汗と涙とファイアボール ――異世界レスラー格闘記――

石和¥「ブラックマーケットでした」

第1話 vs人狩部隊

 目覚めると、ドブのなかだった。


 もうすぐ三十歳のプロレスラー、万年若手のブルファイターとして人生的な意味では最初からドブのなかだったともいえるが、まさか物理的にそれを体験することになるとは思ってもみなかった。


「何だ、こりゃ」


 思わず漏れた自分の声が妙に甲高い。掲げて見た両手は細く、ボロ布の切れ端を纏っただけの身体もやけに小さい。自分が何か奇妙な出来事に巻き込まれたことはわかったが、それが何なのかは微塵もわからない。冷静に考えてみようと思ったが、最後の記憶は光りのなかに呑まれて消えた。

 ああ、そうだ。あの光は俺が生まれて初めて見るはずだった武道館の花道。


 人生を賭けた夢の終着点だった。


 プロレスラーとはいってもインディ上がりの俺は遅咲きで、いくつもの団体を渡り歩いてきたが時流に乗れず常に廃業寸前の低空飛行。たまたま勝ち取ったの実績を評価され、極一部のコアなファンやベテラン選手から好意的な評価をもらえていたものの、お座敷が掛かるのもせいぜい月に数度、それも小規模興業へのフリー参加では食えるわけもなく。収入の大部分は新宿の外れにある居酒屋からのバイト代で賄われていた。

 料理と客あしらいの上手さは評価が高く、むしろ天職は居酒屋店員だというのが周囲の意見。本人もわかってはいたがレスラーを引退する気はない。


 少なくとも、いまはまだ。


 半年後に行なわれるメジャー団体主催の対抗戦で、前座の後とはいえ東京武道館での試合が決まっていたからだ。

 相手はバフ・スタンピード。かつて一世を風靡した伝説のマスクマンだ。怪我と病気で引退を表明したとはいえ、いまだ衰えを感じさせない四十半ばの技巧派大ベテラン。ちなみに195センチ130キロの巨躯と長くアメリカのリングで活躍してきたプロフィールから殆どのファンがアメリカ人と思っているが、日本人である。会津若松出身の牛山陽一さん。日米マット界を股に掛け暴れ回った“荒ぶる猛牛”だが、素顔は穏やかな癒し系だ。

 彼とは、恩讐相半ばする長年の因縁があった。

 俺が新人時代に紛れ当たりしたインディエースの座を、彼が面白がって自ら因縁をつけてヒートを買ってくれたのだ。報復のため試合後の襲撃、という段取りで当時二十そこそこの自分は初めてメジャーのリングに上がった。

 そのときの後楽園ホールの空気を、いまでもありありと思い出せる。


 心や身体や財布がしんどくなっても辞めるに辞められなかったのは、あの人のせい――中途半端に顔が売れたため就職活動はギミック扱いされた――だが、それを乗り切って来られたのは、あの人のおかげだ。


 なにせ俺はまだ、あの人に思いを伝えてない。


 他人が聞いたら誤解されそうな言い方だが、お互い自己演出マイクの苦手なレスラー同士、心のうちはリングでしか伝えるすべがない。相見あいまみえる戦いの場リングにたどり着くまで、デカい借りを抱え続けるしかなかったのだ。

 そんな俺が手に入れた、一世一代の大舞台。それもまた、俺のために牛山さんが用意してくれたものだった。


「バフさん」

「おう、来たか坊主」

「この度は本当に……」

「いい。しっかりやれ」


 数年ぶりの会話は、それだけだった。俺も牛山さんも、肉体以外の言葉を持たない。だからこそ、ようやく手に入れたこの場で、力の限り語り合わなければいけない。


 設営の音が木霊こだまする武道館の控え室で、俺は試合当日に向けての打ち合わせを終える。簡単な流れだけで、細かい調整は必要なかった。

 あの人とは相性がいい手が合う。他愛ない駆け引きから自然とリズムに乗れて、気付けば試合が観客ごとスイングし始めるのだ。もちろんその大部分は彼の技術と才能と人望によるものだが、自分の方も必死に食らいつき、ポテンシャル以上の結果を出してきたつもりだ。

 戦いながら心が震える相手というのは、歴戦の大ベテランでも見つけられることは稀だ。


 リングに向かう通路には、たくさんの人たちが会場設営や撮影の準備に駆け回っている。当日は衛星放送CS有料視聴PPV中継が入る。メジャーでは前座ばかりだった俺の試合は全国放送などされたこともないが、今度は大箱の第三試合だ。半端な試合は見せられない。盛り上がり次第で販売映像DVDにも拾ってもらえるかもしれない。レスラーにはキャリアのなかで、必ず何度かのターニングポイントがある。それを見極められるかどうかで、上がるも落ちるもアッという間だ。


