第8話 追記:エイダの困惑

 ――どうかしてる。


 俺は困惑を隠せないまま、効きもしない打撃を受け続けた。鋭く伸びやかな蹴りが鮮やかな軌跡を描き、俺の身体に叩き込まれる。小気味良い衝撃音が鳴り響き、荒海の波頭が砕けるようなどよめきが押し寄せる。

 何だ、この状況は。何なんだ、この感情は。胸の奥から沸き起こるこの熱は。心の奥底で、眠っていた思いが目覚める。忘れようとしていた感情が、“ようやく見つけた”と囁く。

 何を。


 自分が、いるべき場所を。


 俺はそこに思い至り、自分の頭を疑った。相手の性根を疑った。自分のいた世界の、いまいる場所の常識を疑った。

 こんなのは、正気の沙汰じゃない。絶対に普通じゃない。

 俺がこの場にいるのは金のためだ。それ以上の何物でもない。金のためなら何でもやるつもりでいた。勝つためなら汚い手でも使うし、生き残るためなら見苦しい真似だってする。いざとなれば対戦相手の戦奴を殺すことだって、躊躇うつもりなんかまったくなかった。


 なのに。何でだ。何をしているんだ俺は。こんなところで床に転がって、数万数十万の熱狂的な視線を集めて。耳を弄するほどの喝采を浴びて。


 ――どうしてだよ! 何がどうなってるっていうんだ!


 弟のため家族のため領地のため領民のため家名のため父親の誇りのため、みんな他人のため自分以外の誰かを何かを輝かせるための犠牲だ。俺の人生なんて最初からそんなものだ。主役になることなんて絶対にない。脚光を浴びることなんて一生ない。だから俺は裏方に回った。常に日陰の存在であることを自分に課した。自分より才能と人望と知識と未来のある弟を守り支え幸せにするために。自分の夢なんて何もかも捨てたはずだった。希望なんて二度と抱かないつもりだったんだ。

 なのになぜ、俺はこんなところで、こんなにも胸が昂ぶっているんだ!?


 我知らず滲む涙で目の前が曇る。怒りと悦びで我を忘れそうになる。

 わずか5メートルほど先に立っている対戦相手は、改めて見ても何の変哲もない、まだ顔にあどけなさを残す小柄で細身の少年だった。


 お前は、何者だ。俺を、どこに導こうとしているんだ。

 これ以上、俺を惑わすな。得られもしない幸せを差し出すな。手が届きもしない夢をちらつかせるな。

 肉食の魔物でさえ震え上がらせる俺の憤怒を奴は平然と受け流し、観客から見えない位置で小さく指を動かす。


“4、3、2、1……”

 

“いいぞ、立て”


 試合中に何度か出された指示は簡潔で確信に満ち、有無をいわせぬ力が込められていた。

 それに従って、俺は自らを動かす。怒涛の攻撃を受け、耐え、受け流し、満を持しての攻撃を受け、倒れた。ダメージはない。痛みもない。あるのは戸惑いと、この先に待っている結果への期待と不安だけ。

 単なる勝敗の裏取引なら、無視して叩きのめすだけだっただろうが、明らかに八百長それとは違っていた。

 攻撃も防御も身のこなしも駆け引きも、ある意味では全力だった。殺し合いとの違いは、それが目指す方向だけ。攻防の途中ではダメージを調整し、要所ではきっちりとぶつかり合う。

 こいつは俺を壊そうとはしていない。痛みと苦しみと困難を分かち合いながら、どこかへ誘おうとしている。どこか遠いところ、どこか高いところ、どこか美しく気高い未知のものが待つ場所へ。


 名も知らぬ少年の指に促された俺は、まず片膝を立てて息を吐く。ゆっくりと身構え、出方を窺う。

 観客の熱狂が伝わってくる。歓声が音圧となって俺の背中を押す。

 もしかしたらと、心の声が希望に縋る。この先に向かえば、そこには何かが待っているかもしれない。暖かく眩く輝かしい何かが。


 奴の掌の上で、スタジアムの群衆が、選手たちの運命が、運営者たちの未来が、ゆっくりと転がされてゆく。

 こんなことをしている場合じゃない。いまの俺には他人と関わっている余裕などないんだ。


 畜生、それでも俺は見たい。

 このガキが何を知っているのか。どこを目指して、何をしようとしているのか。そして俺が……俺たちが、そこに何を見出すのかを。

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