第38話 vs内なる狂気

――ああ、またこの感覚だ。


 ビッグズは地下闘技場の試合場どんぞこで手首の枷を見つめ、背中にまとわりつくどろりとした不快感に身震いした。胸の奥にどんよりと冷えたものが広がる。視界が狭まり、黒いモヤで覆われてゆく。


 自分を締め落とした生意気なチビを叩きのめす。そのために身体を絞り、打撃と投げ技を徹底的に鍛え直した。地下闘技場の戦奴に手を出した敵への、公開制裁。観客たちからの喝采を浴びる。簡単なことだ。


 その、はずだった。


 試合直前になって決まった、“鉄鎖チェインド連結リンキング試合マッチ”。要するに、鉄の枷を付けさせられるのだ。罪を負っているわけでもない俺が、公衆の面前で。地下闘技場こっち中央闘技場むこうの都合など知らん。特別ルールになんの意味があるのかも、わからん。


 俺は、“頭の足りない、図体だけの能無し”だから。


 ガキの頃から考えが足りず、上手く口も回らない俺はいつも周りの奴らから嘲笑われ、親からは罵られ殴られ続けてきた。相手が子供であれば拳で黙らせることもできたが、父親は元戦奴の巨漢だ。立ち向かうどころか身を守るだけで精いっぱいだった。

 いつかデカくなったら、こいつを殺す。ずっとそれだけを目標に耐えてきたというのに。

 俺が七つになったころ、父親はスラムの路地裏で刺されて死んだ。

 スラムの顔役に呼ばれ見せられた死体は、腹と胸をめった刺しにされていた。誰かに恨みを買った結果といわれたが、思い当たる相手が多すぎた。俺がりたかった獲物を奪ったのが誰かは、わからないままだ。


 死んだ父親は、何度も夢に出てきた。えた臭いの路地裏に転がっていた死体と同じ、驚いたような怒ったような間抜けな顔で。

 今度こそ自分の手でブチ殺してやろうと殴りかかるが、水のなかにいるみたいに身体は重く、どれだけ振り回そうと俺の手は届かない。怒りと焦りと絶望と無力感とで叫び声を上げながら俺は目覚める。

 いつも汗だくで。打ち負かされたような最悪の気分で。


「死ねええぇ……ッ!」


 いまも俺は、目の前の黒い影に殴り掛かる。拳は虚しく空を切って、気づけば地べたに転がっていた。周囲から押し寄せる歓声と罵倒と、どよめき。声は耳障りに反響して聞き取れず、周囲は黒モヤで見えない。

 まただ。自分が何をしているのか、わからなくなってゆく。何度も見た夢のなかと同じ。どれだけ必死になっても俺の拳や足はきっと、黒い影には届かない。


「立て」


 少し高い声が、俺に命令してくる。その声に従うつもりはないのに、なぜか拒絶できず俺は立ち上がってしまう。黒い影が、なにかいってきた。そのまま立ってろと聞こえたが、わけがわからない。


「てめぇ、なにを……」


 目の前の影は、俺を無視して動き出した。その直前に吐き捨てられた言葉が、俺の胸をえぐる。


「これで終わるようなら、お前は図体だけの能無しだ」


 いつも父親がいっていた。何度も浴びせられてきたその言葉は俺を縛り、苦しめ続けてきた。当の本人は、死ぬことで俺から逃げた。もう否定することも、力づくで認めさせることもできない。死者の幻影には、永遠に勝てない。


 黒い影が飛び回るたびに観客が沸く。ワンワンと耳を聾する歓声。熱狂だけが伝わってくるが、理由がわからない。俺は、なにもしていない。いわれたまま、ただ立っているだけ。これじゃ本当に、図体だけの能無しだ。もうすぐ三十になるというのに、いまも死人の影に怯えて。

 鎖を引っ張られ、揺れそうになるのを堪えて引っ張り返す。肚のなかで焦りと怯えが膨れ上がってゆく。背中にまとわりつく汚泥のような羞恥を振り払う。

 いきなりグイッと鎖を引かれ、デカい身体が泳ぎそうになる。咄嗟に引き戻した瞬間、黒い影が飛び掛かってきた。相手の腕が掠め、鎖に足をすくわれて無様に転がされる。


 クソッ! いったい、なにがどうなってるんだ!


 鎖を振り回せといわれた気がして、噴き上げてくる感情のままに力を込める。黒い影はブンブンと宙を泳ぎながら、なにかを叫び観客の喝采を浴びている。

 そうだ。俺は敵との、中央闘技場の対戦者との試合を――


「「「ブウウウウウウゥ~ッ!!」」」


 観客の立てる侮蔑の音が聞こえてきた。

 侮蔑の対象は俺か。そうだろうな。地下闘技場の観客など、賭けたカネを喪えば明日を生きられないような連中ばかりだ。そういう奴らが落としたカネで生きているのが戦奴だ。期待を裏切れば、こちらが生き延びる術を喪う。


 相手の戦奴が怒鳴り散らす声が響く。言葉は聞き取れないが。なにかを罵っているはわかる。

 呼ばれた気がして顔を上げると、いきなり声が耳に飛び込んできた。


「クッソつまんねえんだよ! オイてめえら、こんなもん見てて楽しいのか!? ああん!?」


 視界を覆っていた黒いモヤが晴れ、ゆっくりと周囲が見え始める。殴り倒された後、意識が戻ってきたかのように。目の前の相手が、ハッキリと見えてくる。

 中央闘技場のガキだ。あのとき妙な技で俺を倒し、締め落とした戦奴。そうだ。俺が戦っていたのは、戦わなければいけないのは、こいつだ。死んだ父親クズの幻覚なんかじゃない。


 ガキは俺の目を見据えてくる。戦意を問うような視線で。蔑んでいるわけじゃない。侮ってもいない。ただまっすぐに、こちらの覚悟だけを問い――


 不思議な仕草で、まっすぐに俺を指した。


 やってやる、と覚悟を決めると不思議なくらいに心が晴れた。地下闘技場に焚かれた薄明りでしかない灯火が、美しく煌めいて見える。天からの啓示のように、降り注ぐ歓声が俺を奮い立たせる。


「男だったら! 真正面から来い!」


 その言葉を、待っていた。ずっと。それだけを求めてきた。

 俺はもうあの頃のガキじゃない。地下闘技場の戦奴、“殲滅者アニヒレイター”ビッグズ”だ。戦いの場で、転がったままではいられない。挑まれて応えないなどありえない。

 もう迷いなどない。真正面から行く。逃げずに全力で打ち合う。なんであろうと叩きのめす。


 俺は、震えるほどの喜びとともに拳を握り締めた。

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