「うしッ!」


 両手で頬を叩き、小さく気合を入れる。当日の歓声を想像しながら、俺はドアを押し開けた。


◇ ◇


「……で、このざまか。何が起きた。ていうか、どこだ、ここ?」


 異臭を放つ泥水から這い出し、俺はもがきながら土手の草むらを掻き分ける。振り返ると、つい先ほどまで浸かっていたドブ川の両側には崩れかけたバラックのようなものが延々と続いていた。

 新宿を中心に山手線沿いを移動するような暮らしをしてきた自分が、一体どういう状況でどこにいるのか。サッパリわからないながらも、ひどく嫌な予感がしていた。目の前で不思議そうな顔をして尻尾を振っている犬――らしき生き物――の目と舌が、ハッとするほど鮮やかなブルーだったからだ。目がおかしくなったわけではない。全体像としては犬なんだが、口吻と尻尾がやけに幅広く、カモノハシのようにも見える。そこそこの犬好きだった俺でも、こんな犬種は見たことがない。

 青舌カモノハシ犬(仮名)は、近付いてきた騒がしい物音にビクッと反応して、どこかに逃げ去る。


「このガキ、おとなしくしろ!」

「騒ぐと殺す。逃げようとしても殺す」


 土手の斜面に転がっていた俺の耳に、すぐそばから物騒な声が聞こえてきた。二人組らしい中年男の声。息を切らした女の声が、男たちに吐き捨てられる。


「はッ! ふざけんなよ。どうせ大人しくしてたって殺されるんだろ。じゃなきゃ殺してくれって泣き叫ぶような目に遭わされるか。お前らクズどもはスラムの住人をゴミとしか考えてないんだ!」


 まだ幼い。声からして10歳くらいだろうか。いまの自分の身体も似たようなものに見える。20年以上も鍛え上げた資産を全部どこかに置いてきてしまったようだが、黙って見ているわけにもいかない。志まで置いてきたわけじゃない。


 俺は、レスラーなんだから。


「なあ」

「うひゃい!?」


 いきなり背後から現れた汚泥塗れの俺を見て、女の子も中年男たちも固まっている。出てきてみたは良いが、何をどうしたらいいか考えてなかったことに気付く。


「ここ、どこだ」

「は?」


 最初に硬直を解いたのは女の子の方だった。明らかにサイズがデカすぎる男物のシャツを羽織った彼女は、その下は腰に小さな布を巻いただけだ。隙間からチラチラと肌が覗いているのを見る限り、その二枚の他には何も身に着けていない。


「うわ、何だそのカッコ」

「お前にいわれたくないわ!」


 確かにそうだ。ほぼ全裸で泥団子みたいになった俺に他人様ヒトサマのファッションセンスなど、とやかくいえた義理ではない。中年男のひとりが何かを振りかぶっている影が視界の隅に映る。


「……あぶッ」

「な!」


 考える間も無く身体が動いた。頭を下げて腰を落とし、両手で相手の膝を刈る。頭上を通過した棒らしきものは男の手から離れてどこかに飛んでいった。倒れた相手の上を転がるようにして体勢を入れ替え、後ろから頸動脈を締め上げて失神おとす。

 ひとつひとつは単純な、何千何万何十万回も繰り返された動き。身体いれものの形が変わったところで、中身は変わっていないようだ。

 もうひとりの男が、両手を伸ばしてつかみかかってくる。何の工夫もなく、何の目的も感じられない。最初の男よりも体格は良いのに。もっと色々と考えられたはずなのに。


“考えろよボケが、そんなんで客が満足するか?”


 古参レスラーの口癖が頭に響いて笑いそうになる。メジャーはともかく俺の周りでは、体格に恵まれた選手ほど努力を怠る傾向があった。持てる者と持たざる者、それが入れ替わるまでにさほどの時間は要らない。その現実は如実で、直截で、残酷だ。

 例えば、こういうこと。


 俺は同じように両手を上げ、つかみかかってきた男の手を真正面から受け止める。


「えッ!?」


 こちらが取り得る対応策のなかで、それこそが最も予想外だったのだろう。男は戸惑った表情になるが、目の前にいるのはしょせん細く小さいガキだ。体重差は倍近く、身長差も30センチはある。侮ったのか、すぐに残忍な笑みを浮かべてグイグイ押し込みに掛かってくる。


「思い知らせて……や、……る?」


 いくら体重を掛けても俺の身体が動かないことに、男の顔に焦りと苛立ちの表情が浮かび始める。使い方を知らなければ、力も重さも相手には伝わらない。


「……このッ!」


 勢いをつけようと伸びあがった男の手首を内側に捻りながら固めて肘をめ、組み合った指を反らすと同時に挟みつけて締め上げる。腰が浮いて体重は分散し、筋力は行き場をなくして男は成す術もなく悲鳴を上げた。


「あだだだだァ……やめッ、ぎゃああッ!?」


 横目で見ると、女の子は最初の男が落とした棒のような何かを拾い上げたところだった。目には怒りと憎しみ。口元には歪んだ笑みが浮かんでいる。俺の正面、男の背後に回った彼女が何をするつもりかは聞くまでもないが、いまこの体勢でそれは勘弁して欲しい。殴打直前に男がヒョイと頭を下げるだけで、仲間の攻撃が誤爆する俺のタッグ戦定番ムーブが達成されてしまう。


「せえ、の……」

「ちょ、待て待て待て待て!」


 彼女が振りかぶる前に俺は男と組んでいた片手を離し、残った方をめたまま転がしてスイングの当たる範囲から離脱する。力の加減を誤ったのか男の手から腕へと段階的に関節が外れるボリボリいう音が響いたが知ったことではない。


「押さえててよ、何で逃げるの!」

「逃げるわ! 俺を巻き込むな!」

「失礼ね、あんたを狙ったりしないよ」


 鼻先を掠めたブレブレのスイングを見て、信じられる訳ないだろうがと心のなかで突っ込む。


「あら、やるまでもなかった?」


 振り返ると男たちは動かなくなっていた。ひとりは白目を剥いて舌を出し、ひとりは有り得ない角度に曲がった腕で泡を吹いて、失神している。女の子は男たちを土手の端まで引きずっていくと、ドブのなかへと次々に蹴り落とした。

 蹴落とす前に懐から素早く財布を奪ったのが見えたから、どちらが被害者なのかは議論の余地があるのかもしれない。


「やりすぎたか?」

「冗談でしょ。殺さないでやっただけでも、あいつらより優しいわ」

「あいつらは何者?」

「え? 何者って、商会の人狩りよ。あんたもスラムの住人なら、見たことくらいあるでしょ」

「スラムの住人……なのかな、俺」

「は?」


 ようやく気持ちが落ち着いたのか、女の子は俺をしげしげと見つめてきた。つんと生意気そうな鼻面をしているが、どこかシェイプが立体的という気がする。具体的にいえば、顔全体がなんとなく前後に長い。視線を移すと彼女の頭の上に、三角に尖った耳があった。もしかしてカチューシャか何かではないかと観察する俺の前で、それは興味を持たれたことに照れるようにピコピコと動く。


 ――まさかこれは、ネコ耳というヤツか。


「いうやつのことかーッ!」

「ああもう、ウルサい! いきなり何なのよ! 人の耳ジロジロ見て失礼でしょ!?」

「ごめん、こんな可愛いミミ見たの初めてだから、興奮しちゃって」


 猫耳娘は怪訝そうな顔から犯罪者を見るような表情に変わる。冷静に考えると半裸の女の子相手にいうべきセリフではなかった。よく見れば顔立ちといいスタイルといい、怪しげな男たちがかどわかそうとするのも頷けるほどの美少女だ。薄汚れた肌にボサボサの髪でもこれなのだから、磨けばそれこそ光り輝くほどの美貌に化けるだろう。

 猫だけに。


「改めてみると、ここいらじゃ見かけない顔ね。さっきのおかしな動きといい、獣人族も人買いも知らない無知蒙昧さ加減といい、なんかヘンね。あんたこそ何者?」

「何者……といわれましても、通りすがりの泥田坊というくらいしか自己紹介のしようもないのですが」

「何で急に敬語なのよ」


 返答に困る俺を観察しながら、彼女は大きな瞳でジッと覗き込んでくる。真剣なその表情が、小さな鼻息とともにフニャッと崩れた。


「ま、いいか。助けてもらったんだから信用するわ。よかったら、うち来なよ」

「え? いいの?」

「うん。お礼くらいしたいし、あんた臭いから洗わなきゃね」


 初対面にしてお家お呼ばれに成功しました。中学高校と鍛錬に打ち込み、筋肉とプロテインだけが恋人だった前世(?)とは大違いだな。うん、これは幸先良さそうだ。ご両親に挨拶しなきゃ。

そうしなきゃ。


「あたしネリス。氷矢フリーズボルトのネリス。あんたは?」

「タイト。前いた町では、火の玉漢ファイアボールって呼ばれてた」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る