手が震えているのはたぶん、涙を堪えようとしているのだろう。


「俺にはお前が必要なんだよ、エイダ・インシルリク。俺と戦え。そして、今度こそ倒して見せろ」


 その言葉で、兄は落ちた。

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