50 名前を呼んで
夜。あの小屋の中で、照明を落として、あたしたちは抱きしめ合う。
「――欲しい」
縹悟が、囁くように呟く。最近は、縹悟は壊れものを扱うようにあたしに触れてくるようになった。
ふと唇から吐息が漏れて、あたしは、突然、気付いてしまった。
縹悟は、今まで一度も、あたしの唇に、キスをしていない。
ぐるぐると記憶が巡っても、やっぱり、そうだ。
体には何度もいくつも唇が落とされたし、痕だってつけられたこともあるけど、唇にはキスをされたことがない。
あたしと母さんじゃ、やっぱり違うからだろうか。それとも、あたしへの罪悪感?
どちらにしたって、今目の前のあたしをちゃんと見てくれていないことに変わりはなくて。
ああ、なんだか、涙が出そうだ。
ゆるゆると服をはだけさせられて、流れていく時間に逆らうように、あたしは縹悟の首に両腕を回した。
「っ……縹悟、」
「どう、したんだい」
独特の熱をはらんだ声音に、戸惑いが混ざる。あたしはひとつ深呼吸した。
「キス……して」
「…………」
縹悟はそっと首を横に振り、黙ってあたしを抱き寄せる。あたしは縹悟の胸を力なく叩いた。
「なん、で」
「……すまない」
――そして縹悟は、あたしの名前を、決して呼ばないのだ。
これは少し前からわかっていたけど、今の気付きと重なると苦しさは増すばかり。
決めた、のに。決めた、けど。縹悟があたしを見ていなくても、あたしは縹悟のことを見ていようと。
でもやっぱり、苦しいものは、苦しいのだ。
あたしは縹悟をひきはがすようにその腕から離れて、間近で顔を見つめた。
「じゃあ、せめて――あたしの名前を、呼んで」
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