53 ふたりの時間を見つめて
するすると静かな縹悟の足音はどんどん近付いてきて、あたしの部屋の前でぴたりと止まる。
「……涼音」
縹悟の控えめに名前を呼ぶ声に、あたしはどう応えたらいいのかわからないくらい驚いた。
あたしが言葉を発せないうちに、縹悟は言葉を続ける。
「少し……散歩にでも、出ないか。話を、しよう」
「っ……」
これは、期待しても、いいのだろうか。縹悟は少しでも、あたしを見てくれる気になった……?
やっぱり言葉が出ないあたしが、拒絶していると思ったのか、縹悟の声が暗くなる。
「気が向かないなら、無理はしなくていいよ」
「……行く」
ようよう発した言葉に、縹悟が安堵の息を吐いたのが小さく聞こえてくる。あたしは急いで部屋を出た。
廊下に所在なげにたたずんでいた縹悟が、微笑む。
「応じてくれて、ありがとう」
「……あたしも、縹悟と話がしたいから」
「そうか」
縹悟に手でうながされて、あたしたちは並んで廊下を歩き、途中で出会った女中に上着を着せられて、屋敷の外に出る。そのまま適当な道を歩き出した。
「ずいぶん、冷えるようになったね」
「うん……」
「君をここに連れてきたのは、まだ暑い、夏の終わりだった」
「うん」
ぽつり、ぽつり、と言葉を交わしながら、ゆっくり歩く。
「あの頃は、君を道具のようにしか思っていなかったような気がするよ。一族のために必要な
「わかる……気がする」
縹悟は空を仰ぐ。今日は涼やかな秋晴れだ。
「それに、私が君に愛されるわけがないことも知っていたからね。ただ、私の手に収まる範囲に存在さえしてくれていれば、それでいいとも思っていた」
「…………」
そんなふうに、思ってたんだ。それは今のあたしと少し似ている気がする。
それは相当、辛い覚悟だ。
縹悟は止めていた足をまた動かす。あたしもついていこうとして、つんのめった。縹悟が手を差し伸べて支えてくれる。
「……ありがとう」
「いや」
ちょっとしたやりとりをして、縹悟はそのままあたしと手を繋いだ。
「でも君は……私のことを知ろうとしてくれた。そしてきっと、私が想像もつかなかった思いを寄せてくれているんだろう」
「……う、ん」
手のぬくもりが、伝わってくる。なんだか少し恥ずかしくて、でも嬉しい。
「できることなら、私もその気持ちに応えたいと、思う。でも……桑子さんに執着していた時間が、長すぎた」
「…………」
「君は涼音で、桑子さんではないのにね。昨夜は無神経なことを言ったよ」
「……あたしも、感情的になって、悪かったから、おあいこ」
名前を呼ばれるだけでいちいち心臓が跳ねる。おあいこ、と言ったら、縹悟が小さく笑った。
「君は私に甘いね」
「そんなこと……ない」
「私が悪かった。そういうことにしておいてくれないか」
「……そこまで、言うなら」
縹悟は手を繋いだまま、あたしの方を振り返る。
「正直、わからないんだ。どうやったら、君の思いに応えられる?」
「…………」
あたしは自分の心の中を探る。簡単に、その答えは出てきた。
「あたしは、今の縹悟に、今の、目の前にいる、あたしを見てほしいだけ。過去に、母さんに、囚われていないで、今を一緒に生きたい」
「…………」
縹悟は面食らったようにふちなし眼鏡の奥の目を瞬かせ、考えるように目を伏せた。
「過去に囚われていないで、か。たしかに、私はずっと過去ばかり見てきたかもしれない」
あたしは黙って縹悟の言葉の続きを待つ。縹悟はしばらく考えてから、困ったように眉を下げた。
「……少し、時間をくれないか。整理する時間がほしい」
「……わかった」
一生縹悟の気持ちがわからなくて苦しむよりは、結論を出してくれたほうが、あたしもきっと気が楽だ。
あたしは縹悟を待つことに決めて、こくりと頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます