第三章 縹悟という男

28 現実を知るということ

『それでも、私は君がこの里から出ていくことだけは許さない』


 頭の中で、何度も絶望的なあの言葉が繰り返される。あたしは涙が止まらないまま、部屋に戻った。


 あたしが、ここから出ていくことは、許されない。


 あたしは、この里から、この一族から、あの男から、逃げられない。


 あたしは布団に突っ伏して、枕に顔をうずめて声を嚙み殺しながら泣いた。


 なまじ一度希望を見てしまっただけに、逃げられないという事実が重くのしかかってくる。苦しい。辛い。


 なんであたしがこんな目にあわなくちゃいけないんだ。


 体の状態を把握されて、食事の時間も相手も決まっていて、その日誰と話すかまで決まっている生活。


 こんなのを一生続けろっていうの? なんて窮屈で、自由のない――。


 そこまで考えたところで、はたと顔を上げた。止まった涙の最後のひとしずくが、頬をつたっていく。


 あたしにも許されている、自由が、ひとつだけある。


 それは、知ること、だ。


 今までのあたしはどこか受け身で、練の思惑に気付かないまま、宗主のことを知らないまま、ここまできた。


 だからあの言葉の意味もわからないままだ。『――他ならぬ私が、君のことを必要としているから、だよ』。


 そう、特に知らないのは、宗主のことだ。あたしを無理やり連れてきて、この里に閉じ込めた、張本人。


 最初は血のためだと言っていたけど、さっきの言葉にはそれとは違う意味があるように感じられる。


 でもその正体はもやもやしていてつかめない。


 あたしがずっと、彼を避けてきたからだ。知ろうとしてこなかったからだ。


 逃げられないなら、離れられないなら、受け入れるしかない。知るしかない。


 怖がらずに、今、目の前にある現実と、正面から向き合うんだ。


「……ごめん、母さん。あたし、逃げないよ」


 一番知らなきゃいけないのは、彼がどんな人で、なにを考えて行動しているかだ。


 あたしは涙の名残りをぬぐって立ち上がる。窓の外に細い三日月だけの、暗い部屋。


 でも胸にわだかまっていた苦しさは和らいで、明日からどうすればいいだろう、という前向きな不安だけがぼんやり漂っていた。

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